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◆ 堕天(2)


 ……誰か、泣いている?

 朦朧とした意識の隅に、か細い声を捉え――だんだん感覚がハッキリしてくるにつれ、目を閉じていても伝わってくる陽光の暖かさ、横たわった身体を包む寝具の肌触りに、なぜ自分は昼間から寝ているのだろうと、訝しみ――眠気に抗いながら、ゆっくりと、重い瞼を押し開ける。
 翳む視界に、最初に映った天井は素朴な木造で。
(どこだ、ここは……?)
 寝返りを打とうにも手足は思うように動かず、どうにか首だけ傾けてみれば――小さなイスに掛け、両手を己の膝上で握りしめて、はらはらと涙をこぼしているクレアの姿があった。
 兄を亡くした時さえ気丈にも、涙を見せなかった彼女が?
 驚き、戸惑い。
 何事だと記憶を辿るも、まだ半分夢に浸かった思考では状況など掴めず、
「……なにか、あったのか?」
 問いかける声も、掠れた囁きにしかならずに。
「!」
 けれど天使の耳には届いたらしく、クレアは、弾かれたように顔を上げた。
「あ――」
 泣き腫らしたサファイアブルーの瞳から、また大粒の涙が頬を伝って、落ち、白いローブを濡らす。
 強ばっていた表情が安堵に緩み、けれど次の瞬間には、
「なに、じゃないです! もう少しで、死んじゃうところだったんですよ!?」
 眠気も吹っ飛ばしそうな大声が鼓膜を劈き、ボンヤリしていた脳内にくわんくわんと響いた。
(な、なんのことだ?)
 後退りたくともベッドに埋もれたまま身動きが取れず、ただ目を白黒させるシーヴァスを睨みつけながら、
「全身、傷だらけで、失血は酷いし、あちこち骨も折れて……転移の反動で、もっと悪化して。堕天使の瘴気が強すぎて弾き切れなかったみたいで、中毒症状が出てるから、回復も遅いし……!」
 途切れ途切れに泣き喚くクレアの言葉を聞いて、ようやく思い出す。
(ああ、そうだった)
 ブスダム砂漠のアリジゴク退治に出向き、アポルオンと戦って、ガープらしき死霊とも対峙して、
「そうだな……生きて、いるのが、不思議だな」
 ティセナが退却を告げたところまでは、覚えていた。どうやら助け出されて、インフォスに戻って来れたらしい。
「そうですよ。相手、堕天使ですよ!? どうして結晶石も持ってるのに、アポルオンの領域なんかに引っ張り込まれて、一人で戦って――」
 しゃくり上げながら、クレアが問う。
 なにかあったも何も彼女が泣いているのは、どうやらシーヴァスの所為らしい。そうと認識して、困ったとか慰めなければと焦るより先に湧いた感情が “嬉しい” とは、我ながら呆れた愚かさだ。
「魔が差した、の、かも、しれないな……」
 自分のことで、彼女が泣いて取り乱してくれる。間違っても “駒” に対しては見られない反応だろうと――己の価値が立証されたような、歪な優越感。
「…………?」
 クレアは困惑したように、潤んだ瞳を瞬かせている。
「――欲しいものが、あった」
 後ろめたさから、目を逸らす。アポルオンの嘲笑が脳裏を過ぎる。
「悪魔に魂を売れば、手に入るならと……欠片も考えなかった、と言えば嘘になる」
 人間の欲に付け込んでインフォスを荒らしてきただけのことはあるな。敵とはいえ、たいした観察眼だ。
「雑念に囚われてしまえば資質者など、凡人以下らしい……だから、おそらく自業自得なんだ……君が、泣くことはない」
「欲しいものって――そんなの、堕天使や悪魔がくれる訳ないじゃないですか! “負の感情” を糧にしてる種族が、そんな喜ばせるようなこと、してくれるなら、守護天使も勇者も、最初から出る幕ないです――」
 唖然とした口調から怒り混じり、最後には途方に暮れたように呟いて、天使は、また泣きじゃくり始めた。
「……冷静に考えれば、そうなんだがな」
 ヨーストを襲った大火、タンブールの教会、父と母、その絵も、連中が焼き払ってしまったというのに――そんな存在に、なにを願うと言うのか? 自嘲気味の、乾いた笑いが漏れる。
「天の御遣いに願えば、叶えてくれるのか……?」
「かっ、戒律に、縛られて、ご両親も、あの絵も、戻して、あげられないから――頼りにならないって思われても、仕方ないですけど、でも――アポルオンたち、よりは、マシなつもりです!」
 ぶんぶんと首を縦に横に振りながら、クレアは、絞り出すようにまくしたてた。
「ご両親に会いたいのでしたら、蘇生は、無理ですけれど……レミエル様にお願いすれば、まだ魂が転生前なら引き合わせてもらって話すことは可能なはずですから……インフォスまでお連れする許可をいただけるか分かりませんけど、私に出来る最大限の努力はしますから、だから、悪魔に魂を売れば、なんて、付け込まれるようなこと、冗談でも、考えるのは止めてください……!」
「そう、か」
 まったく、真面目なことだ。
 堕天使との争いも大詰めとなった戦況下で、心を乱し自滅しかけた勇者など、叱り飛ばせば良いだけだろうに――
「ダメで元々……願ってみるか」
 右手を動かそうと意識を集中すれば、今度は、どうにか持ち上がってくれた。
 瞠目するクレアの目尻に触れ、溜まっていた涙を拭うが、思った以上に体力も底を尽きていたようで、がくりと力が抜けた腕を、
「ま、まだ骨折も治り切ってないんですよ!? おとなしく寝ていてください――」
 あたふたと支えた天使が、ガラス細工でも扱うような手つきで、ベッドクロスの中へ押し戻す。確かに、少し身じろぎしただけで鈍い痛みに襲われる。
「次に、私が目を覚ますまで……ここに、いてくれるか?」
 なにを駄々こねる子供めいたことを、と自分に呆れるが、クレアは憤然と切り返してきた。
「頼まれなくても目を離せる容態じゃないです! ずっと、この部屋にという訳にはいきませんけれど――敷地内には、いますから」
 ならば、遠くへ行ってしまうことはない、のか。
 奇妙な安心感と同時に睡魔が押し寄せて、シーヴァスは相槌も打てぬまま、再び意識を手放した。

×××××


「意識、戻ったのか? あの騎士さん」
 タオルや洗面器の水を取り替えようと、部屋を出ると――ここの住人、ビーシア・グレイに遭遇した。
「ええ、おかげ様で。何日もお世話になってしまって、すみません」
「いいよ、そんなこと。オレだって、行方不明だった親父を助けてもらったんだし……目が覚めたんなら、とりあえず安心か。良かったな」
 頭を下げたクレアに、少女は明るく応えて。
「あんたも不眠不休で疲れたろ? どうせ部屋は余ってるから遠慮なんてしないで、ゆっくりしてろよ。あ、でも門下生たちがいる間は掛け声なんかで、ちょっとうるさいだろうけど勘弁な」
「はい、ありがとうございます」
 こちらを労る言葉を残し、道場の方へ走り去っていった。

 ここはノバにある、グレイ家。
 あの日、シェリーと二人がかりで止血を終わらせ――満身創痍のシーヴァスを休めるところへ運ぼうにも、衰弱した身体に負担をかける転移魔法は、絶対に不可。長距離を担いで飛んでも傷に障る、ならば最寄のノバで宿を借りようという結論になった際、その場に居合わせた武道家の親子が、医務室の提供を申し出てくれたのだった。
 ヨーストの屋敷へ送り返せれば、それが一番なのだろうが、せめて身動きが取れるようになるまではと厚意に甘えている。

 人心地ついてから、クレアの名などを知っていた理由を聞いてみると、彼女の父親は、長らくベルフェゴール配下の魔物に身体を乗っ取られていて――それは千里眼を持つ魔人と意識を共有する状態であったらしく、ゆえに堕天使の動向、勇者たちと戦って敗れる様もすべて目撃していたんだそうだ。

 また、ティセナの話によれば、領域の主たるアポルオンが “力” を失ったことで、亜空間が崩れ始め――その余波を感知して、どうにか助け出せたらしい。
 万が一、シーヴァスが堕天使に敗北――絶命していれば。居場所は突き止められず、生死の確認すら叶わなかっただろうと。
『たった一人でアポルオンに勝った。その点だけは褒めても良いんじゃないですか?』
 クレアの手を待たず、ビーシアに止血してもらった右腕を腰に当て、少女は深々と嘆息していた。

 そうして昏睡状態のシーヴァスに付き添いながら、ずっと考えていた。
 危険な状態に陥っていると判っても、自分では助けに行けない。ガープを倒せて、地上界守護の任務が終わったら、ずっと、ずっと――彼らが天寿を全うするまで、あの絶望感を味わい続けるのかと。
 怖かった。
 シーヴァスが死んでしまうかもしれないと思ったら、怖かった。
 堕天使の脅威が去れば、もう勇者たちを苦しめるものは、二度と現れない?
 現に、ラスエルが護り切ったはずだった世界が、こんな事態になってしまったのに?

(嫌だ。インフォスに、残りたい……)

 かつて兄はナーサディアに、人間として共に生きると約束した。
 それが叶うことかは分からない、けれどガブリエルに願い出ても、良い顔をされないだろうとは想像がつく。仮に許されても、天使としての知識や能力は、剥奪される可能性が高い。
 だって、なにも天界に仇を成す意図じゃなくても、つまりは “堕天” を望むということ。神の眷属たる使命を捨てようというのだ。
 飛べなくなって、魔法も使えず、いくばくか医学の知識はあるけれど所詮まだ研修生――そんな自分がインフォスに留まったところで、皆にしてあげられることなんて、たかが知れている。

 仮に再び、タンブールが火事に遭ったとして。
 天使である自分は雨を呼べるけれど、自然災害への手出しは許されず。
 戒律に縛られぬ身なら自由に動ける、だからって、燃え盛る炎を前になにが出来る? 火の手に怯えて成す術も無く、逃げ惑うのが関の山じゃないか?

 理性では、そう思う。
 なにを馬鹿なことを考えているのかと。

 エミリア宮の医療施設で働く同僚や先輩たち、懐いてくれている入院患者の子供たち、幼なじみのラヴィエル、敬愛する大天使レミエル様、それにティセナと――同じように、回復魔法を受けつけぬ体質であり、純粋な医術を必要としている “異端天使” と呼ばれる子たち。
 守りたいと思った、助ける為に力を尽くそうと誓った相手は、彼女たちのはず。
 地上に降りてしまえば、そんな人々と二度と会えなくなる……あの子たちが怪我をして痛がっていても、手を伸ばすことすら出来なくなるのに。

“すべての生物には、定められた寿命があります。数多の命を守り、癒し、救う――その行為に “完璧” を求めれば、終わりはありません”

 かつて静かに諭された、憧れの声が、思い浮かぶけれど。

“だからこそ己を律し、戒めなければ道を踏み外してしまうと――古来より、地上に関わった者たちが”

 ああ、本当に踏み外しそうだ。
 あんなふうにシーヴァスが瀕死の重傷を負っていても、助けに行けないなら、そんな戒律なんて知らない。後で査問会でも処罰でも、好きにしてくれれば良いと、思ってしまう。

“そうした物事の是非を踏まえ、なお、インフォスに心を傾けるなら。それがあなたなのでしょうね――”

 感情移入し過ぎたのだろうか? 人の子に。

“今後も守護天使として、地上に関わっていくつもりなら”

 任務を遂げるまでは頑張ろうと思った。
 己を “天使” と律することで、護れるものが失われるものより多いなら――そうしたことで向けられる非難の目や、後ろめたさも含めて、前を向こうと。
 だけど、すべて終わったら? キリキリとした胸の痛みも、本来の日常に戻ればすぐに消えてくれる?

“ここにいる間に、少し……頭を冷やしなさい。クレア”

 とぼとぼと歩いて辿り着いた井戸の底を、なんとなく覗き込むけれど。そこは暗く遠すぎて、なにも見えない――



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あやふやな感情に名前が付くのは、切羽詰った状況に陥ったときが多いのかなーと。このまま明日死んだら、後悔するかもって考えれば、大抵の迷いには答えが出る気がします。