◆ 恋心(2)
「――フィン、最後の依頼」
窓辺から降り立ったティセは、普段どおり淡々とした調子で告げた。
「ガープの根城を突き止めたから。今から行ってくる……負けやしないと思うけど、念のため。ローザと一緒に待機してて。私たちに万一のことがあったら、代わりにトドメ、刺して」
ローザは今、他の勇者や事情を知る連中に、状況を報告して回っているらしい。通達を終えたら、こっちに来るそうだ。
「どこに隠れていやがったんだ? 堕天使の親玉は」
「世界の中心――リメール海」
「海だぁ!?」
天使の勇者になってから今まで、海で事件なんざ起きたことが無かったから、さすがに面食らう。
しかし考えてみれば狭間だの何だのから現れたり消えたり、陸地じゃなきゃ不便だなんて言いそうにない連中だ。敵の探索任務で駆けずり回っていた妖精たちにとっても、盲点だったんだろう。
「そ、海底の先に繋がる亜空間。もちろん溺死なんかしないように道を作っていくよ。どうせ、帰り道も要るしね」
「そうか、分かった……で、誰が乗り込むんだ? まさか、おまえ一人じゃないだろうな」
なにも己惚れてる訳じゃないが、最終決戦にはオレが行くと思っていた。
相手が魔族なら戒律の範囲外、直接戦えるからって――右腕の包帯もまだ取れてねえのに。
「さすがに利き手がこれじゃあね。私とナーサディアで雑魚退治、腐れ堕天使とは、クレア様とシーヴァス様、回復役にシェリー、あと参戦を申し出てくれたジャックハウンドで戦う予定」
「シーヴァス?」
聞き間違いかと思った。
身軽さと実力だけで言やあ、確かに、あいつとオレのどっちかって場面だろうが。
「アポルオンの野郎とサシで戦って、勝ったはいいがズタボロで、当面戦力外だってボヤいてなかったか?」
「そうだったんだけどねー。異常な回復力で瘴気中毒も吹っ飛ばして、さらに闇の眷属が大っ嫌いなオーラ、無駄に撒き散らしてるから。頭数から外す理由も無くなっちゃった」
「なんだよ、堕天使どもが嫌う? オーラってのは?」
「なんて言うんだろうね、あれ……幸せオーラ?」
「なんかあったのか?」
「クレア様を口説き落として嫁にして、死ぬまで一緒に暮らす気らしいよ」
肩を竦めたティセは、さらりと爆弾発言をかました。
なんでもない口調で言いやがるから、まあ回復したんなら良かったなと、うっかり聞き流しかけて――
「ぶほっ!!」
「うわ、きったな」
オレは飲んでいた牛乳を噴き出してしまい、ティセは、ぴょんと飛び離れた。
「雑巾どこだっけ? 雑巾」
さっさと古タオルを探し出してきて、汚れた床を拭いている天使を、ゲホゴホと咳き込みつつ問い質す。
「お、おま、口説――嫁って、あの大ボケ天使と――マジでか!?」
「マジみたいね」
「いつの間に、んなことに……」
「つい最近?」
「シーヴァスの奴はともかく、あいつ、クレア。嫁って、意味とか分かってんのか?」
オレがイダヴェルに冷たいってだけで 『好きになった』 とか、短絡的な発想を披露してたヤツだぞ?
確か天使は光から生まれる、だから恋愛や結婚の概念も存在しないって話だった。
人間特有の色恋沙汰に関して、本や又聞きで得た知識はあっても、ガキんちょレベルの理解力しか無さそうなんだが。
「ナーサディア曰く “恋の蕾” らしいけど、まあ、理屈より感性優先で生きてる人だから、自覚は後から追いつくんじゃない? 泣くほど取り乱してるとこ、見たのもホントに久しぶりだし」
いつだったか酒場で出くわした女勇者を思い出す。
あの人生経験豊富そうだった踊り子が言うんなら、ナンパ貴族に押し切られただけって訳じゃないんだろう。
「けど、天使がそんな理由で地上に残れんのかよ?」
インフォスを護れってこっちに寄こしたくせに、魔族以外には手を出すなって面倒な理屈で、タンブールが焼け落ちるのを防ごうと魔法を使ったクレアを連行して、謹慎って名目で半年も拘束していた連中だ。また問答無用で連れ帰っちまうんじゃないか?
「天使としては見逃してもらえない。だから人間に転生予定」
「はー……」
転生。
まだカーライルの家で暮らしていた頃に読んだ、子供向けの冒険譚でくらいしか、お目に掛かった覚えが無い言葉だ。しかし、
「だったら、おまえも残りゃ良いじゃねえか。ガキまで戦わせるような天界なんざ見切りつけて、こっちで暮らせよ。そりゃあまあ、いいところばっかじゃねえし、オレは、盗賊稼業から足を洗うつもり無いから面倒見てやるなんて言えねえけど」
妹分がいなくなっちまうと思えばオレだって寂しいし、こいつもクレアと離れたくはないだろう。
「おまえくらいしっかりしてりゃ働き口はいくらでもあるだろうし、オレんとこ――ニーセンの借家で良けりゃ好きなだけ居れば良いし。たまにクレアたち冷やかしに行ったりしてさ、楽しいと思うぜ?」
「簡単に言ってくれるなー」
ぱちくりと目を瞬いた、ティセは、やがて苦笑すると肩を竦めた。
「結論から言うと、無理。私とインフォスの相性はイマイチだから、翼を斬り落とすなんて耐えられないし、そもそも比較的人間に近い魂を持つ下級天使だから出来ることであって、私がそんなん考えたら速攻で堕天使の仲間入りだし……天界で、やらなきゃいけないこともあるしね」
相性?
回復の早さがどうこうと何度か耳にした言葉だが、こんなことにも関わってくるのか?
「それに軍人生活も悪くはないんだよ? あっちじゃ希少な、話の分かる上司がいるからさ」
なんにせよティセは、インフォスに留まる気は皆無らしい。
考えてみりゃ、オレが誘ったくらいで残るなら、クレアが言い出した時点で同調してるか――
「……でも、ありがと。ちょっと嬉しかった」
ふふっと笑って、一歩下がり。
「まあそんな訳で、私はあっちに帰るけど、クレア様は残るから――どこかで会ったら昔話にでも付き合ってやって?」
片が付いたら、あらためて挨拶に来るからと言い残し、飛び去っていった。
×××××
「うふふふふふ、やっぱり、このナーサディア様の観察眼に狂いは無かったようね!」
「一杯だけにしておけよ」
呆れ混じりに釘を刺すシーヴァスを、はいはいと笑顔で流して、
「まあ、まだ “恋の蕾” って感じだけど。筋金入りのネンネちゃんだった、この子にしては見事な成長ぶりだわー」
イイコ、イイコと隣に座ったクレアの頭を撫でながら、
「かんぱーい♪」
半ば強引にグラスを合わせ、はしゃいだ声を上げる彼女と、シーヴァスに挟まれた天使の顔は酒を呑む前から真っ赤になっていた。
「蕾でけっこう。すべて私が教えるさ」
記憶を消されると聞き、ティセナの台詞を思い出しても、さほど動じずにいる自分が我ながら不思議だったが。
告白から一晩、二晩と過ぎ、だいぶ落ち着いてみても――やれるものならやってみろ、という気分のままだ。
想いが通じる自信が無かった反動で、浮かれているのかもしれない。
「あら、余裕?」
鳶色の目を瞠ったナーサディアは、不満げに唇を尖らせ、
「戦いが終わってもクレアに会えるのは嬉しいけど、なんだかちょっと癪ねー。この子のファーストキス、あのとき奪っちゃっておけば良かったかしら?」
「なっ!?」
聞き捨てならない問題発言に、シーヴァスは、持っていた栓抜きを取り落としてしまった。金属部分がテーブル上の皿にぶつかって、ガシャンと物騒な音を立てる。
「きゃあっ? よ、良かった……割れてないですね」
びくっと身を引いたクレアは、皿の無事を確かめ胸を撫で下ろしながら、
「な、今なんと言った!? あのとき、とは、どういう……?」
狼狽もあらわに顔を引き攣らせ、声を荒げた勇者を、不思議そうに仰ぎ見るもあっけらかんと答える。
「あ。ナーサディアが、キスの練習をしようかって、誘ってくださって――」
「したのか!?」
「い、いえ、ええっと――いつか私も兄様みたいな気持ちになることがあるんだとしたら、ファーストキスは取っておきたいなあと思ったので、辞退しましたけど」
「じ、辞退って」
なんだ、その 『遠慮しました』 みたいな言い方は!?
「やっぱり、練習しておいた方が良かったでしょうか? 確か、キスって、上手い下手があるんですよね? たぶん下手……でしたよね、私」
絶句しているシーヴァスを余所に、頬を赤らめ考え込み、また突拍子ない発言をする。そこへ妖艶な笑みを浮かべ、とんでもない誘いをかける美貌の踊り子。
「じゃ、今からでも練習する? 私と」
「うーん……」
「却下だ!」
なぜそこで悩むんだと、焦り割って入ったシーヴァスは、恋人の肩を掴んで引き寄せ昏々と言い聞かせる。
「たとえ相手がナーサディアでもダメだ! あのとき “他の男” と言ったのは撤回する。男に限らず女性だろうが老人だろうが子供だろうが動物だろうが――とにかく私以外に触れさせるのは禁止だからな!」
「は、はい。分かりまし……た?」
目を白黒させながらも頷くクレアだったが、禁じられたと認識はしてもダメだと怒られた理由の根本的なところは解っていないんだろう。
「あー、あはははははっ、もう、おもしろすぎ――天下のプレイボーイも形無しね。まあ、この子にはそれくらい分かりやすくクドクド言っておいた方が間違いないと思うけど」
ナーサディアは上機嫌で、けらけらと笑っている。
ラスエルを亡くした直後の憔悴ぶりを思えば、楽しそうで何よりだが、長らく “からかう側” だった身にとって、いいようにからかわれている現状は少々不本意でもあった。
「でも実際、あなたシーヴァスを “特別” だって認識してる? キスされたから応じただけなんてオチだったら、きっと立ち直れないわよ。彼」
「どうなんでしょう? 愛情と恋愛の違いって、未だに、よく分からないんですけど……」
困り顔で小首をかしげたクレアの回答に、まずそこからか、と脱力してしまったが、
「ただ、シーヴァスが、死んでしまったかもしれないと考えたら、怖くて――会えなくなったら絶対に後悔するだろうなって、感じたのと」
思いがけず続いた台詞に面食らい、そうして、
「キスをするんだったらシーヴァスとが良いな、とは思いました」
「あらあら」
目を丸くしたナーサディアが冷やかしの眼で、こちらを一瞥。女性陣から視線を逸らすべく頬杖をついたシーヴァスは、複雑な感情を込め、ぼやいた。
「……第三者がいる場所で良かったな? クレア」
絶対に自分は今、顔が赤い。おそらく真っ赤だ――この調子で一生、彼女に振り回され続けるんだろうか?
「え、ええ? なにが、ですか?」
二人きりであればどういう目に遭ったか想像も出来ないんだろう、おろおろするクレアの隣で、かつて天使に恋をした女性は、くすくすと笑う。
「ラスエルの甥っ子か姪っ子に会える日も、そう遠くはないかもしれないわね」
そんなふうに、あれやこれやと質問攻めにされながらも、夕食を終えかけた頃。
「あのね、クレア。キスしたいなって思うくらい好きな、たった一人が、片想いの相手」
ナーサディアによる恋愛講釈が始まった。
「片想い……?」
「そう。好きな人が相手じゃないと、キスもね、幸せな気持ちどころか腐った果物を強引に食べさせられたような、嫌〜な気分になっちゃうのよ」
神妙に頷きつつ、クレアが顔を顰める。
「そうですね――想像したら、気持ち悪くて嫌です」
「でしょう? だからキスは、両想いの特権なの」
人差し指をピンと立て、姉が幼い妹に語り聞かせるような、優しい口調で。
「抱きしめたり、キスしたり、ずっと一緒にいたい人が、お互い一致したら、晴れて両想い。恋人同士ってことになるの」
「……じゃあ、私とシーヴァスって恋人同士なんですね」
説明された天使は感心しているようだ。それすら未自覚だったのかと、シーヴァスは再び脱力する。
「そういうこと。彼になら、なにされてもいいなって思う?」
「はい。あ、だけど、冗談でからかうのと歯を舐めるのは、出来れば止めて欲しいです」
しまったと思う間も無く、当然ある部分を聞き咎めた、ナーサディアは片眉を跳ね上げた。
「歯? 舐められたの?」
「はい。なんだか変な感じで、びっくりするし、心臓に悪いので――」
「あー、クレア? それね、たぶん本当に舐めたかったのは別のところよ」
「? どういう意味ですか?」
「どういう意味ですか、って聞いてるわよ? 恋人サン。ぜんぶ教えるんでしょう?」
話をややこしくしておきながら、見事な丸投げ。確信犯だ。
「もう勘弁してくれ、ナーサディア……」
ご指摘のとおり、がちがちに閉じた口を開けさせたかっただけなのだが、肝心なクレアにそれは伝わらず、女勇者の方は察して憐れみながらおもしろがっているようだ。実地ではなく懇切丁寧に解説しろと?
「こんな人目の多い場所では……生殺しだ……」
呻くシーヴァスを指差して笑うナーサディア、腑に落ちない様子のクレアに頭を抱えながら、最終決戦前の夜は更けていった。
早速ナーサディアの玩具と化している、ほやほやカップル。勇者女性陣とクレアの関係って、ナーサディア=姉、フィアナ=対等な友人、アーシェ=妹みたいな感じです。