◆ ラスエル(2)
運び込まれた宿のベッドで、ナーサディアは、昏々と眠り続けていた。
最初は、ただ気を失っているだけと考えていたが――丸三日過ぎてもまったく目覚める気配が無い、勇者の容態がだんだん心配になってきて。
(まさか、また別の呪いをかけられたんじゃ!?)
仇敵は討ち果たしても、まだアポルオンやガープが何処かに潜んでいるはず。
もしくは長い間かかっていた、相反する術が解けた反動で、このまま……衰弱死してしまう?
次々と浮かぶ嫌な想像に居ても立ってもおれず、一度、ティセナを呼び診てもらったが――瘴気の残り香もせず、ただ眠っているだけだと少女は答えた。
『本人が無意識に、目覚めを拒否している可能性はありますけど』
ボルサで負った外傷は、すでに魔法と回復アイテムによって癒えている。
けれど、心は――ラスエルを本当に失ってしまったインフォスで、生きていたくないと思うなら。ずっと眠っていれば、もう傷つかなくて済む。
二度も堕天使との争いに巻き込まれ、それでも戦い続けたナーサディアが、優しい夢の世界に留まったとて……いったい誰が責められるだろう?
「ちょっと、ジャックのところへ行ってきますね。近くの森に」
ベッドサイドの椅子から腰を上げ、静かに寝息をたてる白い顔を覗き込んでみた。
相変わらず応えはない、けれど聞こえていれば良いと思う。
目が覚めたとき一人だったら、きっと悲しくて耐えられないから。
「寒くない? ジャック」
「……クレア殿か」
大樹の根元にうずくまっていた神獣は、むくりと身を起こした。
「獣は元来、野山に暮らすもの。そういった気遣いは無用だぞ――雪でも積もれば、さすがに堪えるが」
物静かな声音に少し、苦笑めいた響きを乗せて言う。
「しかし……人里へ入れない、この姿は不便だな」
ジャックハウンドの攻撃手段は、鋭利な牙や角。いくら頑丈だといっても生身に違いなく。
鞭を武器とし、敵に対して多少は間合いを取れる勇者以上に、あちこち深手を負ったが――今は、その痕もすっかり消えていた。艶やかな毛並みは夜の森で、淡い光を纏ったように見える。
「私がナーサディアに付き添っていられれば、貴女は、守護天使としての任務に集中できるだろうに……」
「いいのよ。敵襲を警戒してもらっているだけでも、ずいぶん気が楽だもの」
なによりジャックハウンドとて、ずっとここに居られる訳ではない。
今、彼の主はヤルル・ウィリングだ。
合成獣レライエとの戦いを経て、父親が死んだ理由、“ラッシュ” の事情もすべて判ったうえで受け入れてくれた、信頼関係はそう簡単に揺らぐまいが。
いくら散歩に出掛けると言い置いて来ても、そこいらの魔物に後れを取るような獣ではないと知っていても――あまり長く戻らなければ心配するだろう。
ラスエルと交わした約束や、ナーサディアを案ずる気持ちに優劣は無くとも、ヤルルの年齢的な幼さや母子家庭であること、経緯はどうあれルドックの命を奪った事実を踏まえれば、ウィリング親子の保護が優先されるし。
ナーサディアに意識があれば、やはり 「早く帰ってあげなさい」 と笑って促すだろう……この喪失感を、なにも言わずとも解り合える数少ない相手と、まだ離れたくないと思っていても。
むしろ、現状に甘えているのはクレア自身かもしれなかった。
残る堕天使は、アポルオンと、未だ姿を見せぬガープだけ。敵がいつ、どこに出現しても対応できるよう、勇者たちには各地で待機してもらっている。
フィアナはもちろん、タンブールの教会で。
南大陸中央部、少女ティアが暮らすオムロンに、グリフィンが留まり。
アーシェは元より、王都グルーチから動けぬ立場。
レイヴ率いる騎士団が守っている、ヘブロンと。
ベルフェゴールを倒したばかりのカノーアでは、魔物も息を潜めており、当面の心配は無い。
なにより、リュドラルたち竜の一族が、デュミナスだけでなく近隣も見回ってくれているとなると――心許ないのは、グリフィンが滞在する土地の反対側。キンバルト王国に広がるブスダム砂漠から北のエリアだった。
エスパルダに縁ある勇者はおらず。
隣国の姫・アーシェとて、昔のように自由に出歩いたり、無条件にファンガム軍を動かすわけにもいくまいと。今はシーヴァスに、インフォス西端への移動を頼んでいる。
ナーサディアが目覚めたら。
……いや。なおも昏睡状態が続くようなら、彼女のことは戦力外と割り切って、危険を伴う旅路の援護に向かわなくてはならない。
ジャックハウンドにも、タンブールとデュミナスの中間に位置するガルフに居てもらえた方が、なにかと助かる。
“ラスエルの恋人” だからと特別視して、人手を割き続けるわけにはいかないのだ――兄が愛した人と世界に、今度こそ平穏を取り戻す為には。
『守護天使として、地上に関わっていくつもりなら』
謹慎中、レミエルにかけられた言葉を思い出す。
インフォスへ降りる役目を剥奪されかねなかった、あの日々で、確かに決意を固めたはずなのに。
『少し……頭を冷やしなさい。クレア』
こんなふうに親しい人に、なにかあっただけで迷うなんて。
インフォスに来る前と比べて、魔法の力量はずいぶん上がったけれど――心は、なんだか脆くなってしまった気がする。
昔はもっと純粋に、使命感だけで行動出来ていたように思うのに。
どうして、いつから、こうなった……?
(――しっかりしなきゃ)
感傷に浸っている場合じゃない。なにしろ時間が無いのだ、インフォスには。
「ジャック。見張り番は、今夜で終わりよ」
青い毛並みを撫でながら、務めて明るい口調で言う。
「夜が明けたら、ガルフへ戻ってね」
「……しかし、ナーサディアは」
「明日中に意識が戻らなかったら、結界石で安全確保して、私たちが交代で様子を見に来るようにするから、ね? あとは任せて」
神獣は、断るとも承知したとも応えず、考え込んでいる様子だった。
誰かに追い立てられるまで、動けない。ここから動きたくないんだろう――心情は、痛いほど解る。
けれど、たぶん朝になれば、重い足取りながらもヤルルの元へ帰って行くだろう。
己が果たすべき役割は自覚していて、動き出す理由、きっかけを欲する気持ちも同じようにあるはずだから。
「ナーサディア……!?」
ジャックハウンドを森に残し、宿へ戻ったクレアは、呆然と立ち竦む。
部屋はもぬけの殻だった。
まさか、ほんの少し目を離していた隙に、堕天使の襲撃があって連れ去られた――!?
取り乱しそうになる頭をぶんぶんと勢いよく振り、深呼吸して、順に考える。
アポルオンやガープが現れたなら、そんな膨大な瘴気には嫌でも気づく。仮に一瞬で現れ消えたとしても、ジャックハウンドの嗅覚なら必ず。
結晶石の反応は? 近くに?
……ある。
外だ。
紫色の人影は、宿の近くを流れる川辺に腰掛け、ぼんやりと景色を眺めていた。
「おはよ、クレア」
「あ。おはようございます――」
こちらが声を掛けるより先に、振り返った勇者に調子を狂わされ。
「……じゃないですよ! 今、夜ですし! さっきまで寝てたのに、いきなり居なくならないでください! 心配するじゃないですか!!」
「ごめんごめん。半分、寝惚けてたみたいで――」
深夜だ、人里だという配慮も忘れ大声で、詰め寄るクレアに苦笑しつつ、
「夢の中でね、ラスエルと一緒だったの」
「え?」
「ずーっと言ってやりたかった文句ぜんぶ。魔界に乗り込むなら、どうして私も一緒に連れて行ってくれなかったのよ、とか……ホントに、いろいろ。時間が経ちすぎて忘れちゃった不満も、多分あったろうけど、とにかく思い出せるだけぶちまけてやったわ」
ナーサディアは、ふっと視線を落とした。
「我ながら、ひどい言い草だったもの。いい加減、怒るか呆れるかしても良かったはずなのに――ラスエルったら困った顔して、ごめんって繰り返すばかりで。だんだん怒るのも馬鹿らしくなっちゃって」
クレアは戸惑いながらも、彼女の隣に腰を下ろす。
「もういいわ。私の為だったのよねって訊いたら、嬉しそうに笑うから」
ぽつり、ぽつり。
「笑って急に、歩き出すから。ちょっと待ってよって、追いかけて」
急激に薄れゆく記憶を辿り、形にするように語られる、
「そうしたら “置いて行かれたくないなら、おいで” って手を伸ばしてくれて、繋いで……ちょうど、こんな感じの川を一緒に、渡りきったところで目が覚めたの」
知らない兄の姿――“ナーサディアの恋人” であるラスエルが、上手く想像できず。
夢から覚めた彼女の心境も掴めずに、ただ黙って聞いていた。
ボルサでは、ほとんど話も出来なかったから……会いに来たんだろうか? 夢の中に。
伝え残したことを、伝えたくて?
聞けなかったことを、聞く為に?
そうしてナーサディアを現実に、連れ戻して行ってくれた?
「それで? 今は、なにか依頼あるの?」
「へ?」
「へ? じゃないでしょう。ベルフェゴールを倒しても、まだ堕天使は残っているはずよ」
「え、ええっと。あの。ティセや勇者たちの厚意に甘えて、ずっと、ここから離れていなかったもので――あまり詳しくは把握してなくて」
急に仕事の話を持ち出され、クレアは、あたふたと思考を切り替える。
「今のところ堕天使側に動きは無いので、どこに現れても対応出来るように、皆にはインフォス各地で待機してもらってます。ナーサディアは、このまま、カノーアに留まってください」
「分かったわ」
勇者は、笑って頷いた。
「早く決着つけなきゃ。心配性な誰かさんが、ずっと夢に出てきそうだもの」
その表情は、穏やかで。
意外にも、悲壮感や虚脱感に苛まれている様子など無くて。
「百年以上も、魔界の瘴気に耐えてきて。やっと楽に、なれたんだから……ゆっくり眠っていられるように、しなくちゃね」
「はい。インフォスが平和になって初めて、兄も本当に、安心出来ると思います」
夢に現れたという、ラスエルのお陰かと安堵した、けれど――
「ええ。だけど……死なないでほしかった」
普段と変わらない態度は、やっぱり強がりだったみたいで。
みるみるうちに歪んだ微笑が、泣き顔になって、声も小さく震えて。
「一緒に生きて、いたかったわ」
絞り出すように呟いた、ナーサディアは――声を上げて、泣いた。さらさら流れるせせらぎを掻き消すように。
2011年2月、最終章突入。フェバ小説を書き始めたのはサイト開設の半年以上前だから、軽く5年以上かかってるー(汗) 完結まで10年かかったら、ある意味タイトルどおりだなぁ。