◆ 堕天(1)
ひたすら斬り結び、薙ぎ払い、とうとう回復薬も尽きて……時間の感覚さえ失いかけた頃。
血みどろのアポルオンは地に倒れ伏し動かなくなったが、シーヴァス自身もまた、岩壁に凭れ荒い息をしながら、手足の感覚が無くなっていくのを感じていた。
(倒せた、のか? それとも、まだ――)
魔族は死ねば塵になって消え失せるものらしいが、堕天使は? なにかクレアたちが以前、語っていただろうか? 頭も朦朧としてきて思い出せない。
“ググ……グ……”
聴覚が捉えた微かな唸り声に、舌打ちしたい気分で霞む目を眇め、どす黒く汚れボロボロのクリスタルソードを握りしめるが、
“……イウヴァート、ベルフェゴール……アポルオンまでが……なぜ、滅ぼした? 私の、忠実な下僕たちを……”
どうやら喋っているのは奴ではないようだった。オールバックの後頭部は微動だにしておらず、しかも、しわがれた謎の声は全方位から重なって響く。
“そうか、この者が――天使の勇者”
立ち上がろうと膝に力を入れても、もはやドラグメイルの重さに身体が耐えられない有り様で。
(まさか、堕天使ガープ? どこにいる!?)
思い至ったシーヴァスが、ひたいからの流血が目に入らぬよう拭いつつ、声の主を探して視線を巡らせる中。
“天界の者に利用された、愚かな人間め……我が手で、滅ぼさなくてはなるまい。皆の者……与えていた 『力』 を、返してもらうぞ……!”
眼前に転がっていたアポルオンの身体が一瞬で黒い塵と化し、群れた羽虫のごとく轟々うねりながら、薄暗い宙へと吸い込まれて行った。
そこだけポツリと黒いインクを垂らしたように、渦巻く暗黒、ぽっかり開いた穴の先に――水牛めいた弧を描く双角、ガリガリの腕に対して不自然に大きな両手と鉤爪、縦にパックリと割れた腹部は赤く爛れながら無数の牙を剥いている。
背には巨大なコウモリを髣髴とさせる、真紅の翼が左右へ伸び。肩から胸元にかけてを覆う、無数の人面は苦悶に歪んでいた。そこから繋がる首の上は、完全な、骸骨――
(死霊……?)
漠然と想像していた姿とはかけ離れた “敵” の形貌に、シーヴァスは眉を顰め、しかし、
「うわっ!?」
突然ぐらぐらと揺れ出した地面、あちこち瓦解し始めた岩壁に、それどころではなくなった。
アポルオンが消えた所為かガープの仕業かは分からないが、足場が片っ端からズタズタになり、さらに暗い空までも――内側にある全てを押し潰すように、縮み始めている!?
避難しなければ、と焦ったところで “堕天使の領域” から脱出する方法など知る由も無し、シーヴァスには走る余力すら残っていない。
激しい地響きによって取り落としそうになる剣の柄を必死で掴み、バラバラと降ってくる石礫からマントで我が身を庇いつつ、遥か上空のガープを睨み据える。
敵が、あんな位置にいてはもう、一矢を報いようにも剣自体を投げ付けるくらいしか。
“滅びよ、勇者とやら……!!”
骸骨の眼が赤く光り。
干乾びた両腕の付け根、後ろ側から、ずるりと生え出たものは――左は奇怪な鳥の首、もう一方は先ほど散々手こずらされた、巨象の頭部で。
「――な」
絶句するシーヴァスの頬を、冷や汗が伝った。
(ここまで、か……?)
大きく開いた骸骨の咥内が妖しく煌き、キュイィィィと軋む音をたてる間に膨らんで、
ドオンッ!!
腹に堪える衝撃と暴風、太陽を直視したかのごとき閃光に、死を覚悟しつつも反射的に目を瞑り――そうして十数秒が過ぎても冷たい風が吹き付けるだけで、自身には、なにも変化が無いと。
(……?)
訝しみながらも薄っすらと目を開ければ、視界を遮るように広がる純白の翼と、突風になびく不揃いなライトブラウンの髪。
「ティ、ティセナ?」
どうやってこの場を突き止めたのか、小柄な天使がシーヴァスを庇うように、ガープとの間に割って入っていた。
蠢く暗闇へ向け突き出された右手に、添えられた左手。
上空から迸る光の渦はティセナの眼前でバチバチと左右に逸れ、背後のシーヴァスには届かず、さらに後方の荒地を粉微塵に破壊していく。
ギロッと首だけ振り返った少女は、おもむろに左手をこちらへ伸ばすと――不安定な地面に蹲ったまま動けずにいる勇者の頭頂部を、鷲掴みにした。そのままギリギリギリ、と容赦なく締め付けてくる。
「い、いいい、痛い、痛い!」
痛みと同時に馴染みの回復魔法が流れ込んでくる気配もあるのだが、今にも手放してしまいそうだった意識がハッキリした分、麻痺状態ゆえに耐えられていた全身の裂傷打撲骨折が激痛を訴え始め、シーヴァスは堪らず抗議した。
「そりゃあ良かったですね、死に損ないの勇者様」
腹立たしげに言い捨てたティセナの肩越しに、ガープの声が重く響く。
“なんと、生き延びていたか……スルトの皇子よ。だが、なぜ、魔族の頂点に立つべき身で……人間を庇う?”
魔族? おうじ?
ティセナは天使、しかも少女だ。なんの話をしている?
「目も鼻も腐ってんの? これは押しつけられただけだよ。あいつなら、とっくの昔に死にました」
“……そうか……貴様がセレス、ティアル……魔族狩りの小娘……ガブリエルだな。相変わらず、姑息な真似を……”
ガープは、苛立ったように身を震わせた。
“天界の欺瞞を知っていように、奴らに肩入れするとは……愚かな……”
「べつに連中の味方してるつもりは無いよ。地上界に危害を加えはしないから、あんたたちよりマシってだけ!」
反駁したティセナの指先で、一帯を崩壊させる勢いだった光の渦が、ふっと立ち消え――代わりに紅蓮の炎が、ガープを狙い撃つように吹き上がった。
“グガァアアアァ――!?”
劫火に焼かれた堕天使は身をよじり、炎に包まれた両翼を、地面に叩きつける。
すると何故か豪快な水飛沫が上がり、しゅうしゅうと蒸気を撒き散らしながらも火勢を鎮めて。
(……なんだ?)
目を凝らせば、木の根だろうか――ぐねぐねと波打つものに覆われた足場らしき部分は極僅かで、ガープの周囲は真っ暗だった。あれは全部、液体なのか?
「チッ、腐っても元能天使か。さすがに一撃じゃ……!」
ガープからの攻撃は止まったにも関わらず、周りが崩壊するスピードは加速していた。靄がかった空も、立ち上がって手を伸ばせば届きそうな距離まで迫って来ている。
「いったん、退きますよ」
有無を言わせぬ口調で告げ、シーヴァスの上半身を抱えるように手を回した、少女が早口に呪文を紡ぐと――ここへ引きずり込まれる際にも味わった圧迫感、次いで浮遊感に包まれ。
そこで、ぷつりと意識は途切れた。
×××××
急に、空に裂け目が出来て。
そこから傷だらけのティセナ様が、もっと血塗れのシーヴァス様を肩に担いで、ほとんど落っこちるような勢いで降りてきた。
「シーヴァス!」
真っ青になったクレア様が駆け寄って行って、意識が無いらしい勇者様の傍に跪くけど、
「ティセ! その腕……!」
「いいから、シーヴァス様の治療に集中して! 転移に耐えられるだろう最低限の回復魔法はかけてから、連れ出しましたけど――油断したら命の保証は出来ませんよ」
悲鳴混じりの声を遮ったティセナ様は、淡緑色の光に包まれた二人からちょっと離れた位置に座り込んで、ご自分の右腕に視線を落とすと溜息をついた。
「ああ、ったく……またイカれた」
なんでか肘の上辺りがギザギザな輪を描くように深く切れて、真っ赤な血がどくどく流れ落ちている。モンスターに咬みつかれでもしたんだろうか? 私は慌てて彼女に飛びついた。
「シェリー? 来てたの」
「はいあの、ティセナ様も動かない方が――」
他にもあちこち傷は出来ちゃってるけどそんなに酷くないのに、右腕だけ消滅しちゃいそうな危うい気配がして、急いで手を伸ばす。
「いいって、私は。それよりクレア様の手伝いして」
「でも!」
せめて止血しなきゃって、ありったけの力を込めたけど、
(あ、あれ?)
今まで何回か “こういう症状に魔法は効かない” って言われて、実際にダメだったけど。そのときは、なんていうかスカスカ空振りしてるみたいな感じだった。
でも今のは、確かに吸収されたのに……癒しのパワーが消えちゃった?
「効かないから」
困った顔したティセナ様が、私の手を止めて、シーヴァス様たちの方へ押し出した。
「私に回復魔法は効かないから、魔力の無駄遣いしないで。クレア様の聖気がすっからかんになっちゃったら、ガープの根城に乗り込む日も遅くなるよ」
「は、はい……」
ふらふら飛びながら、混乱した頭で考える。
え、なに? そもそも回復魔法が効かないってこと? なんで? そんなことってあるの?
「大丈夫か、おまえ?」
私と入れ替わりに、近付いていったビーシアさんが彼女の腕を取って。
「あっちの方が重傷みたいだし、とりあえず先に止血しとくな」
「……どうも」
ティセナ様は驚いたみたいだけど、素直に頷いて、包帯を巻かれている。
あれ? そういえば、天使様は私たちよりずっと高度な回復魔法を使えるのに、クレア様は人間界でも使えるような医学の勉強をしていて、それって無駄に思えるのに需要があるってことは、単純に地上界守護で役立つからだって解釈してたけど、天界のお偉いさんたちは直接干渉を罪だって言うくらいだし、べつに推奨されてる訳じゃないなら、もしかして?
「うわっ、ホントに重傷!!」
ぐるぐる混乱しながら触ってみたシーヴァス様は、もう満身創痍って感じで。
さっきからクレア様が必死で回復魔法をかけているのにまだこんな状態って、どんだけ危なかったんだろうと、私は考え事を後回し、勇者様の傷を塞ぐことに集中した。
(……でも、良かった。死んじゃったりしてなくて)
そうやってしばらく頑張って、どうにかもう安心って感じになって、ちょっと気を緩めて――クレア様に、良かったですねって言おうとした、私は吃驚してフリーズ。
まだ一生懸命に回復魔法を使い続けながら。
うつむき加減に、唇を引き結んだクレア様は、サファイアブルーの瞳から、ぽろぽろ、ぽろぽろ、涙をこぼして泣いていた。
原作ゲームでは確か 『おまえたちの肉体、力を借りるぞ』 って台詞なんですが、堕天使3人とも勇者が倒していなくなったはずなのに、肉体や力を提供可能って何事よー? と疑問に思ったので、若干ガープの言い回しは変えております。