◆ 円環の楔は解き放たれて(2)
天界に戻ってからの数日は、あっという間に過ぎた。
まず聖グラシア宮へ赴き、ガープ討伐の報告をして。
エミリア宮の知人たちにも挨拶回りをして、幼なじみのラヴィエルに会って、インフォスに残るつもりだと告白して。
怒られ泣かれて、それでも最後には笑って 「元気でね」 と言ってもらえた。
それからはベテル宮に泊り込んで、最終報告書を仕上げて。
シェリーとローザにもインフォス残留の決意を明かして、驚かれ問い質され寂しいと泣かれ 「そのうち遊びに行っちゃいますからね!」 と宣言されて。
守護天使としての残務全てが完了した、その日――大天使ガブリエルは、インフォスの停まっていた時が再び流れ始めたこと。勇者と、クレアたちの働きを労い、穏やかに告げた。
ティセナは天界軍・ミカエル配下に戻り。
妖精たちは、本来の主たる女王ティタニアの元へ帰ること。それから、
「あなたは本日を以って、インフォス守護の任を解かれ、天界内務に就くことになります」
クレアに与えられた新たな役目は、半ば予想されたものであった。
「共に戦ってくれた人間たちと会うことも出来なくなりますから、まだ別れを告げていない勇者がいるのであれば、扉が封じられる前に面会を済ませておきなさい」
「ガブリエル様、その件なのですが――」
申し出るタイミングは今しか無いだろう、と悟った心臓がバクバクと鳴り始め。
「内務職への就任は、辞退させてください」
緊張で吃りそうになりつつも、どうにかこうにか言葉を絞り出せば。
「なぜですか? 確かに、下級天使が抜擢される例は稀ですが、地上界守護を成し遂げた実力と経験があれば、充分な働きが出来るでしょう。あなたの専門分野である、医学知識が必要とされる部署もあります」
「私は……インフォスに残りたい。あの世界に生きる一人として、自分の生をまっとうしたいのです」
ガブリエルは、片眉を跳ね上げた。
ただ、あまり驚いたようにも見えなかった。
それまで浮かべていた微笑が消え、推し量るような無表情になり、静かに問い質す。
「神から与えられた使命を捨てる、と?」
脇に控えた上級天使たちのざわめきが、奇妙に遠く聴こえる。
「天に祝福された “命” と “力” を失うことになっても?」
「……はい」
「仮に、許可するなら――新たな歪みの元凶になりかねない、天使としての記憶すべて消す必要があります」
小さく吐かれた溜息に、込められた感情の種類は読み取れなかった。
「あなたが勇者たちと過ごしたインフォスの約10年間は、本来存在しなかった月日……人々の、歪んだ記憶も消さなければならない。たとえ、あなたが地上に降りても、誰もあなたのことを覚えてはいませんよ」
「それでもかまいません」
ティセナから聞いていたとおり。
前例があるということは、誰かが、それを乗り越えて地上に降りたんだろう。どんな天使が、いつ頃――?
「やはり……その道を選ぶのですね」
苦笑された、と感じたのは錯覚だったのかどうか。
「願いは分かりました。けれど、あなたは既に上級天使と同等以上の立場にある、貴重な人材。私の一存で許可できる問題ではありません――天界上層部による審議となります」
ガブリエルは冷ややかに告げ、
「異端審問官! この者を裁きの間へ」
「はっ!!」
「審議の対象とはいえ、私の大切な部下です。手荒な行為は許しませんよ」
「は、はいッ!!」
応じた男天使たちが、少々ぎこちなく左右を囲む。
長らく上司だった大天使に一礼したクレアは、これでもう後戻りは出来ないなと奇妙にスッキリした気分で、先導する彼らに従った。
裁きの間へと続く回廊に、異端審問官の呆れ声がこだまする。
「なにを血迷ったか、小娘が……内務への栄転話を蹴り、泥臭い地上に残りたいなどと」
「人間など、しょせん格下の生物。地に堕ちる手段がどういった代物か知っているのか? 裁きの間に安置された大剣で、両翼を斬り落とすのだぞ」
「地上残留を願い出た者の大半は、結局、転生に失敗し無様に血塗れになって朽ち果てたそうだ――悪いことは言わぬ、考え直せ」
「心配してくださって、ありがとうございます。でも……約束しましたから」
クレアが笑って首を振ると、彼らは鼻白んだように黙り込み、それ以上なにも言わなかった。
連れて行かれた先は、円柱状の小部屋だった。
白い床の中央、丸い窪みを、浅い段差が縁取り。
その中心部に聳える黒く太い柱には、鈍色の鎖が巻きつけられていて。
左右に立つ白く細い柱には、人の背丈ほどの高さに突起状の装飾――そこに引っ掛けるようにして抜き身の大剣が二本、飾られている。
「審議の結果が出るまで、ここで大人しくしていろ」
クレアの両足首を鎖で拘束した異端審問官は、そう言い残して “裁きの間” から出て行った。
どれくらい待つことになるかも分からないしと、柱に凭れて座り込み。
ボーッとしているうちに、ここ数日バタバタしていた疲れが出たか転寝してしまったりして、それでも外からは何の物音もしないまま時間が過ぎていった。
(ここの空気……結界牢に似てるなぁ)
ぼんやり考えながら、頭上を仰げば白銀の刃。
“裁きの間に安置された大剣で、両翼を――”
話に聞いた剣とは、これのことか。
審議は今、どうなっている? そもそも記憶を消されるって、どんな精神状態になるんだろう? 想像が付かない。
(……あれ?)
記憶は消せるもの、なら――ひょっとして、地上に残りたいと願った記憶自体を消されてしまう可能性も、ある?
ふと嫌な想像をしてしまって、けれどそれが考え過ぎ、有り得ないこととも思えずに唇を噛みしめる。
ガブリエル以外の大天使も、たぶん、あまり良い顔はしないだろう。
元々、地上界守護に適した人材が少ないからと、下級天使の自分が抜擢された訳で――今回インフォスは救われたけど、まだ闇の眷属はあちこちで暗躍しているはず。いつか再び別の星へ派遣される可能性は高い。
審議で許可が出なかったら。
もしもダメだと言われたら……諦めるの? 約束したのに?
そんなの嫌だ。
だけど、こんなふうに物理的に拘束されたら、抗って逃げ出すほどの “力” は私には無い。
もうインフォスの時は流れているんだから、天界で十年も経たないうちに、みんな寿命を迎えてしまうだろう。
忘れても、忘れられても構わないけど、シーヴァスたちがいなくなった後の世界でも降りたいかと問われれば――迷う。天界で培ったすべて投げ打っても、とまでは、きっと思えなくて――
(だったら……)
立ち上がり、目と鼻の先にある刃の切っ先を見つめる。
(そうよ、だって)
許可が出たら、この剣を取るのは誰?
自分のワガママで転生を望むんだから、自分で?
異端者として、審問官の手で?
それとも――誰もが嫌がる役割を押し付けられる立場――異端天使と呼ばれる、あの子、ティセナたちに?
(それは、ダメ)
もう一緒にいられなくなるのに、最後の最後に、私の所為で嫌な目に遭わせるなんて。
だけど一度決定されれば、自分が泣いて懇願しようと覆ることは無いだろう。
そんなことになるくらいなら、いっそ――
『神と繋がる証たる翼を斬り落として……十月十日、祝福された血を失う反動に耐える』
おそるおそる、眼前の大剣に手を伸ばす。
高揚感と入り混じる恐怖心。豪奢な見た目よりは軽く、どうにかクレアでも持ち上げることが出来た。
うん、決意表明だ。
インフォスに降りたい、天界に残る気は無い。
生まれた気持ちが自分のものであるうちに。
……神様。
翼を捨てようなんて考えている、不出来な天使ですけれど。
天界より、インフォスが、あの人たちが大切になってしまった私だけれど。
浄化と癒しの “力” を与えられ、守護天使として、世界を、彼らを護るために戦えたこと――感謝します、心から。
×××××
「フォータ離宮に戻るまでは、まだ補佐妖精です。関係者ですっ!!」
そんなふうにゴネまくって半ば強引に付いて行った、裁きの間は――血の池みたいだった。
白かったはずのローブは深紅に染まって、大きな翼が千切れて、羽も飛び散って。
床に転がっている大きな剣も真っ赤に濡れていて。
「クレア様!?」
悲鳴を上げたティセナ様が一番に駆け寄っていって、黒い柱にグッタリ凭れていたクレア様を揺さぶると、
「…………ティセ? どうしたの」
「それは、こっちの台詞です! 誰にやられたんですか!」
「?」
きょとんとした表情で小首をかしげた途端、傷に障ったのか青白い顔を顰めて、
「う……痛ったたた……あー……」
苦笑いしつつ、切れ切れな答えが返ってきた。
「これで翼を斬り落とすんだって、聞いて――誰かに斬ってもらうものだとしたら、私のワガママで嫌な役回りさせちゃ申し訳ないし――だったら自分で斬っちゃえ、と思って――だけど、さすがに痛いね、これ。気絶してたのかぁ――斬った瞬間までしか記憶無いや」
血塗れなのに普段どおり、おっとりした調子で応じられて、ティセナ様は脱力したように頭を抱えた。
「なに、メチャクチャな……」
審議の中心人物だった四大天使様の他に、任務用のアイテム調達でお世話になってたラツィエル様や、レミエル様も中に入って来たけど、上級天使たちは引き攣った顔で、扉の手前で足を止めていて。
蒼白になっているガブリエル様、なんだか感心したような面持ちのミカエル様、苦り切った表情で目を逸らしているラファエル様、お人形みたいに眉ひとつ動かさないウリエル様の後ろから、
「地上に降りたいが為に、神より授けられし翼を自ら斬り落とせる……この者の魂は、すでに天使の物ではありません」
歩み出た人が、その場に居合わせた誰よりも泰然とした態度で告げた。
「……レミエル様」
クレア様が、すみませんと呟いて項垂れる。
「この先――転生は、私の管轄です。お任せいただけますか?」
レミエル様は四大天使様に伺いを立てたけど、否とは言わせない不思議な迫力があった。
「ああ。異論は無いな?」
口ごもる彼らをミカエル様が一瞥して、曖昧な沈黙を蹴散らすように踵を返す。
そんな大天使長に続いて、一人、また一人と裁きの間に背を向けて、やがて扉が閉まり。
「プレア大聖堂へ移動します。彼女を連れてきてくれますか? ティセナ・バーデュア」
「はい」
「うわ、私も連れてってくださいッ!」
「わ、私も……!」
転移魔法の気配を感じて、両腕にしがみ付いた私とローザを、ティセナ様は困り顔で窘めた。
「こら。さっきも言ったけど、プレア大聖堂なんて特に、レミエル様以外が用も無いのに出入りして良い場所じゃ――」
「かまいませんよ。共にインフォス守護を成し遂げた、功労者でしょう? 彼女がどうなるのか、見届けなくては不安でしょう。妖精の存在が秩序を乱す心配はありませんから」
レミエル様は優しく笑って、先にその場から掻き消えて。
降り立った場所は、夜明け前にも夕闇にも見える、群青色の空間だった。
「わー、キレイ……」
思わず呑気にそんなことを呟いてしまう。
あちこちに浮いている手のひらサイズの球体は、緑だったり金色だったりカラフルで、その周りをふわふわ飛んでいる蛍みたいな光が反射して、インフォスの星空をもっと間近で眺めたらこんな感じだろうか、と考えた。
「彼女を、そこへ……横たえて」
レミエル様はするすると歩いていって、ひとつの球体を見つめると、ティセナ様に指示を出す。
細い肩に抱えられているクレア様は、同じ天界内とはいえ転移した反動か出血しすぎで意識が朦朧としてるのか、もう目を閉じてされるがままだ。
「――これは」
「インフォス?」
それに近づいてみたら、すぐに分かった。
任務で飛び回っていた間ずっと繰り返し睨めっこしてた、見覚えありすぎる地形。青い海と大陸だもん。
「…………」
インフォスそのものな形をした球体を中心に、結界――なのかな? シャボン玉みたいな膜が、クレア様の身体を浮かせて、包み込んで。
背中の傷口からぽたぽた垂れている血は、床に落ちる寸前に真っ白な羽毛に変化して。
部屋を血に染めることもなく、しばらくフワフワ漂っていると思ったらガラスの粉みたいに弾けて消えてしまう。
わずかに残っていた付け根の部分も、ちょっとずつ抜け落ちて。
「あの、これで――クレア様は人間になれるんですか?」
おそるおそる訊ねたローザに、レミエル様は静かに 「彼女の生命力次第です」 と答えた。
そうして小さく、囁いた。
「お眠りなさい、クレア・ユールティーズ……永遠の命が終わる日まで」
クレアの転生許可。あっさり出る訳が無いんですけど、そんな裏事情はインフォス編の雰囲気的に蛇足なので、アルカヤ編での回想に持ち越しー。しかし 『翼を置いていく』 って、具体的にはどういう現象なんだろ? もうちょっとソフトに念じれば取れちゃう? 天使にとって、そんな軽いものじゃないでしょう……。