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◆ ガーゴイル、急襲(1)


 小さな、悲鳴が聞こえた気がした。
 野鳥の類かと、特に深く考えず――外を眺めやった青年は、絶句した。

「どうしたのですか? シーヴァス様。急に、宙を見つめて……」
 メイドのレジーナが、不審げに訊ねてくる。
 そう。暖炉の火をつけっ放しだったためか夢見が悪く、夜中に目が覚めた。庭へ出てしばらく風に当たり、屋敷に戻ったところで――最近この館で働き始めた少女に、声をかけたのだ。夢の続きであるはずがない。
「いや、そこに魔物が見える」
 ずいぶん滑稽な台詞だと、口にした後になって思った。
「やめてください、気味の悪い……どこです?」
 窓枠に手をかけ身を乗りだしたレジーナが、疑わしげに 「私には見えませんよ」 と首を振る。

 それはそうだろう。
 シーヴァスとて、23年前に生まれてから今日に至るまで、そんなものに出くわしたことはなかった――が、魔物でないなら何だというのだ? 先刻まで誰もいなかった花壇に座り込んでいる、翼の生えた女を。

「いま、声が聞こえた気がしたのだが……」
 幻に決まっていると両目を擦れど、非現実的な光景は変わらない。
「お疲れになっているのでは? 夜遊びばかり、していらっしゃるそうですものね。シーヴァス様は」
 半ば呆れたように、少女は笑った。
「そんなことは、ないのだが」
(なるほど。口説き文句に乗ってこなかったのは、ジルベールあたりに余計なことを吹き込まれていたせいか?)
 道理で反応が冷静だったわけだ。たった三日の間に、なにをどう聞かされたのやら。
「下がってくれ――あとで、君の部屋で会おう」
 そんなふうに、誘ってみたものの、
「ええ、分かりました。少し、お休みになられてください。シーヴァス様」
「ああ」
 軽くかわされてしまっては苦笑するしかない。それに、これ以上、甘い言葉をささやき続ける気分にもなれなかった。


 どうしようかと迷ったが、このまま部屋へ戻っても眠れはしないだろう。
 そう結論づけ、外に出てみる。


 三月下旬とはいえまだ肌寒く、ぐずついた天気のせいで視界も悪い。屋敷から漏れる薄明かりだけが、ぼんやりと庭園を照らしていた。
「痛っ! あ……やだ、どうしよう……」
 女は立ちあがり、足元を見つめているようだった。

 物音を殺しながら、距離を詰めていく。

 なにしろ相手は得体が知れない。すぐさま斬りかかれるよう剣を持ち出してきたものの、賊や魔物と対峙したときに感じるような、物騒な空気は皆無で――それどころか宵闇の中、彼女の周りだけが静謐に淡く輝いていた。
 ゆるく波打つ銀髪に、硝子細工めいた繊細な美貌。
 藍の刺繍が施されたローブから、わずかに露出した肌は雪のように色素が薄く、透きとおる白い翼も鮮やかな姿と。
 足元に咲き乱れるスズランの色彩が見事に調和して、まるで一枚の絵のようだと思った――が、よく見ると、彼女が座っていた辺りの花が、無残に散ってしまっている。

 折れた花々を困ったように眺めていた娘は、翼をはためかせ宙に浮かび上がると、よく聞き取れない言語を紡いだ。

(夢……なのか? これは)

 淡緑色の輝きが、花壇を包み、消えると。
 踏み荒らされていたはずの白い花は、何事もなかったようにそこに咲いていた。
「良かった。地上の花にも効くのね」
 感心したように呟きながら、石畳へ舞い降りて。
「あ。でも、これって戒律違反……じゃないわよね。あるべき姿に戻しただけだもの」
 こくこくと頷いている、翼ある乙女の姿は気圧されるほどに美しく――だが、声を聞き取れるほど近づいたことで、違和感にも気づいた。
 刃物で裂かれたような、真新しい傷口から流れては、純白のローブを紅く染めている血の。

「やはり幻ではないな? 何者だ、貴様は」

 考えるより先に言葉が口をついて出た。
 悪夢の残像を、振り払いたかった。険のある口調になっていると自分でも分かったが……どうしようもなかった。
「え?」
 振り向いた娘と、まともに視線が合い。
 やはりこいつは、人間を魅了して連れ去る妖魔の類ではと、つい、そんなことを考えてしまう。
 どこまでも青い、瞳の色。吸い込まれそうなサファイアブルー。
「ええと――」
 彼女は驚いた様子で目を瞬くと、四方をくるくる見渡した。
「あの。私のこと、でしょうか?」
 おっとり小首をかしげ、訊ねてくる仕草は子供めいて。さっきまでの近寄り難さも和らいだが。
「他に、誰がいる?」
「それは、そうですけど。人間には、天使の姿は見えないはずなんです」

(…………天使……?)

 確かに姿形は、そう見えるが。
 なぜ神の遣いがこんな真夜中に、しかも傷だらけで現れるのだ? 美女に化けた魔物と考えた方が、まだ納得がいく。
「フッ、笑わせるな。断りもなく屋敷に足を踏み入れ、人間を驚かせるのが “天使” とやらの流儀か? 私は、たとえ天使と自称していようと、礼儀を知らん奴は気に食わんな」
 害意ある存在ではなさそうだと思うものの、完全に警戒を解くことも出来ず、自然、詰問調になってしまう。
「す、すみません! 勝手におじゃましてしまったことは、お詫びします。すぐ出て行きますから――」
 自称天使は、ひどく恐縮しながら謝ってきた。またも調子が狂う。
「いや、べつに追い出すつもりは」
 とにかく怪我を手当てすべきだろう。そう思い、口を開きかけた瞬間、
「!」
 ぴくりと身を引き攣らせた彼女は、優雅に会釈した。
「夜分にお騒がせしてしまって……すみませんでした。失礼させていただきますね」
 頭を上げ、ふわりと白い翼を広げる様は、まさしく完璧なまでに天の御遣いだった。夜空に融けるように掻き消え、気配も急速に遠ざかっていく。

 シーヴァスは、その場に立ち尽した。
 天使が実在したという事実に驚いたこともあるが、それより彼女の、態度の不自然さに引っ掛かっていた。
 初対面の相手に違和を感じるのも妙な話だが――最後のあれは、作り笑顔だったような気がする。

「……なんだったんだ、いったい?」

 考え込んでいると唐突に、背筋を、悪寒が奔り抜け。
 反射的に抜刀し、頭上を仰げば――黒雲に覆われた空を過ぎる、コウモリに似た異形の影が。
「なっ!?」
 海岸へなだれ込んで行った、とたん閃光が虚空を焼いた。
 次いで響き渡る、獣じみた咆哮。異変に目を覚ました鳥たちが、園の木々から一斉に羽ばたき逃げてゆく。
(なんだ? なにが起きている?)
 嫌な予感がする。逡巡と焦燥がせめぎあい、天使の姿が脳裏をかすめた。
 なにより、規格外の大きさからして間違いなく魔物の類だろう、モンスターの大群に近辺をうろつかれては、おちおち眠ってもいられない。

(放置すれば、街に被害が及ぶかもしれんしな……)

 一般市民の安全確保も、騎士に課せられた義務である。屋敷を飛び出した、シーヴァスは浜辺へと急いだ。

×××××


「ちょろちょろ逃げ回ってんじゃねーよ、このアマ!」
 ちりっと耳朶をかすめた爪撃に、切れた毛先が糸のように舞い、散る。
「そっちこそ、どこから出てきたのよっ!?」
 クレアは息を切らしつつ、叫んだ。
 魔族といえど生物で、無尽蔵に湧いてくるはずはないのに、ぞろぞろと――終わりが見えない。
(私……今までに何匹、倒したっけ……?)
 羽の付け根を斬られ、地上に落下したとき同じ箇所を痛めたせいで、ただでさえ良くもない動きが更に鈍っている。
 けれど、こう数が多くては逃げられそうにない。群れそのものを殲滅しない限り。

「いい加減に、死ねやっ!!」

 放たれた真空波が、足元の岩を片っ端から砕いていく。
 疲弊した状態では避け続けることも出来ず、バランスを崩したクレアは爆風に弾き飛ばされた。
「きゃうっ!?」
 反射的に身構えるも、ぶつかった “なにか” は痛みをもたらさなかった。硬くも柔らかくもなく、少し温かい――

(…………生き……物……?)

「だいじょうぶか?」
 身をよじり、斜め上を窺うと、気遣わしげな視線が向けられていた。
 岩壁に激突しかけたところを、抱き止めてくれたらしい人間の。夜に映える、金の色彩には覚えがあった。
(さっきの……綺麗な花壇があった?)
 だが、おかしい。あの家からは、かなり離れた位置まで移動したはず。なぜ、この青年がこんなところに現れるのだ?
「事情は知らんが。男が大勢、女性は一人という時点で――どちらが加害者かは明白だな」
「? ??」
 混乱するクレアを背に庇い、青年は険しい表情で、ガーゴイルの群れへ長剣を突きつけた。
「何者だ? 貴様ら」
 思わぬ乱入者を前に動きを止めていた、魔族のうち一匹が嫌な笑みを浮かべ、確信に近い疑念を口にする。

「てめぇ、まさか俺たちが見えてんのか?」

 それがどうした、という返答に、殺気が一斉に蠢いた。
「こりゃあいいぜ! 金髪の、男――ってえと、もしかしてアドラメレクが仕留め損ねたってヤツか?」
「なんにしても天使と資質者、両方いっぺんに殺れるわけだ! ギシャシャシャシャ!」
 あきらかに眼前の人間を、新たな “獲物” と定めて。

「な、なにを言っているの? この人は関係ないでしょう!」
 うろたえ前に出ようとしたクレアを、青年はスッと右腕を伸ばして遮り、咎める。
「下がっていたまえ。傷に障るだろう」
「そんなこと、どうだって……そもそもどうして、あなたがいるんですか? 早く逃げてください!」
「バカを言うな、私は騎士だぞ。この状況で女性ひとりを置いて――そうでなくとも、あんなモンスターを引き連れて逃げられるか!」
 青年の主張するところは、クレアには理解不能だった。
「キシの小説家か盗賊さんか知りませんけど、とにかくここから離れて! 下位魔族は、光差す場所には存在できない……あのお屋敷なら、安全ですから!!」
「なにを訳の分からないことを言っているんだ、君は!」
「分かっていないのは、あなたでしょう!?」
 埒が明かない、押し問答だ。筋道だった説明をする時間の余裕はないのに――

「なぁに、逃げる必要なんかねぇさ」

 くっくっ……という嘲笑に、思考を断ち切られる。

「どーせ、この世界は、あと一年も経たずにぶち壊れるんだからな。死ぬのが早いか遅いかの違いだろ? あんたや、その男、ついでに天界の馬鹿どももなぁ!!」

 そうしてガーゴイルの群れは、一気に襲い掛かってきた。




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スカウトシーンのメイドさんですが、シーヴァスの口説き文句を軽く聞き流しているように見えたんですよねぇ。やっぱ、美形な主にキャーキャー言ってるようじゃ、ヨースト邸の使用人は務まらないでしょう (笑)