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◆ エピローグ(1)


 ……天使が傍にいなくなってからの一年は、瞬く間に過ぎていった。

 インフォスが堕天使一派の手で蝕まれていた、などという事実はごく一握りの人間しか知らず。人々は、ようやく流れ出した日々を当たり前のものとして過ごし――実りの秋、粉雪が舞う冬、花咲き誇る春を迎える頃には。

 レイヴは、ヴォーラス騎士団長の地位を副官に譲り、国境の警護団守備隊長として僻地の山村暮らしを始めていた。
 ステレンス派の残党を何度か捕らえて引き渡し、隣国との関係改善に一役買ってもいるようで。
 元々華美を好まず、頑丈さには定評がある堅物。
 鍛錬の合い間に田畑を耕す質素な生活は、大貴族の長男として生まれ、ずっと首都ヴォーラスで暮らしていた男には厳しいんじゃないかという周囲の心配を他所に、肩書きや貴族のしがらみ抜きに騎士道を追及できる、田舎暮らしを満喫しているようだ。
 一度、地方の視察がてら様子見に訪ねたときなど、採れたてだというトマトを山盛りに抱え、イイ笑顔で出迎えてくれた……ここ数年の仏頂面とのギャップに、よく似た別人かと我が目を疑うほどだったが、まあ良い傾向なんだろう。

 アーシェ・ブレイダリクは、晴れてファンガム女王に就任。
 クーデターの傷痕もすっかり癒え、来年には婚約者たるミリアス王子との結婚式を目玉イベントとして建国祭を執り行うと決まり、民草も活気付いている。
 その時期が、てっきり前例どおりの五月かと思いきや、一月に変えると女王が主張し始めたものだから、ウォルフラムを始めとする年嵩の重鎮たちは慣習に拘る有力貴族の説得に忙しそうだ。曰く、
「だって昔から思ってたけど、五月じゃ英霊祭と被っちゃう。観光客の取り合いになるじゃない。そもそも御先祖様がヘブロンと戦争して、ファンガムが勝って領地を定めたって起源でしょ? だけど隣国にとっては戦死者をたくさん出した慰霊の日――いくら今はお祭り要素が強くなってるからって、やっぱり無神経だわ。それに十五日は、お父様とお兄様の命日でもあるのよ? そんな日にドンチャン騒ぎ出来ないわ。旧体制に囚われていたファンガムはね、死んだの。そんでもってステレンスを倒した瞬間から生まれ変わったの! このアーシェ様がファンガム初の女王として、平和の礎になるべくカノーア王子と結婚式をするのに、どっちが日取りとして相応しい?」
「しかし真冬では、天候の心配などが……」
「べつに氷の上でパレードやるって言ってるわけじゃなし、雪国の王族が吹雪ごときに怯えてどーするのよ。グルーチが首都に定められたのは領内でも群を抜く環境の良さからでしょ? 冬だからって、城周辺の交通網が麻痺したことあった?」
「い、いえ」
「だいたい春から秋は、民も農作業で忙しいんだから。お祭りやるなら、あちこち凍って家にこもって内職してるしかない、冬場の方が良いじゃない。準備や片付けの人手で雇用も生まれる、商人は出店を開けるし、近隣諸国から観光客が来てくれれば宿屋や飲食店も臨時収入になるでしょ?」
「むう……」
「僕は賛成ですよ、アーシェ! 人通りがあれば、雪も積もりにくくなるものみたいですし、外出が億劫になる季節だからこそ大きなイベントを、というのは画期的じゃないですか!」
「そう思うわよね? ミリアスってば、話が分かるわー」
 最終的にどう転ぶかは女王次第だろうが、まだ過去の遺恨がすべて癒えた訳ではないヘブロンとしては、願ったりな話だ。

 ナーサディアは相変わらず、踊り子として気ままな旅暮らしを満喫しているようだが、最後に会ったとき、
「どこかで、お店を開こうかなーって思ってるの。美味しいお酒を出すバー。開店資金なら有り余ってるし」
 もう不老ではなくなったから。
 定住しても、親しくなった人々から不審がられる心配も無いしと笑っていた。
「ただ、お酒だけじゃちょっとね。良いお酒には絶品おつまみが欠かせないけど、私、正直料理はあんまり……あなたとのことがなければ、クレアを調理担当で誘うんだけどなー」
 オープンしたら宣伝の手紙を送るから、あの子を連れて遊びに来てねと言い残して。

 グリフィンに関しては、たまに噂を聞く程度だが、未だ盗賊稼業を辞めていないらしい。
 クヴァール地方からキンバルト王国まで南大陸を股にかけ、ベイオウルフを率い暗躍しているようだ。
 一応、ギルドも懸賞金をかけてはいるのだが、そこは名の知られた義賊。
 庶民に危害を加えるでもない連中の捕縛優先度は低く、頭目の強さは実際、堕天使を倒すほど。よほどのヘマをしない限り捕まることはないだろう。
“ベイオウルフに狙われない金持ちは、良い金持ち”
 そんな格言めいた台詞まで、南国育ちの子供たちの間では流行っているらしい。

 フィアナ・エクリーヤは、どうも賞金稼ぎの仕事を辞めようかと迷っているようだ。
 クヴァール地方の女領主イダヴェルが、あの土地の貴族にしては珍しく善政を敷いている影響で、荒かった治安がここ最近は落ち着いているらしく――犯罪が減れば当然、賞金首として手配されるお尋ね者も減り、賞金稼ぎの仕事は減る。
「礼拝堂も母屋だって前より立派に立て直されたし、むしろ、あの火事で親を亡くした子供たちが増えて世話する手が足りないんだ。あんたは料理も上手いし、長年鍛えてたから体力もあるだろ? 嫌だって言うなら無理強いは出来ないけれど、賞金稼ぎ業界がそんなふうなら、当分は教会の仕事を手伝っておくれよ」
 ここぞとばかりに言い募る、シスターエレンの説得を受け、
「まあねぇ……」
 まだ本決まりではないようだが、フィアナ本人の気持ちも廃業に傾いているようだ。
 しかも年長組の女の子たちが 「秘密ね」 と教えてくれたのだが、どうも彼女には恋仲の男が出来たらしい。勇者仲間として顔を合わせていた頃は、まったくそういった方面に興味が無さそうに見えていた為、相手がどこの誰だか気になったが、
「うっさい! そういうんじゃないって言ってるだろ!!」
 その件でフィアナをからかっていたらしいリオが、鉄拳制裁されている場面を目撃してしまうと、わざわざ地雷を踏む気にはなれなくなった。
 怒りながらも真っ赤になっていた様子からして、まだ発展途上なんだろうが、そのうち結婚の運びともなればシスターが大喜びで詳細を教えてくれるだろう。

 そうして、シーヴァス自身は――先日、24歳の誕生パーティーを終えたばかり。
 相変わらず想い人の帰りを待ちながら、大貴族の次期当主として、国の政務で多忙な日々を送っているが。
 ちょうど一年が経つ頃合だ、ひょっとしたら、自分の誕生日にまでには戻って来てくれるかもしれないと……漠然と期待していた反動で、少々気落ちしていた。

 今年の残暑は殊の外、厳しい。
 蝉の声が、ますます暑苦しさを加速させる。
 ここ数年の季節が曖昧になっていただけで、本来こんなものだったろうか?

「“風の吹き回し” も一年持続すれば、諸侯の評価さえ変えるようですね」
 背後から声が掛かり、振り向けば、ジルベールがグラスを乗せたトレイを手に近づいてくるところだった。
 涼しげなグラスの中身がわずかに揺れて、氷がカランと音を立てる。
 扉を開け放していたから物音では気づきにくいうえ、こうも暑くては注意力散漫になるのも致し方なかろう。避暑地たるヨーストでさえこれでは、南国は蒸し風呂状態に違いない。
「世話係としては喜ばしい限りですけれど。あまり根を詰めすぎるのも、どうかと思いますよ」
 テーブルに広げた書類に目線を落として、複雑そうな笑みを浮かべる。
「一応、疲れる前に切り上げているつもりなんだがな。まあ、それで涼んだ後は、気分転換に散歩でもして来るか」
 受け取ったグラスの中身はアイスティーだった。
 こう暑いと味の良し悪しよりも、手に触れる冷たさの方が心地良い。
「散歩? 夕方になっても陽射しは強いのに、どちらへ?」
「海辺だ。少しは涼しいだろう」
 ああ、と頷いたメイド頭は 「夕飯までにはお戻りくださいね」 と言い置いて踵を返した。

 宣言どおりに赴いた海辺は、今日も変わらず、立ち並ぶ露店と海水浴客でごったがえしていた。
 喧騒の合い間をすり抜けて、ゴツゴツした岩場の陰に腰を下ろす――ひっきりなしに吹き込んでくる風が、頬に心地良い。

“クレアが帰って来るとして、降り立つ場所は何処だろう?”
 人目に付く場所は避けるはず。そんな考えから、さらに言えば思い出に浸りたい気分もあって……ここや、時計塔の隠し部屋を休憩場所に選ぶ習慣が出来て、もう随分経つ。
 百年以上もラスエルを待ち続け、死に別れる辛さを味わったナーサディアを思えば、泣き言をこぼすのも憚られるが――祖父に対する宣言、己が娘や姪との婚姻を打診してくる有力貴族たちへの断り文句に 『心に決めた女性がいますので』 と告げる度、どこの誰だ、紹介してくれと言われ続けるのは地味に堪えた。
『彼女は、神に仕える身でね。今は私の元へ来る許しを得る為、父君の説得に苦労しているだろうと思いますよ』
 不審がられぬようにとボカして応えたが、実際、天使の創造主。人間にとっては親のようなものだろうから、嘘という訳ではない。
 果たして赦されるものなのか、万が一、叶わなければそうと告げに来てくれるのか……つらつら考え込んでいると、ふと、覚えある気配がした。
 錯覚かと自問するより早く、少し遠くから聞こえる話し声。

「あれーっ? ヨーストのお屋敷じゃなくて海ですね、ここ。お出掛け中?」
「まあ、人目が無いのは好都合だけど」

 跳ね起き、岩場から飛び出した先に広がる、ヒルガオの群生地。
 赤と緑に淡く光る妖精の姿、若草色の旅装束を纏った天使と――その背に負ぶわれている、白いローブ姿の。

「お久しぶりです、シーヴァス様」
「あ。こんにちはー」
 こちらに気づいたローザが丁寧に頭を下げ、あっけらかんとした笑顔のシェリーが手を振り。
「……なに呆けてんですか」
 相変わらず素っ気ない口調で、アイスグリーンの瞳が一瞥を寄こす。

「彼女は――」
 白昼夢かもしれないと半信半疑のまま、すぐ傍まで近づいてみても、誰になにを訊けば良いのか言葉が出ず、
「見てのとおりです」
 眠っているのか気を失っているのか、とにかく意識が無いようで目を閉じたまま動かないクレアの状態を訊ねようとすれば、不機嫌そうに突き放される。見てのとおり、と言われても……。
「満足ですか?」
 こちらの困惑に頓着する様子も無く、ティセナは淡々と問いかけた。
「友人知人や必死で磨いた魔法の腕、昇進話はおろか悠久の命まで捨てさせて。こんな後ろ盾も何も無い地上に引きずり下ろして」
「――承知の上だ」
 彼女を繋ぎ止めたいと思い始めてから、ずっと拭えなかった逡巡。
 前提が違いすぎて比べるには難があるが、おそらく大貴族の令嬢としての何不自由ない生活を捨て、貧乏画家と駆け落ちした母よりも。
「クレアは私が、一生かけて守る。後悔はさせない」
「……そうですか」
 半ば呆れたように相槌を打った少女は、肩で支えていたクレアの身体を、そっとこちらへ押しやった。
 慌てて、くたりとした腕を取り、抱き止める。確かな温もりと重み。
 顔色は悪くないようだが、わざわざ眠った状態で運ばれてくる理由は無いだろうし、やはり何らかの理由で気絶しているんだろう。ここへ来るまでの経緯を問い質そうと、

「あなたが、この人を守ってくれるなら―― “世界” は、私が護ります」

 顔を上げたシーヴァスは、思いがけず向けられた言葉と、柔らかな表情に面食らい。呆気に取られているうちに、
「さようなら」
 初めて見る、心底嬉しそうな笑顔を残して、ティセナは消えた。
「どうか、お幸せに。お元気で」
「そのうち遊びに来ちゃいますからねー。この期に及んで浮気なんかしたら引っ掻きますよ!」
 妖精たちも一緒に、瞬く間に。

 ……ティセナが自分に笑いかけるなど、やはり幻聴幻覚の類だったんだろうか?

 しかし現に腕の中に、クレアは居る。
 まだ実感が伴わず、その場に突っ立っているのも屋敷に戻るのも億劫で、さっきまで寝そべっていた岩場に引き返すことにした。
 そうだ、彼女は暑さが苦手だった。ひとまず日暮れまでは、ここで過ごそう。

 クレアが目を覚ましたら、最初に、なにを言おう? なにから訊こう?
 混乱していてティセナたちには、ほとんど何も聞けず終いだった。
 ああ、屋敷の者たちにはどう説明しようか。まあ私の話など聞かず歓待して大騒ぎだろうが。
 祖父へも挨拶せずには済まないだろうし、勇者だった面々もクレアとの再会を心待ちにしているはず……だが、とりあえず。
 来週の日曜から、ヴォーラスの大劇場では新作の舞台が始まる。彼女が好みそうなストーリーだ。
 ――そうだな、記念すべき初外出は。

「幸せな結末を迎える話を、観にいこうか?」

 肩に凭れされたクレアの、そよ風に揺れる銀髪を撫でながら話しかける。
 果たして彼女は目覚めたとき、自分を覚えているのか、それとも――まあ、万が一すでに記憶を消されていたとしても、どうとでもなるだろう。
“悠久の命を捨て”
 天使だった娘は、再びインフォスに降りてきた――こうして自分の元に、留まってくれたのだから。



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最後の最後に、シーヴァスに向かって屈託なく笑ってみせるティセナ、という部分は初期からイメージ図としてありました。あれこれ脱線したり停滞したりもしたけど、ラストシーンまで書けて感無量であります。