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◆ 流砂の地獄(1)


 ……人には言えない、夢を見た。


 なだらかに南へと続く街道を歩きながら、汗を拭い、
「まったく、グリフィン――あの男、よく、こんな蒸し暑い土地で暮らせるな」
 本来この辺りを担当しているらしい義賊の、不良じみた格好を思い返しつつ、たまらず襟元を少し緩める。
 国土の大半を砂漠と荒地が占め、暑いという点ではクヴァールも同じだが、季節的なものもあってかキンバルトはとにかく湿度が高く不快だった。

 大陸南西のブスダム砂漠に巨大なアリジゴクが巣食い、旅人を襲うらしいと――物騒な噂を聞いたのは、エスパルダの首都オルデンにある酒場で時間を潰していたときのこと。もう何年も前から被害は出ていたが、年に数回だった頻度が最近急激に増し、旅慣れたキャラバンさえも怖気づいてしまうほどで、近隣の物流に支障を来しているという。
 あの妙なゴーストが現れた夜以来、イライラして夢見は悪いし、眠る為にと買った酒を少々飲みすぎたか、二日酔いめいた頭痛にまで苛まれる始末……それもこれも暇を持て余している所為だろう。
 乗合馬車を使えば一日もかからず辿り着ける距離、タチの悪い魔物など、さっさと退治してしまうに限る。
 放っておいて騒ぎが大きくなれば、ローザたちが事件として見つけ、天使から依頼が来るだろう――けれど正直、今はあまりクレアと顔を合わせたくなかった。
 いくら彼女に焦がれ意識しているとはいえ、無理強いするほど欲求不満でも、ましてや理性を欠いてもいないつもりだが……なにかの拍子に、ひた隠しにしている感情さえ見透かされそうで。
 砂漠地帯に差し掛かる手前、ノバの町まで行けばもっと詳しい話も聞けるはず。事態を把握し、一人では手に負えそうになければ妖精でも呼べばいいと考え、調べに出たものの――

「兄ちゃん、そっちは砂漠だよ。ウチの店で一休みして行かないかい?」
「けっこうだ。先を急ぐのでな」

 すれ違いざま話しかけてくる声を流しつつ、地図に目を落とす。
 移動にかけた時間からしても、そろそろノバに到着するはずなのだが、眼前に広がる光景は相変わらず荒涼とした一本道だ。真夏の太陽に体力を奪われ、思ったより歩くスピードが鈍っていたのか……それとも “淀み” の影響で、時計の針さえ目安にならなくなっているのか。

 熱を帯びた大気によって、ゆらゆらと揺れて見える代わり映えしない景色の中を、どれくらい進んだだろう?
 ふっと、蒸し暑い空気を割るように一陣の風が吹き抜けた。普通なら心地良く感じたかもしれない、だが、それは南国には在り得ない――ファンガムの雪原に逆戻りしたかのごとき冷たさで。
 その出所を確かめる間もなく唐突に、がくんと、足元が揺れた。

「――な、なんだ、これは!?」

 ありふれた街道の情景が、がらがらと……崩れていく?
 まるで壁に描かれていた絵を剥ぎ取り、粉々に砕いたように――壊れた端から現れる、一面の砂丘。遠い空。同時に地面が渦を巻き、ざらりと沈み始めた。
 慌てて飛び退こうとするも、足元から伸びた “なにか” に片足を掴まれ、身動きが取れない。
(腕……いや、角か?)
 舌打ちしつつ、未だ砂に埋もれて見えない、本体が潜んでいるであろう辺りを狙って剣で斬りつければ、

 ギィィィイ!!

 耳障りな咆哮を響かせ、楕円形の影が躍り出た。
 砂色をした毛むくじゃらの体躯に似合わず、細く節くれだった脚が四本、丸い頭部には赤く光る一対の目。
 斬り飛ばした部分は、やはり角――いや、触角らしく、半端な長さになった切断面から血だかなんだか分からない体液をボタボタと撒き散らしながら、のたうち回っている。馬小屋ひとつぶんはあるだろう、異常な巨体だった。
(これが、噂されていたアリジゴクか!?)
 なぜいきなり景色が一転するんだという理解不能さと、掴まれたというより咬まれていたらしい足首の痛み、さらには、もたついている間にだいぶ遠退いてしまった地表――手足を使ってよじ登ろうにも、踏んだ箇所から崩れていくことに気づき、思わず顔を顰める。
 このままでは敵を斬り伏せたとしても、砂漠に生き埋めだ。
 呼ぶしかないな、と結晶石に向けかけた意識は、眼前の異常な光景に奪われた。
 見えざる手に吊るされるように宙に浮いた、アリジゴクの腹がぱっくりと割れ――その中に、岩と砂ばかりの荒地が見えた。まるで崖の上から見下ろしたような角度で。
「な……」
 腹を斬った覚えは無い。しかも虫の中身が砂漠? そもそも何故アリジゴクが飛べる? 羽も無いのに?
 天使の勇者になってから遭遇した中でも群を抜いて非常識な現象に、呆気に取られていたのは数秒程度のことだったんだろうが――後になって思えば、敵前で動きを止めるなど自殺行為だった。

 アリジゴクの腹から冷気を帯びた黒い靄が、轟と渦を巻いて吹き出し、視界が一瞬、暗転する。

 強い力に引き摺られる感覚と、逆に突き飛ばされるような衝撃が前後左右から襲い来て、たまらず膝を突き――奇妙な浮遊感、次いで、さっきまでとは真逆の冷たく乾いた空気、靄が晴れて広がった景色は――ごつごつした岩ばかりの荒地、そこに渦巻く “嫌な気配” には覚えがあった。
 魔族に相対した際や、ボルサでも感じた、天使が “瘴気” と呼ぶもの。

「くく……くっくっく……」

 愉悦を含んだ声が響き、振り返った先にいたのは、
「ようこそ、我が領域へ……天使の勇者」
 二足歩行する巨象の背に跨り、鋭利な槍を右手に携え、オールバックの黒髪をなびかせた男――その容貌は以前、クレアが語っていた堕天使の特徴と合致する。
「……貴様が、アポルオンか」
 南大陸全土を襲った流行り病に、狂領主ビュシークが命じた幼子の大量虐殺、ファンガム大臣が起こしたクーデター、フィアナ・エクリーヤを蝕んでいた病――それらすべての元凶が、唖然とするシーヴァスを見下ろし嗤っていた。

「こうも簡単に “蜃気楼” に引っ掛かるとは――資質者といえど、雑念に囚われていては凡人と変わらぬな」
「雑念だと……?」
「心当たりくらいあろう。天使に懸想でもしたか? 浅ましい男よ」
「!?」
 予期せぬ相手から飛び出した想定外の言葉に、たじろぎ睨み返せば、
「図星か。まったく、人間という生き物は愚かだな」
 アポルオンは、憐れむように肩を竦めた。
「世界の滅亡も秒読み段階に入ると、必ず何人かは守護天使に向かって “好き” だの、“地上に残ってくれ” だのと愛欲をぶつけ始める――感情で求めながら、理性は本音を押し殺す。結晶石の効力も乱れるというものよ」
「人間が考えることなどお見通しとでも言いたげだな……あのゴーストも、貴様が差し向けた使い魔か何かか!?」
「なんの話だ?」
 とぼけているのか本当に知らないのか、シーヴァスの詰問を一蹴した堕天使は、おもむろに手にした槍を振りかざした。
「どうあれ、ここはインフォスとは切り離された、我が領域だ。天界の加護は届かぬ――その身体、おとなしくガープ様に寄代として捧げるが良い!!」

×××××


 キンバルト領内を南下していた金色のダガーが止まって、小刻みに震えて――パキンって、粉々に砕けた。木っ端微塵。
「……へっ?」
 一瞬なにが起きたのか分からなくて、まじまじと、元から眺めていた地図を凝視してしまう。
 うん。前にも一回、こんな状態を見たことある。
 あれは確か、クレア様が戒律違反で結界牢に押し込められちゃってるときで、ティセナ様が分析した “原因” はいくつかあって、だけど。
「えええっ!?」
 今じゃ勇者陣の中で一番強い、シーヴァス様をどうこう出来る、そこいらの魔物なんているとは思えないんだけど!
 水の石も、スペアまで持ってるんだから同時に壊れちゃうことはないだろうし。
 えっえっ、それじゃまさかの任務放棄? なんで!?

 ローザに比べて私は、敵の探索が下手だ。
 もう残ってる脅威は親玉な堕天使くらいのはずだから、混乱度をリアルタイムで反映する水晶球を観察していた方が良いって言われて、ベテル宮でお留守番してたんだけど。
 水晶球には、これといった変化が無くて、ますます混乱する。
 万が一、シーヴァス様がピンチなんだったら、そんなとんでもない敵に反応しないなんて……なんで!?
 あわあわと手足をばたつかせながら、とりあえず何からどうすればと迷っていると、

 ――キィ。

 扉が開く音がして、どこかぼんやりした様子のクレア様が、胸元に分厚い本を抱えて入って来た。天の助け!
「クッ、クレア様! 大変なんですクレア様!!

「? ……シェリー?」
 やっぱり元気が無いっていうか放心した感じの天使様だったけど、
「これこれこれ見てください! さ、さっきまで、こう南に向かって動いてたんですけど、急に壊れちゃって!」
 地図を指差しつつまくしたてる私に、小首をかしげながら近づいてきて、
「シ、シーヴァス!?」
 粉々になったダガーを見るなり本を取り落として、がばっとテーブルに身を乗り出す。
「どうしてなんでしょう? さっきから水晶球の色にはちっとも変化ないんですよ!」
「連動障害の原因は、大別して四つ――完全なる戦意喪失、結晶石の耐久年数経過、それから――世界との遮断。インフォスから、どこか、狭間の」
 眉根を寄せて、考え込んでいたクレア様の顔色が、ざあっと褪せた。
「堕天使の領域に……引き摺り込まれた!?」
「ええっ!?」
「そうじゃないなら、持ち主、の、死」
 うわ言みたいに呟いて、ますます青褪め震えながら、ぶんぶんっと嫌な想像を打ち消すように頭を振って。
「わ、分からないけど、なにかあったには違いないから、とにかく探さなきゃ! キンバルトの? どの辺りまで普通に移動してたの?」
「えええっと、ここ、ノバの町を通過して、ブスダム砂漠に差し掛かる辺りで途切れました!」
「行ってくる! シェリー、ティセを呼んで、このこと伝えて! もし、堕天使が絡んでるんだったら、あの子じゃないと狭間や異界までは探せないの!」
 クレア様は私の返事も待たずに、転んじゃうんじゃないかって勢いで執務室を飛び出していった。




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煩悩と戦うシーヴァスさん。まあ成人男性ですから、人並みくらいには?
アポルオンは、蜘蛛の巣みたいに罠を張って、瞬時に獲物を自分の領域に引きずり込んでます。奴の瘴気が漂ってるのは、あくまでインフォスの外だから、観測機には反応しないと。