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◆ 願い事、ひとつだけ(2)


「シーヴァス!」

 ゆるやかな風が吹き抜ける、朝陽差す草原に佇み。

「驚かさないでください、ベッドから抜け出したりして――どこに行ったのかと思うじゃないですか」
 空を仰いでいたシーヴァスは、息せき切って近づいてくる軽い足音、待ち人の声に、ゆっくりと振り返って肩を竦めた。
「アポルオンと戦ってから、もう一ヶ月近く経つんだぞ? 傷なら君のおかげで、もう塞がった。これ以上、寝たきりでいたら身体が鈍る一方だ……リハビリの一環だな」
 勇者の不在に気づき、結晶石の波動を辿って来たんだろう。
 もしかしたら、また敵の手に堕ちたかと誤解して慌てたのかもしれない――天使は、不満げな表情の中にも安堵を滲ませ、
「確かに、ここは南国だから、昼間より今の時間帯が涼しくて出歩くには良いでしょうけど……散歩も、ほどほどにしておいてくださいね? 傷口が開いたりしたら、大変です」
 念を押して 「じゃあ、私は朝食準備のお手伝いがありますから」 と、グレイ家へ引き返して行こうとする。
 誰のジャマも入らない場所で二人きりになりたくて、運試しにも似た気分で、わざと何も告げずノバ郊外へ足を伸ばしたというのに、早々に帰られてしまっては意味が無い。
「……クレア」
 天使を呼び止め、問いかける。
「私と、初めて会った夜のこと――覚えているか?」
 立ち止まり、一瞬きょとんと小首をかしげるも、
「ええ、もちろん。任命式典が終わって、インフォスに降りたら、いきなりガーゴイルに襲われて、ただのナイフが竜巻を起こすし、あなたが勇者になってくださると言ったり……驚くことばかりの一日でしたから」
「あのとき君は、私に訊いたな? 勇者になれば、その任を終えたとき――ひとつだけ、どんな望みでも叶うとしたら。願いは、あるかと」
「え? ……ああ」
 懐かしげに目を細め、彼女は頷いた。
「だってシーヴァスったら、魔族の脅威は肌で感じたはずなのに、簡単に “引き受けてもいい” なんて言うんですもの! ひょっとしたら、人間だから私たちとは怖さの感覚もズレていて、暇潰しくらいに軽く考えてるんじゃないかって」
 そうしてバツが悪そうに眼を逸らし、溜息をついて。
「これといって “叶えたいこと” が無いなら、幸せな日々を送っていらっしゃるんでしょうから、私の任務に巻き込んで平穏を崩してしまうのは申し訳ないですし――なんだか結局、一番あちこち振り回してしまった気がしますけど」
 小さく頭を振り、東の彼方を見据えて明るく言い放つ。
「でも、ガープの居場所には見当が付きましたから! もうすぐ終わりです、勇者の任務も」
「終わり、か」
 最後の敵は、リメール海の底に巣食っているという。
 倒せば、終わる。天使がインフォスに降りてくる理由も無くなってしまう。
「終わらなければ良いのに、と願ったら……笑うか?」
「えっ?」
 当然だろう、クレアは訝しげに眉を寄せた。
「私は、君に、ずっと――インフォスに留まってほしいと思っている」
 彼女が、守護天使の重圧から解放されたら。
 自分が、勇者の任を終えたらと、悠長に構えていた時期もあった。
「我侭にも程があると、己を諌めようとしても。今の私には、どうしても、君がいない世界など……考えられない」
 けれど堕天使の領域で死闘を繰り広げ、命拾いして、今ここに居られることは――奇跡に近く。
「地上に残ってくれないか? クレア」
 命は有限。
 たとえインフォスが堕天使に狙われていなかったとしても、必ず、明日が来る保証などありはしない。
 こうして語らう機会も二度と訪れぬまま、別れることになってしまえば、おそらく死ぬまで後悔するだろう。
「私は、空へは行けないから」
 だから、と思いの丈をぶつける。社交界で培った美辞麗句に比べ飾りも素っ気もない言葉を、羅列することは容易いはずなのに、拳を握りしめていなければ、声が掠れ、舌は縺れそうだった。

「君が私の傍にいてくれるなら、一生かけて守るから――」

 どうにか言いたかったことを告げ終え、想い人の反応を待つ。
 心臓が早鐘のようにドクドクと鳴り、頭や身体は血が上って熱いのに、背筋だけ妙な汗をかいて冷たい。
 そのまま、たっぷり数十秒。
 頼むから何か言ってくれないだろうかと、祈るように見つめていると。

 サファイアブルーの瞳をこぼれ落ちんばかりに瞠って、うんともすんとも言わず固まっていた天使が、唐突に、はらはらと泣き始め。
「ク、クレア……?」
 困らせてしまうだろうとは想定済だったものの、まさか泣かれると思わずにいたシーヴァスは、どうしたものかと焦り、途方に暮れた。なんだこれは、困ったときにも泣くものなのか?
 冗談だった、気にするな、とは言えない。絶対に。
 なにを馬鹿なことをと一蹴されてしまうのだとしても、せめて、彼女自身から “答え” を聞きたい。
 しかし、この半ば放心したような表情で泣いている天使を前に、慰めもせず突っ立っている状態は、とてつもなく居た堪れず――

 うろたえる勇者に向けていた視線を、おもむろに落として。
「残りたい、です」
 囁くような声音で、それでも、はっきりと。

「……残ります」

 紡がれた言葉は、己の願望による幻聴ではないかと、耳を疑いながら。
「約束……か?」
 おそるおそる問いかけたシーヴァスを見つめ、笑って頷き。
「約束です」
 揺らぎなく、繰り返される言葉。だが、あっさり快諾され過ぎて、逆に戸惑い――急激に心許なくなる。

 本当に解っているのだろうか?

 シーヴァスが望んでいる想いは、親愛でも友愛でもない。
 ラスエルとナーサディアのように恋人同士、ゆくゆくは生涯の伴侶という意味でだぞと念を押しかけ、亡くしたばかりの兄を、こんな形で思い出させてしまうのはどうかと、すんでのところで疑問を呑み込む。
 考えてみれば、さっきの “告白” は友情や仲間意識によるものと解釈しようとすれば、そうなってしまう曖昧な代物では……?
 普通の女性ならば支障無かったろうが、なにしろクレア。こちらが好きだと言えば 『私も好きですよ』 と、あっけらかんと返しかねない相手だ。人間にとってはそれなりに重い 『愛している』 というフレーズさえ、天使の感性には 『好き』 と大差あるまい。
 しかし他にどう言えば、この限りなく色恋沙汰に疎い天使様に伝わり、確かな答えを引き出せる?
 出会ってから散々からかい怒らせてきた自分が相手でも、誤解や曲解、勘違いなど出来ないくらいに、はっきりと――ぐるぐると悩み、考え込んでいたシーヴァスの脳裏に、

“ほらあの、キスもですね? 恋人とするものなんですから”

 かつて真っ赤になりながら、タチの悪い冗談を咎めた天使の姿が過ぎり――柄にも無く、さっきとは違った類の緊張に襲われる。しかしもう、これくらいしか、クレアにも解りそうな人間の愛情表現など。
「…………」
 事前に、かける言葉は見つからなかった。
 うつむき加減に、袖で涙をぬぐっているクレアの頬に片手を添えれば、
「……?」
 不思議そうに顔を上げ、潤んだ両目を瞬く。
 高い位置で結われた銀髪が、そよ風に遊ばれ、ふわりふわりと手の甲を撫でる感触にさえ眩暈がしそうだ。

 もう一方の手を背中に回し、サファイアブルーの瞳を真っ直ぐに見つめ、そうして――シーヴァスは、そっと彼女に唇を重ねた。



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クレアって、見合い結婚向きの性格だなーと思います。相手がグリフィンやレイヴでも、たぶん普通に仲良く上手くやれる。ただ、この人を支えてあげなくちゃ、なんとか更生させなきゃ、という意識が先に立って、自分が甘えることは出来なさそう。そこいくとシーヴァスは、からかうって形で素の部分を突付き起こして、甘えていると意識させず甘えさせてくれる人なのかなーと。