◆ 恋の手ほどき(2)
……眠れん。
灯を落とした宿の一室で、ベッドに寝転んでいたシーヴァスは、もう何度目になるか分からない寝返りを打ち、溜息混じりに身を起こした。
まだタイムリミットに猶予はある、とはいえ気が昂っているのかもしれない。
もしくは少なからず “淀み” の影響がヒトの体内時計をも狂わせているのか――いずれにせよ、とうに日付が変わり街が寝静まっても、一向に眠くならないのはどういう訳だ?
エスパルダ領に到着してから待機状態が続いているとはいえ、日課としている鍛錬や近郊へ足を延ばしての魔物退治などで、それなりに疲れているはずなのだが。
(これでは任務に差し障るな……)
ここがヨーストの館なら、睡眠薬代わりの酒なり、眠気を誘う退屈な内容の書物なり、真夜中でも開いている社交場なり――眠れぬ夜の有意義な過ごし方も思いつくものを。
(しかし、残る敵は堕天使だ。昼間より、夜に現れる可能性の方が高いか)
昼夜逆転したとしても、敵襲に備えるにはむしろ好都合か? レイヴの奴は相変わらず、規則正しい生活を送っているだろうし、他の勇者も――
(いや、ナーサディアは夜型だという話だったな? 盗賊稼業のグリフィンも、当然……)
カーテンを開け、出窓に頬杖をついて。
どうせ眠れないなら散歩がてら外に出て、素振りでもしていようかと、ぼんやり考えていた最中――ふと気配めいたものを感じ、振り返れば。
朧な月明りよりも鮮やかに、宙に浮かぶ光源があった。
「!?」
青い炎。
蝋燭に灯した火を、握りこぶし大に固めたような。
とっさに跳ね起き、ベッドサイドに立て掛けていた剣を手に身構えるが、魔物の類にしては邪念も殺気も感じられず――寝入っていた自覚は無いが寝惚けているんだろうか、と眉を顰めつつ自問する。
“ひょっとして……僕が、見えている?”
囁きが聞こえた。
音ではなく、脳に直接響くような。
「なんだ、貴様は」
いったい、いつから侵入していたのか?
外見は、小型といえど完全にゴーストの類――悪意を感じぬと言っても寝不足気味なうえ、背後まで接近され気づかずにいた有り様では、己の直感もアテにならない。
“なんなんだろうね? 僕も、それが知りたいよ”
大真面目に困っているような声音で、炎は応じた。
“気がついたら僕は居て、だけど誰にも僕が見えずに、話しかけても聞こえないみたいで……鏡や水面を覗いても、なにも映らない。僕は何者で、なんの為に存在しているのか……ずっと考えている”
とぼけているのか、本当に分からず彷徨っているのか、シーヴァスには判断が付かない。
“ただ、声が聞こえて。君が――天使を地上に繋ぎ止める方法を、知りたいようだったから。答えを知っているから。契りを交わせばいいと、教えてあげようと思ったんだけど――見えずに聞こえなければどう伝えれば良いんだろうかって、考えていた”
つらつらと続く声は、そこで少し弾んだ。
“ねえ、君は僕が見えるの? それとも声が聞こえるだけ?”
「……声は聞こえる。見えるのは、青い炎だけだ」
毒気を含まぬ相手の雰囲気に、当初の警戒も多少ほぐれ。
「それが貴様の姿なら、この世の者とは思えんな――死霊の類ではないか? 害意が無いなら、さっさと天へ昇れ。魔物と誤解され斬り捨てられても、文句は言えんぞ」
魔族狩りが本業であるらしい、無愛想な少女を思い浮かべつつ忠告するシーヴァス。
“死霊? そうなのかな……”
しかし元から寝付けずにいたとはいえ、こんなものに居座られては安眠妨害だ。
道に迷った幽霊の類なら天使を呼んで、天界へ導いてもらうのが手っ取り早いだろうと、手荷物の中から結晶石を取り出しかけ――しかし、はたと動きを止める。
「待て。貴様、なんと言った?」
要領を得ない身の上話に紛れ、聞き流しかけていたが、この炎……さっき、妙なことを。
“なにがだい?”
「天使を――繋ぎ止める方法? 契りとは、どういう意味だ?」
“契りって、言わないかい? 天使としては死んで、生まれ変わらなきゃいけないから、先に翼を斬り落として……十月十日、その反動に耐える必要はあるけれど、降りたい地上と相性が良ければ回復力の方が勝るはずだから、それから”
炎は、ゆらゆら揺れている。
それに表情と呼べるものは無いが、あれば首でも捻っていそうな語調だった。
“ヒトの言葉で、なんて言うのかな……生き物が子供を作る行為、あるだろう?”
最初、言葉の意味するところが掴めず。
理解した瞬間――頭に血が上った。ここしばらく抱えていた鬱憤すべて、棘だらけの手で逆撫でされたような気分だった。
「やはり魔物か、貴様ッ!!」
クリスタルソードを一閃すれば、青い炎は跡形もなく消え失せた。
斬った手応えは無い……仕留めたのか、逃げられたのか、突き詰めて考える気にもなれなかった。
(なんだ、あれは! 堕天使の回し者か!?)
なにを言い出すかと思えば、よりにもよって……!!
血が上ったままの頭をイライラと、ひとしきり掻き毟り――シーヴァスは、部屋中のランプを点けて回った。昼間のように、とまではいかないが、月が出ていることもあって室内はかなり明るくなった。
(これだけ明るければ、低俗な魔物の類は紛れ込んで来るまい)
そう結論付け、頭から布団を引っ被る。
魔物でなければ睡眠不足が見せた幻覚だ、どちらにせよ、さっさと眠ってしまうに限る。
明日、目が覚めたら真っ先に、睡眠薬か酒を入手しに出掛けようと心に決めて。
シーヴァスは、羊を数える代わりに、王立学院時代に暗記したヘブロンの法律の数々を脳内で延々と暗唱し始めた……それでも到底、夢も見ずに眠れる気はしなかったが。
これじゃ手ほどきというより、悪魔の囁きですねー(汗) 本当にラスエルの残留思念か、堕天使が化けて唆しに来たのか、どっちの解釈でも良いと思っております。