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◆ 円環の楔は解き放たれて(1)


 ―― “時の淀み” ――

 長らく自覚すらせず、ふたつめの結晶石を渡された時にそれらしい落差を認識しても、やはり束の間のことで慣れが違和感を覆い隠していた……それが吹き払われていく。色鮮やかに。
 夜明けの空、紺碧の海、草原を駆ける動物たち、揺れる草花、朝陽と共に動き出す人里の営み――
 曇り空が一気に晴れ渡ったような、彩の変化に魅入っていたシーヴァスは、

“……あのときは、混乱させてしまったみたいで悪かったね”

 唐突に聞こえた謝罪に、反射的に後退る。
 あのとき? なんのことだ?

“たぶん僕は残留思念みたいなモノなんだろう――なにがしたかったか思い出すのに、かなり時間がかかってしまった。けど、最後に少しは役に立てたかな”

 やや自嘲混じりの、けれど満足げな語調。

“妹と、この愛しい世界を――どうか、よろしく――勇者シーヴァス”

 妹?
 クレアの兄、ラスエル?
 その声に聞き覚えがある気がして、けれどボルサの古城内に同行しなかった自分は、彼の天使と面識など無いはずで。

 ただただ戸惑い相槌も打てずにいるうちに、男天使の姿は、最初から幻だったかのように掻き消えた。
 同時に、クレアが胸元につけていたペンダントの石が、一瞬に色を失い――砂のように崩れ散る。
「あ……!」
 とっさに手のひらで受け止めたそれも、風に融けるように消えてしまった。

「クレア、あなた……?」
 彼女がナーサディアの為に生み出した幻か、と思ったんだろう。震える声で訊ねる女勇者に、
「私は、なにも――」
 クレアは、首を横に振って否定するだけで精一杯のようだった。

 どちらからともなく抱き合ったままへたり込んだ二人は、わあわあと子供のように声を上げて泣き出した。
 そんな彼女たちに寄り添う神獣も、感極まった様子で、きつく両目を閉じている。
「ジャックハウンド……ラスエルは去り際に、なにか言ったか?」
「頼りない天使で済まなかった、要らぬ苦労をかけた――新たな主の元で、幸せに、と――」
 涙を堪えるように瞑目したまま、答えた獣の横から、シェリーが誇らしげに胸を張る。
「私にも! 怖かっただろうに、よく頑張ったねって、褒めてくださいました」

 声というより、脳内に直接響いた感じはあったが――どうもそれぞれ、違った内容のメッセージが聞こえたらしい。

 ティセナは話に乗って来なかったが、はしゃぐ妖精を見つめ目を細めて笑った。そうして、足元で泣きじゃくる二人の疑問を解くように告げる。
「ずっと堕天使の領域に囚われて、限界だった……アストラル体としての変質が進み始めていたから、その僅かに歪んでしまった部分が、ラスエル様の心残り……思念を、インフォスに留まらせていたんでしょう。魂の欠片みたいな状態でも、元は自身の “力” だった結晶石になら働きかけられた」
 ちゃんと聞こえてはいるようだが応じる言葉も浮かばないらしく、ラスエルの妹と恋人は、涙でくしゃくしゃになった顔のまま何度も頷くばかりだ。
 彼女たちには、なにを囁いて去ったのか――
「これで完全に、解放されたと思います」
 次第に高く昇っていく朝陽を背に、二人が泣き止むまで、堕天使の魔手から解放されたインフォスを飽きることなく眺め続けた。


 ……そうして、すっかり明るくなった空の下。
 天界へ戻る前に、まずは堕天使の悪行を知る協力者たちに報告をと、二手に別れインフォスを巡ることになった。

 ティセナ、及びシェリーはナーサディアと共に、ジャックハウンドをアルプへ送り届け、竜の谷へ、それからグリフィンに任務完了を報せて来ると言うので。
 シーヴァスは、クレアと共に、まずノバのグレイ家へ世話になった挨拶と礼を済ませ、フィアナ、アーシェの元を訪ねた後、レイヴのところへ向かうことになった。
 面識があるとはいえ、特に女性陣は、天使と二人きりの方がのんびり雑談も出来て良いのだろうが――おそらく 『これでお別れなの?』 と訊ねるだろう彼女たちに、クレアがどう答えるかが気になり、黙って屋敷に帰るという選択肢は選べなかった。
 約束した以上、いつ戻って来るかと問い質す行為は女々しく思え、なによりインフォスと天界では元々の時流さえ違うのだ。何ヶ月、何年待てば良いかなどと訊いても、想い人を困らせるだけだろう。

 ポーカーフェイスの裏でごちゃごちゃと考え込んでいるシーヴァスを他所に、グレイ親子は勝利の吉報に握りこぶしで喜び。

 交易ギルド本部の中庭で、賞金首情報を眺めていたフィアナ・エクリーヤは、
「ちぇっ、あたしも諸悪の根源に一撃ぐらい食らわせてやりたかったなー。まあ、騎士様に腕っ節で劣ってるのは事実だからしょうがないけどさ」
 冗談混じりに拗ねてみせつつも、すっきりした表情で笑い。
「あ、ねえ。堕天使一派を退治し終わったってことは……まさかあんた、もう天界に帰っちゃうわけ? だったら、せめて教会の子供たちにお別れくらい言ってやってよ。急に会えなくなったら、あの子ら泣いちゃうよ」
「いえ。私、インフォスに残りますから」
「え、ホントに!?」
「はい、そのつもりです。任務完了の報告をして、事務的な仕事を片付けて。地上に留まりたいと申し出て、許可されても――たぶん戻って来るには、早くても一年くらいかかると思いますけど」
「そっか。だいぶ先だね……でも、また会えるんなら良いか」
 遠い空を仰ぎ、掲示板にずらりと並んだ賞金首の人相書きを横目に、不敵な笑みを浮かべる。
「戻ってきたあんたが変な心配しなくて済むように、賞金首とっちめまくって、クヴァールの治安維持に努めとくよ」
 嬉しそうに頷き返した、クレアは、はたと困ったように眉根を寄せた。
「それは頼もしいですけど、あんまり無茶しないでくださいね。地上に留まる代償に、天使としての能力は剥奪されるから、もう傷を魔法で治すことも出来なくなっちゃうんです」
「だいじょーぶだって! 堕天使でも魔族でもない輩に、そうそう後れを取ったりしないさ」
 胸を張って言い切り、笑顔で手を振る。
「じゃあ、またね?」
「はい」
「騎士様も、たまにはエレンたちの顔見に来てやってよ。旅のついで、って流れでもないと遠い国だろうけどさ」
「ああ、そのつもりだ」
 焼け跡もすっかり覆い隠された砂漠の街を後にして、シーヴァスは、天使に連れられファンガムへと飛んだ。


「……そっか、アポルオンみたいな魔族は、もういないんだ」

 城の重鎮とは顔見知り、とはいえ正式な面会許可を得るとなると手続きが面倒だ――という訳で、バルコニーを扉代わりにファンガム王女を訪問。
「じゃあ、これから先に起こる問題や、紛争は、ぜんぶ私たち人間の責任ってことね……頑張らなくっちゃ」
 驚きつつも喜んで、アーシェが手ずから淹れてくれた紅茶を片手にティータイム。
 飲んでみてようやく自覚したが、かなり喉が渇いていたようだ。
 あんな強敵と生きるか死ぬかの戦いを繰り広げた後なのだから、当然といえば言えるが、ありがたく二杯目をいただく。
「ねえ、クレア。もう天界に帰っちゃうの? 女王即位式の日取り、来月頭の日曜に決まったんだ……ずっと見守って助けてくれた、あなたにもティセナにも、出来れば見届けてほしい……もう少し、インフォスに居られない?」
「ごめんなさい。任務完遂した以上、すぐに報告に戻らなくてはいけなくて――守護天使ではなくなったら、もう扉を自由に行き来することも許されなくて。だから、即位式のお祝いには行けません」
 懇願するも首を振られ、アーシェはがっくりと肩を落とした。
「だけど、戻ってきますから」
「へ?」
「たぶん、早くても一年くらい先の話になっちゃいますけど。私はインフォスで生きていたいから、大天使様に、そう願い出て……帰って来ます、この世界に」
「そ、そうなの? そんなこと出来るの!? 嘘、やった! えっ、ねえ、戻ったらどこで暮らすつもり? クレアさえ良ければグルーチに、ううん、部屋だって好きそうな仕事だって用意するから一緒に城で」
 落胆から一転、歓喜した王女はテーブルを乗り越えんばかりの勢いでクレアに詰め寄り。
「お、おい――」
 それは困ると口を挟もうとしても、もはやシーヴァスの存在など眼中に無い様子のアーシェは、彼女との仲良し同居生活ドリームを熱く語り始め、
「え、え、え? ああ、ええと……すみません、アーシェ」
 少女の提案と勢いに目を白黒させながらも、どうにか居住まいを正したクレアは苦笑混じりに断りを入れた。
「もちろん戻ったら挨拶に伺いますし、ファンガムの町や村も見て回りたいですけど、シーヴァスと一緒にいるって約束してますから、グルーチで暮らすという訳には――」
「へっ?」
 王女は、碧眼を丸くしつつ固まった。
 そうして、ぐりんっと向きを変え、こちらを凝視。
「え……ええええっ!?」
「あ、アーシェ殿。声が大き――」
「どっ、どどどどういうことどういう意味!? 聞いてない、まったく聞いてないわよナニそれ何時からあんたたち、どっちからどーなってそういう関係に!?」
 クレアとシーヴァスを交互に指差しながら、顔を真っ赤にして喚き散らす。
「あの、私たち、こっそりオジャマしている訳ですから、もう少し静かに」
 部屋の外まで響き渡っていそうな大音量に、こちらがヒヤヒヤしていると案の定、
「アーシェ様? どうかなさいました?」
 訝しげに近づいてくる男女の声、複数の足音。
「マズイぞ、人が来る」
「えーっと、えーと、この場合……退却するのがベストでしょうか?」
「そうだな、ややこしいことになる前に逃げよう」
「それじゃあ、アーシェ。また会いましょうね? 紅茶、ごちそうさまでした」
 速攻で結論を出して席を立つ。
「う、うん、楽しみにしてる――って、ちょっと! どうせ、あんたとはそのうち政務の場で顔を合わせるんだから、問い詰めるからね覚悟しときなさいよ抜け駆け男!!」
「お手柔らかにお願いしますよ、姫」
 アーシェの捨て台詞を背中越しに聞きつつ、別れの挨拶も早々に、マジックストーンを用いて逃げ出した。


 レイヴの行動範囲であれば、シーヴァスも顔が利く。

 シャリオバルト城の裏手に転移して。
 ファンガムでの騒々しさから一転、決着の報告は静かに終わり。

「……そうか。堕天使の王は滅びたか……」
「はい。インフォス守護の任務、完了です。長い間、勇者として働いてくださってありがとうございました」
「役に立てたならば、良かった」
 レイヴは感慨深げに、わずかに表情を綻ばせた。
「今後は “天使” の助力は望めない。ヘブロンを含め、インフォスの平和を守るはそこに暮らす我々の責務だ――ますます仕事が増えるかもしれんぞ? ヴォーラス騎士団長」
「ああ。だが、おまえも例外ではなかろう。ヘブロン騎士の称号を持つ以上は」
 それはレイヴなりの冗談と言うか軽口の類だったんだろうが、
「そうだな。手伝いが必要なときは連絡をくれ。まあ、城へは定期的に顔を出すつもりだが……とりあえず、今日は本家に寄ってから、ヨーストに戻ることにするよ」
 こちらの返答を受け、目を丸くする。
 どういう風の吹き回しだろうかと訝しんでいるのが傍目にも明らかで、思わず苦笑してしまう。
 今後、なにか真面目な受け答えをするたび、回りからこういった反応をされるんだろうか?

 話し終えてレイヴと別れ、城の外へ出たところで、クレアはゆっくりと翼を広げた。

「ええと、それじゃあ。いったん天界に戻りますね、シーヴァス」

 陽に透ける白い羽を、こうして見るのも最後になるんだろうか。
 まだ言いたいこと、聞きたいことは山ほどあって、思わず手を伸ばしそうになるが、触れてしまえば未練がましく離せなくなるだろう自分を客観的に見ている部分もあり、結局は、

「ああ……待っている」

 衝動を押さえ込み、笑って送り出すしかなかった。
 問われれば、戻ってくると告げた。自分以外の勇者にも、はっきりと――その言葉、あの約束を、信じて待とう。不安が無いと言えば、やはり嘘になるけれど。

「はい。行って来ます!」

 クレアは嬉しそうに頷くと、青空へ吸い込まれるように消えていった。

(一年、か……)

 長過ぎる、と不満に思う一方で、それまでに野暮用を片付けられるだろうか? なにより消されてしまうらしい “記憶” は、いつどのように失うのだろうかと考える。人間の身でジタバタしたところで、日々を大切に、最善を尽くす他に出来ることも無いのだが。

 まずは面倒事の筆頭とも言える祖父――あの頑固爺に、貴族の令嬢でもなんでもない娘を妻に迎えることを、認めさせねばならないし。
 テコでも許さんというなら、勘当されるなり何なり、フォルクガングとは無関係の場所で暮らしていく手筈を整えておく必要がある。
 しかしそれではクレアのこと、祖父を気にして表情を曇らせるだろうから、なるべく次期当主としての地位を不動のものとすべく、政務面で成果を挙げて周囲のバックアップも得ておくべきだろう。
 加えて、昔の女性関係も、まだ火種として燻っているようならキレイサッパリ清算しておかなければ――勇者の任務が終わっても、当分は忙しくなりそうだ。



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リュドラル、及びグリフィンとティセナが別れ際に交わした言葉は、そのうちアルカヤ編で回想として描写できれば良いなーと思ってます。ディアンのところにもクレアを寄らせるか迷ったけど、イメージしたらホントに報告だけになっちゃったから割愛。