◆ 時、淀みし世界へ(2)
「あれっ、どこ行くんですか? クレア様」
宮殿内をふよふよ飛んでいた私は、通路を横切っていく天使様を発見した。
「シェリーこそ。部屋に戻ったんじゃなかったの?」
「明日からどうなるのかなぁって考えたら、緊張して眠れなくなっちゃって……それに私、ずっとフォータ離宮にいて、こういうところ初めてなんで、ちょっと探検を」
(東塔じゃ、あんまり似たような道が続いて、うっかり迷子になるとこだったけど)
頭を掻きつつ説明すると、クレア様は、なんだか嬉しそうに笑った。
「そう。私もね、寝る前に少しインフォスを見てこようかと思って。すぐ戻るから、ティセに会ったら伝えておいてくれる?」
「わー! 私も、ご一緒していいですか?」
「……え?」
「えっと、その。ローザはティタニア様の伝令とかで、何度も地上に降りてるんですけど――私は、こっちに来るまで妖精界から一歩も出たことなくて、行くの初めてなんです。ご迷惑にならないように、おとなしくしてますから!」
クレア様は 「そうなの?」 と、青い瞳を丸くしている。
(やっぱり、意外だったんだろうなぁ……)
妖精界は、天と地上の中間に位置している。私たちは、より人間に近い種族なのだ。
だからこそ “勇者” に対する直観力が優れていて、逆に、天使の姿が見えなくても妖精ならというヒトもいる。ずっと地上で暮らしている妖精も珍しくないから、私も地上に慣れてるって思われてたんだろう。
「じゃあ、行ってみようか。インフォスに」
「はいっ!」
並んで追っかけて飛びながら、私は元気よく頷いた。
天界の門や、空間の扉と呼ばれるモノは、物理的には時空の歪みなんだそうだ。
大天使様クラスの術者なら、自力で異界へ渡ることも可能らしいけど、そんな芸当は逆立ちしたって出来っこない私たちにとっては、妖精界と地上界、それに天界――場合によっては魔界を繋ぐ、唯一の道になるわけで。
「うわ、おっきぃ〜!!」
ただただ圧倒されて、前を見上げる。
話に聞いてはいたけど、初めて目にするそれは巨大な鋼の鏡にしか見えなかった。
3メートルはありそうだ。硬質な輝きを放つ “扉” が、中庭の四方に安置された結晶石から、びりびりと迸る光を支えに宙に浮かびあがっている。
「ええと。鍵穴は、これと……こっちね」
クレア様が、謁見時に託された銀の鍵を使い、二重に絡まった鎖を外していく。
ぎぎぃっと押し開けられた奥には、雨が降りだす寸前の空みたいな鉛色が広がっていた。試しに指先を伸ばしてみると、波打つぬるま湯に包まれたような奇妙な感覚がある――とはいえ、これから毎日来ることになるんだから、いちいち気にしていられない。
「私に、つかまって行く?」
「は、はい!」
私は一も二もなく頷いて、柔らかい胸に抱かれたまま扉をくぐった。
(ひゃ……!?)
浮遊感のあと、急に身体にかかった荷重が。
クレア様が翼を広げると、ふっと和らいで。シャボン玉に乗って、空を飛んでいるような錯覚に包まれる。
自然発生する、時空の歪み自体に毒性はないらしい。
ただ、通過するにはけっこう負担がかかるから、子供や病人は外界に出ることを禁じられている――抵抗力が弱いと寿命を縮めかねないし、万が一、出口を見失いでもしたら、半永久的に世界の狭間を彷徨い続けることになるからだ。
それでも、妖精界の規制はずいぶん甘いもので。
天界じゃあ、門には常に軍の精鋭が監視に立っていて、扉があるのもベテル宮を含む数箇所のみ。それすら特殊加工された鍵を使わなければ、絶対に開かないという。不必要な道を探して破壊する “結界護” って役職まで存在するらしい。
呆れるほど厳重に管理されているのだ――魔族の侵略を許さない為にも。
ティタニア様が言うには、私とローザが補佐として選ばれたのは、この耐性が標準値を越えていることも理由のひとつだそうで。
(でも、耐性があってもなくても、ぼんやりしてたら風に吹き飛ばされそー……ひとりで通るときは、気をつけよっと)
そんなことを考えていると、不意に空気が変わって。
×××××
視界は開けた。
空間の扉を抜け、地上界インフォスへ辿りついたはずなのに。
(…………寒い……?)
それが真っ先に抱いた感覚だった。水属性の身に、鳥肌が立つほど――ねじれた大気が悲鳴を上げている。
「クレア様……ここって、なんだか」
同じことを感じたんだろう、シェリーは不安げに辺りを見渡していた。
吹きつける突風に煽られないよう、クレアは、なるべく妖精を庇える位置に留まる。
インフォスの文明レベルは、天界が定める標準値を越えている。他の星と比べてもけっして低くない――にも関わらず、眼下に広がる大陸は影としか映らない。光源に乏しいからだ。
初めて目にした地上は、悪天候ゆえか淀みの余波か、月の光すら届いていなかった。
(兄様も、こんな風景を見たの……?)
知らず、表情が強ばる。
十年かけてインフォスを救えたとしても、生物は、すべて同じ強さを持っているわけではない。弱く繊細なものから先に、命を削られていくのだから。
「歪みが、もう根付いてしまってる――悠長に構えてはいられないわ」
「だ、だけど。しばらくは大丈夫なんですよね!? すぐに滅びちゃったりしませんよね」
顔を引き攣らせたシェリーが、真摯に訊ねてくる。
「そうね。今のところ、大きな混乱は起きていないはずだから……」
まだ “世界” に余力があるがゆえ、異常現象の原因は表面化しておらず、観測機関の調査も届かなかったのだが。
「ああ。今度こそジャマされるわけには、いかねぇからなぁ」
そこへ不意に響いた嗤い声は、自分じゃないしシェリーとも違う、ましてやこんな空域を通りすがるヒトなど、
「――ッ?」
悪寒と、鋭い痛みを感じたのは、ほぼ同時だった。
「クレア様っ!!」
シェリーの悲鳴。切り裂かれた右腕から、散った鮮血が視界を舞う。
アストラル体がほとんど干渉を受けないはずの、地上で――自分たちに危害を加えられる者がいるとすれば、それは、同じく世界にとって “異邦人” たる、
「魔族……!?」
クレアは反射的に飛び退き、第二撃から逃れた。
「けけっ!」
闇から浮かぶように現れた襲撃者が、ギラリとこちらへ向き直った。
褐色の毛皮に覆われた体躯、ふしくれだった角に、赤眼とコウモリの黒翼――群れで行動する習性を持つという。
(……下位魔族、ガーゴイル!)
天が異常を察知するに至った世界は、たいてい魔族に侵入されてしまっている。ろくな武器も持たずに来たのは軽率だった。
「シェリー、逃げて。帰り道――鍵の使い方は分かるわね? 扉を開けたら、すぐ閉めるのよ」
敵の動きを警戒しながら、小声で囁く。
「えっ? で、でも!」
「早く! ……大丈夫よ。倒して、ちゃんと追いつくから」
クレア自身の能力は、なんとか下位魔族を相手に立ち回れる程度だ。シェリーを守りながらでは戦闘に集中できない。
「は? たいした自信だな、ネーチャン。この数を相手に勝つつもりかぁ?」
「下級天使と、チビた妖精ふぜいが!」
哄笑が渦巻く。言葉どおり、ガーゴイルは増殖していた。そのうちの数匹が、うろたえるシェリーに襲い掛かろうとする。呪文の詠唱には、そのわずかな隙で充分だった。
『 ―― “ ディサス・エルジード ” ―― !! 』
言の葉は、魔力を糧に形を成し、あらゆるものを薙ぎ払う。
一帯に槍のごとく降りそそいだ白い光は、闇の眷属にとって猛毒そのものだ。効果範囲にいたガーゴイルは、瞬時に灼き尽くされて消滅していた。
浄化魔法。
回復魔法一辺倒のクレアが、唯一使える、神聖魔法系統の高位攻撃呪文。
いつだったか、幼なじみの天使が 『ナメクジに撒く、清めの塩みたいな威力』 ……と、けなしたいのか褒めているのか微妙な評価をくれたが、とにかく魔族相手に絶大な効果を発揮する。
いくら聖気が強かろうと、天性の素質がなければ駆使できない。高位魔法のほとんどを習得しているティセナでさえ、扱えない術だ。
「ごめんなさいね。下級天使にも、ひとつくらい取り柄はあるのよ」
注意を妖精から逸らすべく、しとめ損ねたガーゴイルたちを挑発する。
事実、自分が守護天使に指名された理由は、兄の実績と、この魔法だろうとクレアは考えていた。
「てめぇ……!!」
いきり立つ魔族の群れが、首を揃えてこちらを睨みつけ。シェリーは泣きそうな顔で、
「すぐにティセナ様を呼んできますからっ!」
どうにか戦闘空域から逃れてくれた。妖精の動きは素早い。これで何匹か取り逃がしてしまったとしても、追いつかれはしないだろう。
(……あとは、ティセを呼ばれちゃう前に……なんとか振り切らなくちゃね)
じりじりと間合いを詰めてくる敵に、身構えながら。
クレアは、接近してくる新手の気配を否応なしに感じていた。
主人公クレア。ラスエル氏の妹です。
インフォスの正常な時流は、天界の約15倍の速さと設定しています。