◆ 願い事、ひとつだけ(1)
「報告です。ガープの居所に、目星が付きました」
昏々と眠り続けるシーヴァスを起こしてしまわぬよう、道場の一角にある休憩室を借りて、薬草を調合していたクレアは、
「! どこに――」
「世界の中心」
ふっと現れた少女の声に、どくんと跳ねた心臓を押さえつつ振り返る。
「アポルオンの領域に干渉かけてきた、奴と対峙した際、かすかに海の香りがした……身体の周りを水に覆われているようでもありましたし」
ティセナは淡々と告げた。
「リメール海です。騎士リーガルが、消滅間際に残してくれたヒントからしても、間違いないでしょう」
「う、海の中ってこと?」
今までインフォスで発生した事件の数々は全て陸地における出来事で、それが当たり前の感覚になっていたから、予想だにしなかった単語に面食らう。
「正確には深海まで潜った先に、歪みの根源に連なる亜空間が広がっているかと」
船旅の途中、魚介系モンスターに襲われることは度々あったけれど、まさか海の底に、ずっと姿さえ掴めなかった敵が……!?
「高水圧、低水温、暗黒、低酸素状態――自然界の加護を受けた妖精でさえ、呼吸もままならぬ劣悪な環境ですから。ローザが調べに行けたのは、辛うじて太陽光が届く水深1kmほどまで、でしたが――明らかに、潜れば潜るほど濃い瘴気が漂ってきたそうです」
いや、天界の調査が海に向かぬよう意図的に、リメールで事件を起こすことは避けていたのかもしれない。
「私たち天使が中途半端に近寄れば、隠れ家を暴かれたと察知、逃げられかねない。ちゃんと準備を整えてから、最後の戦いになると思って挑んだ方が良いかと」
そうして忌々しげに、右腕に視線を落とす。
「本当なら、居場所さえ判れば一人で片付けるつもりでいましたが……さすがに利き腕を使えない私より、フィンやシーヴァス様の方が戦闘力は上でしょう。魔力も、ガープの一撃を相殺するとき、だいぶ消耗してしまいましたから」
診断は全治3ヶ月――それも天界の時流において、だ。
彼女の復調を待っていては、インフォスに残された時が尽きてしまう。
「フルパワーで炎を浴びせてやった、ガープの方もまだダメージが残っているはず。なるべく早く……クレア様が万全の状態に戻った時点で、ケリをつけに向かうのが最善の策だと思います」
シーヴァスの治療に費やした聖気が回復するまで、何事も無ければ約5日――インフォスの時流で2ヶ月ちょっとだろうか?
「おそらく敵の領域に巣食っているだろう魔族の群れは、私が、鞭使いのナーサディアと一緒に蹴散らしますから。フィンとクレア様、シェリーで――ガープと、戦えますか?」
「もちろん、それがティセの判断なら」
大勢を相手取るなら、確かに剣より広範囲を狙える鞭が向いているだろう。
それに戦略的なことに関しては、自分よりティセナの方が、よほど頼りになる。
「それから、まあ腐れ堕天使に負けるとは思いませんが……念のため。冷静さを見込んで、ローザに留守を託します。私たちに万が一のことがあれば、勇者と一緒に、リメール海の中心地へ向かってくれと」
万が一。
あまり考えたくないけれど、それでも。
「あんな状態のシーヴァス様は論外ですし、女王就任を控えたアーシェの気を散らす訳にもいきませんから、レイヴ様か、フィアナか――どちらに頼んでおくのが良いかは、ちょっとまだ決めかねていますが」
「分かったわ」
実力的には拮抗した二人だ。その時のヘブロン及びタンブールの状況も加味する必要がある。決定を急ぐことでもないだろう。
「じゃあ、私はベテル宮に戻って寝ます。クレア様も、さっさと休んでくださいね」
「あ、待って……!」
踵を返そうとする少女を咄嗟に呼び止めてしまい――内心、少し、うろたえる。いつ話すべきか、迷い、まだ思い切れていなかったのに。
けれどインフォス守護完遂後では、この子は、いつまた天界軍の任務で “外” へ行ってしまうか分からないし……もう、この際だ。
「少しだけ、いいかな? 話したいことがあるの」
「なんですか? あらたまって」
「……あのね、私ね。インフォスに残りたいの」
呼び止めた勢いのまま、気持ちを言葉にしてしまえば、いっそう自覚も強まり。
「だから、無事にガープを倒して、守護天使の任務が終わったら――ガブリエル様に願い出てみようと思う」
ティセナは、凪いだアイスグリーンの瞳を、わずかに瞠った。
「約束、破るわ……ごめんなさい」
幾度か瞬き、しばらく沈黙して。
「インフォスに留まって、なにをすると?」
「ちゃんと医者の勉強を続けて、自分の手で、助けられる人を助けたい。回復魔法みたいな便利な術は使えなくなっても、シーヴァスや、みんなに、なにかあったら……駆けつけて、全力を尽くすわ」
「歪んだ記憶は消さなきゃならない。インフォスの時流が正常化した時点で、勇者たちはクレア様のことや、一緒に戦ってやり遂げたことも、すべて忘れますよ?」
平淡な口調で、少女が念を押す。
知っていた、とはいえ。こうして、あらためて決定事項として指摘されると胸の奥が痛んだ。
「分かってる――いいよ、それでも」
寂しい、けど、インフォスに齎された平和が再び脅かされるくらいなら、共に歩んだ日々を懐かしむことが出来なくなってもと。
覚悟済だったから、釘を刺されても動じなかった。けれど、
「あなた自身の記憶すら、消されるとしても?」
「……え?」
想定外の問いには、思わず、呆けた声で返してしまう。
「下級の領分とはいえ天界について知る者など、地上に残してはおけません。翼を捨てることが許可されたとしても、天使だった記憶は消されます。勇者たちとの思い出も、なにもかも」
魔法や翼どころじゃなく――記憶、すべて?
「天使が、人間に転生することは可能です。神と繋がる証たる翼を斬り落として……十月十日、祝福された血を失う反動に耐える必要はありますが。インフォスとクレア様の相性は最上レベルですから、回復力の方が勝るはず。失敗して消滅、って恐れは無いでしょう……でも」
前例でもあるのか、さらさらと語られた内容を。
ラスエルも知っていたから、ナーサディアと約束を交わしたのだろうかと、現実逃避のようにボンヤリと考える。
「そうして生まれ直した “人間” は、容姿だけ過去の名残を留めても、己が何者で、なんの為にインフォスに立っているのかさえ分からない――身寄りはおらず、魔力も、エミリア宮で学んだ医学知識さえ失った――俗に言う、記憶喪失状態です」
なにもかも失くして、あるのは、空虚な心と身体だけ。
「それでも残りたい?」
少し、考えた。けれど、ほとんど迷わなかった。
「……うん」
大きく頷き、肩を竦めて笑う。
「空っぽになっちゃっても、インフォスで暮らしていたら、いつかまた “初めまして” って出会えるかもしれないし」
会いに行ける距離に、いたい。
「分かりました」
さっきまでの無表情から一転、呆れ混じりに笑ったティセナが言う。
「協力しますよ。私に出来る範囲で、だけど」
「怒らないの……?」
クレアは拍子抜け、まじまじと少女を凝視してしまった。
「なぜ?」
「だって、ずっと一緒にいるからって約束したのに――」
「してませんよ」
……あれ? もしかして忘れられちゃってる? それはまあ、けっこう昔の話だけど、私なりに真剣だったのにと少しへこんだクレアを見つめ、
「私は頼んでいません。ああいうのは “約束” じゃなく、宣言っていうんです」
静かに頭を振った、ティセナは懐かしむように目を細める。
「私が7歳のときに知り合って、逆十字からキースの件まで、あれこれ面倒かけて――約7年間、ですか」
“お歌、上手ね” “お姉ちゃんは、ピアノを弾くの?”
「もう充分です」
“やだ、死んじゃ嫌だ……!” “分かった、から。泣かないで”
「いまさら誰かに、なに言われたって動じるほどヤワじゃなくなったつもりですよ。もう子供じゃありません―― “名付け親” にかまってもらわなくても、大丈夫ですから」
“だから名前、付けてよ” “え、私が?”
“うん、あいつが決めたヤツは、剥奪されたから。まあ、もう呼ばれたくもないけど”
“……バーデュア?”
“そう。ある地上界の言葉で、新緑って意味よ”
“ふぅん。ティセナは、なんで?”
“あなたの顔を眺めていたら、なんとなく。ティ、って響き、明るい黄色って感じがしない?”
“よく分からない感性だけど、まあ良いです。前の大仰な名前より、しっくり来るし――”
「地上に降りてください、クレア様」
まだ自分も子供だった頃の記憶が、ぐるぐると脳裏を過ぎる。
毎日、飽きもせずアカデミアの音楽室で過ごしていた、懐かしい日々や、親しい人たち、この子を忘れてしまっても――インフォスで生きていたい、なんて。
「好きな場所で、自由に、望むように生きて……幸せになってください」
天使にあるまじき感情だ、瘴気の影響でも受けたかと嘲笑われても仕方が無い。
ガブリエル様に願い出たら、また異端審問官が血相を変えて飛んで来るかもしれない――そんな、神の眷属として逸脱した願いを否定するでもなく、
「そうしたら、私も、世界を――未来を、信じられる気がするから」
任命式の日から今までずっと陰日向に、インフォスを護って戦い続けてきた、少女は穏やかに笑う。
「ティセ……」
傍から離れようとしている自分が、こんなことを言っても、説得力は無いかもしれないけれど。
「大好きだからね、本当だからね!」
負傷した右腕に障らぬよう、華奢な身体を抱きしめる。
「……知ってますよ」
からかい混じりの声音で返したティセナは、まるで幼子を宥めるように、こちらの背をぽんぽんと撫でた。
勇者の告白を待たずして、クレアさん、インフォス残留を決心。この時点でシーヴァスを異性として好きだとまでは認識してないですが、感覚的に、会えなくなったら絶対に後悔すると悟ってます。死にかけたのが他の勇者だったら、うろたえはしても泣きはしなかっただろうなーと。