◆ 世界の中心(2)
緊迫した空間に渦巻く戦いの音、だんだん消耗していく体力・魔力に対する焦り、それでも負ける訳が無いという不思議な――開き直りにも似た落ち着きで、感覚は妙に冴えていた。
防御、回復、攻撃。
ひたすら、その繰り返し。
時間の感覚も狂い始めて、どれくらい経った頃か?
「……グググググ……グググ……」
ガープの右腕、さらに左腕が相次いで破裂音と炎を噴き上げ、消滅して。
地を這うように響く、くぐもった呻き声。
間を置かず胴体も、かつてアドラメレクが自爆したときのように、轟音を立てて――黒煙が霧散してみれば、
「ここで……こんな形で、力尽きるとは……」
ガープの身体から、しゅうしゅうと、すべての “力” が抜け落ちていく様が見て取れた。
「天界への復讐……長年かけて成そうとしたが……だが、いつか……必ず天界を地獄の業火で焼き払ってみせよう……」
それぞれ堕天使から距離を取り、身構えたシーヴァスと神獣は、まだ警戒体勢を解いていない。
シェリーも、こちらの襟ぐりにしがみついたまま固唾を飲んでいる。
「どれくらい時が……かかろうと……必ずだ……何度でも甦るぞ……」
絞り出すように続いた言葉に、クレアは眉を顰めた。
甦る?
そんな、まさか。
「必ずな……ミカエルや、ガブリエルに伝えておけ……」
落ち窪んだ眼窩に灯っていた紅い光が、ふっと掻き消え。
「……必ずだ」
嘲笑うような囁きを残し、それきり場に静寂が訪れた。
「負け惜しみか? ……まさか、堕天使は不死身だとでも?」
困惑気味に振り返った勇者が、クレア自身の不安を代弁するような疑問を発し。ジャックハウンドも意見を求めるように、こちらを仰ぎ見た。
「アストラル生命体にとって、死はイコール存在の消滅。甦るとは思えません、けど倒せたはずなのに、こうして実体が形を留めているのは妙ですね――もしも本当に、完全にはトドメを刺せていないんだとしたら、これ以上どうしたら――」
明確な答えを出せず、ガープの遺骸を横目に戸惑っていると、
「このまま、捨て置けば」
背後から聞き慣れた声がして、
「ティセ?」
「ティセナ様!」
シェリーが弾んだ声を上げ。
降り立った少女に一拍遅れ、ナーサディアも姿を現した。二人とも細かな傷は見えるものの、さほど困憊してはいないようで、ひとまずホッとする。
「異界へ繋がる道は閉じました」
「海域の魔物退治も完了よ」
ナーサディアが余裕たっぷりの表情でウインクを飛ばし、次いで 「あれが堕天使ガープ?」 と、今はピクリとも動かぬ骸骨を睨みつける。
「このまま捨て置けば、どうなると……?」
「何千、何万年かの、遠い未来には復活します。現に力尽きたのに、死骸が消滅していない――他の生き物を、魂を吸収し続けた影響で、もはや本質が純粋なアストラル体じゃなくなっている。怨念が “コレ” を媒介に集まって、いつか再び動き出すでしょう」
「ならば、どうすればいい? さらに打撃を加えて、形を無くせば良いのか?」
顔を顰めたシーヴァスの問いに、ティセナは首を振った。
「砂礫になるまで砕いても、ガープの構成分子が存在する限り無意味です。地上界の食物連鎖からは外れた代物ですから、半永久的にリメール海を漂い続けるでしょう」
だから、と呟いて、少女は堕天使の躯に近づいていった。
「後始末――無に還します。ちょっと空気が乱れるだろうから、下がっていてください」
ティセナが、人間ならば心臓があるだろう辺りに手を翳すと。
「……なんだ!?」
そこから躍り出た漆黒に輝く球体が、抵抗するように激しく明滅し、一帯を暴風が吹き荒ぶ。
「まだ息があったの!?」
ナーサディアが焦ったように鞭を握り締め、
「いや、おそらく――ティセナ殿が、ガープの魂――核を捕らえたんだろう。天界軍には “魂狩り” の異能を持つ者がいると、噂を聞いたことはあったが――」
ジャックハウンドは驚愕の表情で、眼前の情景を見据えていた。
魂の消滅。
神の眷属にとっての、極刑。
しばらくは目を開けていられないほどの閃光を放っていた球体だが、やがて勢いも弱まり、最後には――ぶしゅう、と生臭い黒煙を残し、握り潰された。
同時に、ガープの死骸も。最初から幻だったかのように、跡形も無く消え失せて。
「……終わりました」
深々と息を吐いた、ティセナは疲れ切った表情ながら小さく笑った。
「ガープが完全に消えた、この亜空間もすぐに消滅します――急いで出ましょう」
大急ぎで、崩れ始めた場を脱出。
往路と同じように水圧を弾けば、構築された結界は、海中をフワリフワリと泡のように浮き上がり始め。
誰もが安堵と、同時に押し寄せた疲労感に座り込んで、沈黙している中。
なんとなく俯いて、さっきまでガープが巣食っていた辺りを、見るともなしに眺めていると――すでに渦巻いていた瘴気も霧散して、ただ暗いばかりだった海底に、さらに黒い影が現れた。
最初は目の錯覚かと思ったが、その黒点は次第に大きさを増して、
「な、なに? あれ!」
「えっ?」
そっちを向いた勇者たちが、ぎょっと顔を引き攣らせる。
そうこうしている間にも黒点から伸びた影が、触手のように伸びてきて。
「ガープは消滅したんじゃなかったのか!?」
「アレに瘴気の類は感じられません。たぶん長期間そこにあった亜空間が崩れた反動、一種の自然現象で……!」
舌打ちしたティセナが衝撃波を放てば、影の勢いは一瞬弱まるけれど、すぐに轟々と音を立てて迫ってくる。
「クレア様、加速して!」
「や、やってるけど――もう、あんまり魔力が残ってなくて」
ガープを倒した時点で、けっこうギリギリな状態だったのだ。深海の水圧は凄まじく、スピードは願ったようには上がらない。
思わず泣き言を漏らすクレアに、少女も珍しく焦った口調でまくしたてる。
「こっちもです! あんな捩れに引きずり込まれたら、アストラル体の私たちはともかく、人間じゃ……!」
再び触手に追いつかれ、ティセナが応戦している方向とは逆側からぶつかってきた影が、結界内を大きく揺らし、
「きゃあ!?」
「ナーサディア!」
バランスを崩して結界外まで吹き飛びそうになった女勇者を、間一髪のところで、支えた神獣が下敷きになりながら倒れ込む、と――
「!?」
バシュウ、と空気が揺らぎ、同時に一帯が青い閃光に包まれた。
亜空間の跡地から伸びていた触手や、黒々とした影は痙攣するように縮んでいって、間もなく海底の色と同化し――未だ燐光に照らされた結界内では、勇者二人とティセナ、ジャックハウンドが、ぽかんとクレアを凝視している。
正確には、その胸元でふわふわと、水中を漂うように浮かんだ結晶石のペンダントを。
「……いったい、なんの魔法を使ったんですか? クレア様」
アイスグリーンの瞳をぱちくりとさせながら、少女が問うけれど、
「な、なんにも――石が勝手に、動いて?」
訳が分からず呆然としているのは、こちらも一緒で。
「なんにせよ、助かったか」
「そのようだな。亜空間消失による捩れも、収まったようだ」
「ごめんね、ジャック。クッション代わりにしちゃって」
勇者たちは足元に広がる情景を注視しつつ、やれやれと肩の力を抜いていた。
行く手を遮るものは無くなり、上昇と共に水圧も和らいでいって――やがて頭上がうっすらと明るくなり始め。
「はー、外だわ……」
「今は、日暮れ? いや、夜明け前か――」
リメール海上空に浮かんだ結界内で、陸地の景色にホッとしつつ、東の空に目をやれば、
「あれ……? クレア様、ナーサディア様! あああ、あそこ、あの気配って」
シェリーがぱたぱたと飛びながら、あたふたと一点を指し示す。
「?」
うっすらと差し込む朝陽が逆光になり、少々見え難いが、確かにそこに青白い影があった。
翼? 鳥? いや違う、天使――
「……ラスエル?」
傍らのナーサディアが、掠れる声で呟き。神獣は、ボルサの一件を思い出してか相手の正体を探るように一歩前に踏み出す。
結界の外、10メートルほど離れた位置に滞空していたのは、在りし日の兄の後ろ姿だった。
(幻? それとも……なにかの、罠?)
唐突過ぎて反応らしい反応も出来ずにいるクレアたちの方を、ふっと振り向いた、懐かしい人は静かに微笑んで、リメール海を――いや、眼下に広がる世界を指差した。
混乱しつつも促されるまま、視線を移せば。
本格的に朝陽が昇り出すと、その光に後押しされるように、湖面に波紋が広がるようにインフォス全土を覆っていた時の淀みが晴れて行って――
やはり、その道を――というガブリエル様の台詞からして、守護天使が地上に降りたいと言い出すのは、かなり毎度のことと思われ。じゃあ、よっぽどのことが無い限り、人間を愛した記憶自体、消されちゃうんじゃないかなーと想像しました。だから、ラスエルも大天使に相談することなく、ベルフェゴールと戦いに降りちゃったのかと。