◆ 恋心(1)
ふわりと、なにか唇に触れていたものが、離れて。
再び、さっきと同じ感触が……数秒、続き、また遠退いて。
「い、今、あの――」
焦点を失いそうな至近距離に、シーヴァスの顔があって。
頬を包む手のひら、背中に添えられた指先の感触が、頑とした強さで――逃げ場を失い硬直したまま、あわあわと視線だけを彷徨わせているクレアに、恐ろしく真剣な眼差しを向けながら、
「……出来るか?」
彼は、たった一言、問いかけた。
出来る?
なにを?
ショートしそうな思考回路で、しばし考え――幸か不幸か、正解らしきものに思い至ってしまう。
(……私から、やれと!?)
いや、そんなまさか、だけど今この状態で他に、なにが。
『シーヴァスがあなたにキスしたってことは、あなたと恋人でいたいって意思表示なのよ?』
言い聞かせるようなナーサディアの台詞が脳裏に浮かび、クレアは、ますます混乱する。
出来る出来ないを問われても、したことないし、どう触るのが正しいやり方なのかも分からないし、やっぱり彼女が提案してくれたみたいに練習しておくべきだったんだろうか? そもそも私はシーヴァスと “恋人でいたい” んだろうか? 違うんだったら、する権利は無いんじゃないだろうか? 結局、愛情と恋愛の違いはどこにあって、なにを根拠に成立するのかさえ――
(ああ、でも……)
こんがらがった意識の中で、唯一、はっきりした気持ち。
(もし、キスをするんだったら――この人と、が、いい)
すでに目と鼻の先だったから、少し顔を寄せれば、思ったより簡単に唇に届いた。
(あ、柔らかい)
さっきは驚くばかりで、そんなこと考える余裕も無かったけれど。
ナーサディアと話をした折に想像した通り、唇というものは柔らかくて――熱を、帯びていた。漠然と、もう少し、ひんやりしているのかと思っていたけれど、ふわふわ、あたたかくて気持ちが良い。
とりあえず頭も鼻もぶつけずに出来たから、これで合ってるんだろうか?
シーヴァスに訊いてみようかと、くっつけていた唇を離した、途端。
「んっ……う!?」
すかさず顔も身体も引き戻されて、また唇を塞がれてしまう。
終わったのかな、と思う間もなく角度を、触れる強さを変え、何度も。時折、目元や頬にも口付けながら。
あまりにも立て続けに繰り返されて、何回目と数える意識は、すぐにクラクラして追いつかなくなり――触れては離れるシーヴァスの唇や、切羽詰ったような表情が目に映るのも妙に気恥ずかしくて。
ぎゅっと目を閉じてしまえば、キスの感触は、もっと鮮明になった。
頭は熱くてボーッとするし、足元もふわふわと覚束ず、背中を支える手が無かったら後ろ向きにひっくり返ってしまいそうだと……歯を食いしばり、ガクガク震える手足に懸命に力を入れながら、ぼんやり思う。
人間がキスをする、理由は。
目を閉じて、なにも見えなくても――誰より近くに “恋人” がいると分かって安心するから、なのかもしれない。
(だけど、これ)
本当に、何回すれば終わるものなんだろう?
さっきから息も上手く出来なくて、ちょっと苦しいですと訴えようと思ったら、
(…………?)
生温く濡れた妙な感触が、つうっと下唇を這い、クレアは反射的に目を開けた。
相変わらず至近距離にシーヴァスの顔。だから彼が、なにかしているんだろうが――キスとは違う、それが唇を舐めるように動いて、くすぐったいような、苦しいような――とにかく背筋がぞわぞわする。
落ち着かないから止めてくださいと口を開きかけた、瞬間、
「――ッ!?」
食いしばっていた歯の上に、世にも奇妙な感覚が奔り。
クレアは、渾身の力で以て相手を突き飛ばし、思いっきり後ずさった。なに今の、なに、して?
「なっ、な、なんで歯を舐めるんですか!?」
悲鳴に近い大声で抗議してから、気が付く。シーヴァスが物凄く傷ついた顔をして……いたのは数秒で、
「あ、ああ。そうか――いや、すまん。つい」
呆けた表情に変わり、目線を泳がせつつ前髪をかき上げ、そのままぽりぽりと頭を掻いて、
「……まあ、そのうちな」
端正な顔を赤らめながら、意味不明なことを言う。
そのうちって、なにが?
まださっきの違和感が残っている口許を押さえ、困り果てていると、すっとシーヴァスが近づいてきた。
またなにかされるんだろうかと身を硬くするも、伸ばされた手は頬ではなく、腰に回り――そのまま、ふわりと抱き寄せられる。さっきの、押さえつけるような強さは、そこには無くて――ゆったり包まれる感じ。
呼吸が苦しかった所為かドクンドクンと激しく波打っていた鼓動が、ふと静かになって、
(あ……落ち着いた)
以前、彼が言っていた 『気分が良い』 とか 『落ち着く』 は、こんな感じだったんだろうか? と考える。伝わってくる温もりと――少し不規則な、心臓の鼓動。彼が、生きている証。
ふう、と息を吐けば、知らず知らず強ばっていた肩の力も一緒に抜けた。
「クレア」
耳元で囁いたシーヴァスの声に、我に返る。
「君は私にとって、とても重要な女性だ――忘れないでくれ。そして、私は――ずっと君の為の勇者だ。いつまでも」
さっきは嬉しくて、今もらった言葉も嬉しくて、だけど、だから……やっぱり、悲しい。
「ごめんなさい」
不意打ちのキスで頭いっぱいになってしまったけれど、そもそも、ここに残る残らないという話の途中だったんだ。
「インフォスに残るとは決めましたけど、でも――私、きっと忘れちゃいます。あなたも戦いが終わったら全部、忘れていると思います」
がばっと、肩口に埋めていた顔を離したシーヴァスが、おそるおそるといった調子で問い質す。
「どういう、意味だ?」
「ご存知のとおり、インフォスの時流は歪んでいます。私と、あなたたち勇者が共にいた、今まで……約8年半は、本来なら存在しなかった月日なんです」
焼失した形見、ラスエルの死、実の妹だった少女、消えた胸元の痣、騎士リーガルとの再会、クーデターにより喪った父王と兄――彼らの根幹に関わる現実は、なんらかの形で想い留められるだろうが。
「インフォスが淀みから解放された時点で、歪みに気づいていない人々の記憶は、本能に従い整合性を取って、消えて……あるべき一年分として残る。私や、あなたのように、認識している者の記憶は……せっかく戻った世の理を、再び乱す要因とならぬように、強制的に消されるんです」
気付いてしまったが故に正常な忘却を望めない、この人。
なにより天使である自分の記憶は、間違いなく抹消されてしまうだろう――だから、忘れないという約束は出来ない。
「…………」
小さく息を呑み、絶句していたシーヴァスは、
「“歪んだ記憶は消さなきゃならない――それが決まり” か」
苦々しげに呟いて、しばらく沈黙した後。
「ならば、書き残す」
「……は?」
「天使は、地上の物に直接手を出せないのだろう?」
「え、ええ。そうですけど」
当惑しつつ肯くクレアを見つめ、不敵に笑った。
「君と今日、約束したこと。クレア・ユールティーズという名の女性を愛していると。天の戒律によって互いの記憶は消されてしまうらしいが、君はインフォスのどこかにいるはずだから、命懸けで探し出せと―― “自分” 宛のメッセージをな」
勇者の突飛な発言に、返す言葉が見つからず。
「何年かかろうと必ず、探し出す。君が忘れたというなら……恋に、引きずり落とす」
クレアは、ぽかんとしたまま、自信に溢れた彼の顔を見上げていた。
「天界の意志に逆らうことは、さすがに無理だろうが。君以外を真に愛することなど有り得ないと、それだけは断言できる――他の女性とでは、まっとうな関係にすらならなかったんだからな」
そこで、やれやれと苦笑して、
「しかし君を、あらためて口説き落とすのは、骨が折れそうだ」
片手をクレアの顎に添え、切なげに頬を撫ぜる。
「頼むから、私が見つけ出すまでの間に、他の男に迫られ流されて、キスだの触れさせるだの、許さないでいてくれ。想像しただけで虫酸が走る――そいつを殺してしまうかもしれない」
「え?」
口調は優しげでも、内容は些か物騒な “頼み” に困惑しつつ、考える。誰か、知らない男の人と? キス?
「なんだか気持ち悪くて嫌なので……しないと思います」
感じたままを答えると、シーヴァスは目を丸くした。普段はポーカーフェイスなのに、今日は随分、ころころ表情が変わるなあと、物珍しく思う。
また視線を外し、黙考すること十数秒、やけに歯切れ悪く問いかける。
「私以外の男勇者――レイヴや、グリフィンが誘ってきたら?」
あの二人が自分に対して、さっきみたいなことをするとも思えないが、こちらを窺うシーヴァスの表情が大真面目だったから、想像して考えてみて。
「気持ち悪く、は、ないですけど……やっぱり、なんとなく嫌だから、しないと思います」
クレアが答えた瞬間、またガバッと抱きついてきた青年の、
「や、ちょ、シーヴァス! あの、どうしたんですか? ちょっと――くっついてグリグリするのは止めてください、前髪が、首に、くすぐっ――くすぐったいですから!」
長めの前髪が頬や首筋を掠めて笑いたくなるし、ぎゅうぎゅうと押し付けられる胸板も苦しいしで、じたばた暴れるクレアを、たっぷり数分間押さえ込み。
「充分だ」
ようやく解放したシーヴァスが、初めて見る、子供みたいに無邪気な顔をして笑ったから。
細かいことはどうでも良いかという気分になって、クレアも、つられるように微笑んだ。
まともなキスシーンなんぞ初めて書きましたわー。通常EDを見る限り、天使がインフォスを去る場合は勇者たちの全記憶消去、残る場合は消されず残ってるみたいだけど、あれガブリエル様の温情なのかしら? 謎です。歪んだ記憶に違いない以上、やっぱり基本的には消さなきゃだと思うんですけど。