◆ 世界の中心(1)
――そうして、夜が更けて。
ジャックハウンドが待つ、ガルフへ飛び。
「じゃ、乗り込みますよ」
結界に包まれ舞い上がった先、眼下に広がる海原は、堕天使に巣食われているなどと感じさせぬほど美しく凪いでいた。
「道を開くのと、渦巻いてるだろう瘴気の相殺は私がやりますから……クレア様は水圧を弾いて」
「うん、任せて」
豪快な水飛沫を上げ、リメールへ突入した一同は、まっすぐに海底へと降りていき。
やがて月光が届かなくなった海中は藍色から、魚などの生物も見当たらぬ漆黒に変わり。誰もが言葉少なに前方を見据えながら、どれくらい過ぎた頃か――ふっと、肌に感じる空気が変わった。前にも一度、対峙した底冷えする気配。
「そろそろか」
「ええ」
「ううう、暗くって無気味……嫌な感じですね……」
ジャックハウンドの角にしがみついた妖精は、耳や尻尾の毛を逆立て、ぷるぷる震えている。
「なにか、見えてきたわね?」
呟いたナーサディアが、細い眉をひそめた。
「……魔界生物」
舌打ちしたティセナが、取り出した光剣を一閃する。進行方向に蠢くモンスターを海水ごと消し飛ばした、光の軌跡、その先に黒く渦巻く雷雲めいた “なにか” があった。しかしそれはすぐに、再びどこからともなく湧いて出た異形の魔物たちに塞がれ、見る間に覆い隠されていく。
「やっぱり、使役した魔物を盾にしているか――魔界から、獲物の匂いに惹かれ無尽蔵に出てくる、あれをマトモに相手していたらキリがありません。亜空間の支配者・ガープを倒せば “道” も保たれなくなって閉じるはず――もう一度、薙ぎ払いますから、その隙に突破してください」
「分かったわ。無茶しないでよ、ティセ!」
「雑魚にやられるほど弱っちゃいません」
心配そうなクレアに、淡々と応じる少女。鞭を握りしめたナーサディアは、眼下にひしめく魔軍を見据え、
「クレアたちを頼むわよ、ジャック!」
「ああ。もう誰一人、奴らに殺させはせん!!」
牙を剥いて唸る神獣の傍ら、シーヴァスも無言で、愛剣を鞘から引き抜いた。
天使の意に沿った防御結界が二手に分離し、再び迸った光の奔流を追うように、黒い渦を目掛け急降下していき――ふっと、空気と視界が切り替わる。
ぐねぐねと波打つ足元は赤黒く、木の根というより腐った動物の内臓めいて。
温度や音が感じられない暗闇の中、クレアの周りだけが辛うじて明るく――死霊めいた敵の姿も見て取れた。
「私の計画を、こうも邪魔立てするとはな……おまえらごとき、人間が」
シーヴァスは、こうして対峙するのも二度目だからか、さほど驚きはしなかったが、
「お、おおおおお、お化けえぇっ!!」
身の丈10メートルはあろうかという異形を前にして、素直に涙目で縮み上がる妖精の反応に、そんな場合ではないと思いつつも少し笑ってしまった。他方、
「ガープ!」
低く身構えたジャックハウンドは、殺気もあらわに堕天使を睨み据える。
「なぜインフォスを襲った? なんの為に、天使たちと戦う?」
「愚問だ……私の戦いは自分本来の地位を取り戻す為の復讐……」
ガラガラと耳を掻き毟るような、声が響き。
「おまえらなど、塵としても存在していなかった……遠い、遠い過去……天界での二つの勢力が争った。秩序と混沌、光と陰、生と死……祝福と呪い……片方を信じるものは、もう片方を信じなかった……」
傍らに滞空したクレアは、怯えるシェリーを庇うように手のひらに乗せた。
「……決定的な対立が起き……ついに両者は戦った……世界全体を揺るがす、巨大な争いだった……そして……混沌は敗れ……多くの天使が堕天使となり異界へ追放された……」
まさか会話に飢えていた訳でもあるまいが、延々と語るガープは、とりあえず攻撃してくる様子が無い。
「トロメア、ジュデッカ、リンボ……荒涼とした異次元で、何千年、何万年、放浪し……我々は反撃を窺った……」
とはいえ一度は殺されかけた身だ、いつ相手が豹変するかも分からない。警戒しつつも、ジャックハウンドに並ぶように前へ出たところで、
「多くの時が流れ……我々は少しずつ……元の力を取り戻していった……天界に従属する、いくつもの地上世界の時を淀ませ、混沌に導き、滅ぼすことによってな……」
シーヴァスは、敵の発言に眉を顰める。
窮地に気付いてもらえず、もしくは守護天使の力を以てしても救えずに――攻め滅ぼされた地上界が、かなりの数あったというのか?
「最後に、このインフォスを喰らい、力を得た後、天界を攻め落とす……つもりだったが……貴様らのような……人間に邪魔されるとはな……」
落ち窪んだ眼窩が、ギラリと光り、憎々しげな視線を向けてくる。
気だるげだったガープの纏う空気が、瞬時に威圧的なものに変わり。禍々しい殺気が膨れ上がる。
「しかし……まだ終わった訳ではない……まだ……私一人でも……インフォスに住むものどもの魂を喰らえば……天界を滅ぼす力を得ることが出来る……」
それを感じ取ったか、クレアも、まずは様子見の為だろう。素早く防御結界を張り巡らせた。
「私は……天界に戻ってみせる、必ず……」
複数あるガープの腕が、翼が、鎌首をもたげる蛇のように蠢き。
「滅びよ、忌々しい神の眷属ども……!!」
「インフォスにも、そこに住むものたちにも――これ以上、手出しはさせんぞ!」
シーヴァスは、敵の言葉を一蹴した。
「シェリー、私の後ろから出ずに、回復魔法に集中して!」
「はい!」
「シーヴァス、ジャック。ガープの左腕――鳥の首は、おそらくイウヴァートが行使していた力の一端です。力技で暴れるだけ、と報告を受けています」
「そうか、ならば大した脅威ではあるまい……右腕については解説不要だ。嫌になるほど手こずらされた相手だからな」
クレアの指示に応じた妖精が、後衛に回り、
「ジャックハウンド、鳥の方を頼む。右側は私が斬り落とす」
「承知!」
応じた神獣が真っ先に、ガープに飛び掛っていった。
左右への攻撃分担に加え、跳躍力に優れたジャックハウンドが敵の上体を狙い、シーヴァスが腹部を斬り払うという戦い方が、自然と形になってきた頃、
(――なんだ?)
ガープを取り巻く空気がざわりと揺らいだように感じ、思わず眉をひそめる。
ジャックハウンドも、なにかを察知したらしく噛み付いていた敵の腕から飛び離れようとするが、退避も間に合わず目も眩むような落雷が襲った。ばりばりと一帯を叩き潰すように降り注ぐそれは、逃げ場も無いほど凄まじく、一瞬ヒヤリとしたが――紙一重のところで天使の防御魔法に護られたようで、どうにか神獣ともども感電死を免れていた。
「……雷雨」
背後に滞空した天使が、ホッと胸を撫で下ろす。
「ベルフェゴールの能力まで――良かったです。あの嫌な感じ、忘れていなくて」
その肩に掴まって青い顔をしているシェリーは、それでも堕天使を睨み据えながら、懸命に回復呪文を唱えていた。長引く戦闘で蓄積した疲労が、すっと霧散していく。
「勝ちましょうね」
ガープから目線を外さず、クレアは呟いた。
「当然だ」
剣を構え、だんだん苛立ちをあらわにし始めた敵に向き直る。
大技を喰らっての即死さえ免れれば、後は持久戦――ガープの行動を見る限り、治癒魔法のような回復手段は持っていないようだ。継ぎ接ぎのような、あの身体を滅すれば全てが終わるはず――
ガープ戦。これといって語ることも無いですが、あらためて台詞を見ると気になったのが “滅ぼされた地上界” の存在――天界は把握してるんだろうか? 謎です。