◆ 恋の手ほどき(1)
インフォスへ降りて八度目になる、英霊祭の季節が過ぎ去り。
ヴォーラスを発ったシーヴァスが無事、エスパルダの首都オルデンに辿り着いた後――ローザたちの探索も実らず、堕天使側に、これといった動きは見受けられず。
迫るタイムリミットに対する焦りを押し殺しながら、ただ混乱度の上昇を防ぐ為に、各地を荒らす魔物を退治して回る日々が続いていた。
そんなある日、唐突にナーサディアが言った。
「ねえ、クレア。あなた、この戦いが終わった後は……どうするの?」
「――え?」
予定エリアの巡回を終えてから彼女の夕食に付き合い、お酒も少し飲んで。宿で武具を手入れしている女勇者の後ろ姿を見るともなしに眺めながら、ボーッと考え事をしていたのだが。
「それは、その……どうしようかと迷っているところで」
悩みを見透かされたようなタイミングで訊ねられ、びっくりしすぎて言葉に詰まる。
本来ならばシーヴァスに答えたように、エミリア宮の医療施設に戻るか、中枢機関に召集されるか――しかも後者は、天界上層部の意向によって決まることで、拒否権など無きに等しい。
「気になる人でもいるの?」
「……気になる」
そもそも異端天使と呼ばれるティセナたちの専属医になりたくて志望した、アカデミア卒業後の進路だった。
天界軍の遊撃部隊として戦う現実が変えられないなら、せめて――負った傷を一刻でも早く癒せるようにと。魔法に頼るばかりでない、大天使レミエルの医術に憧れて。今も、医者になりたい気持ちは変わらない。
「そうですね。でも、私は一箇所にしか居られませんし……」
守護天使の任を果たした者は、ほぼ例外なく天界内務の任に就くらしい――とはいえ一度は戒律違反を犯して、謹慎を受けた身。上級天使たちが渋ってくれたら、こちらとしては万々歳だ、けれど。
それだけなら、べつに迷う必要は無いのだ。選択肢が実質ひとつならば。
『帰ってしまうのか? 天界に』
話をしている最中は、まったく気にならなかったのに。
あの夜、シーヴァスと別れて、しばらくして……急に、思い返した “問う声” が、まるで小さな棘みたいに心の片隅に引っ掛かって取れなくなった。
任務に没頭すれば紛らわしていられるが、こんなふうにポッカリ時間が空くと、気づけば考え込んでしまっている。
インフォスが、無事に淀みから解放されたら。
しばらくは長き停滞の名残もあって、天界と同じように緩やかに季節が巡るだろう。けれど、やがては本来の速さを取り戻し、時流差は一気に開いて――天界で5年も経てば、自分が知る人間はほとんど寿命を全うしてしまうに違いない。
天界に帰って。
たとえ勇者たちに何があろうと、助けには行けなくなっても……ただ懐かしく、空から眺めていられる? タンブールが火事になったときのような災いが発生しても、それが人々の運命だからと自制出来るだろうか?
難しい、気がする。
事件が起きたと知れば、いても立ってもいられなくなりそうな。
だったら、いっそ見ない方が良いんだろうか――“平和になった瞬間” を、思い出の終幕にして? 現に、ラスエルが護り切ったはずの世界が、こんな事態に陥っているのに?
「それって、ひょっとして恋煩い?」
また思考の渦に沈みかけたところにナーサディアの声がして、慌てて顔を上げれば、なぜか彼女はワクワクした様子で瞳を煌かせている。
「こいわずらい、って何ですか?」
「もう! カマトトぶらないで。キスくらい、したかって訊いてるのよ」
かまとって? 新種のトマトですか?
口にしかけた疑問は、弾んだ調子で耳に飛び込んで来た台詞の、後半に面食らってピタリと止まった。きす?
キスって……。
聞き覚えある単語を思い出すも、脈絡が掴めず。
「?? あの。誰の話ですか?」
「あら、シーヴァスじゃないの?」
名を挙げられれば、まだインフォスに降りて間もない頃に英霊祭会場で見かけた勇者と、フェリスという女性の姿が脳裏に浮かんだ。
「……してましたね」
「え? やだ嘘ホントに!? されちゃったんだー!! プレイボーイの評判は伊達じゃなかった訳ね」
酩酊時を除けば、ゆったり落ち着いた物腰である彼女には珍しく、きゃー、きゃーと笑いながらはしゃいだ声を上げている。
「それで? どうだった、どうだった?」
「どうだったと言われても。窒息しないのかなぁ、とは思いましたけど」
「かなぁって、なによ他人事みたいに。なにも感じないってことはないでしょう?」
「だって他人事――というか、勇者のプライベートのことですから。感想を求められても、人間の愛情表現は風変わりだなあ、くらいしか」
「…………」
やけに楽しそうだった表情から一転。眉根を寄せて、まじまじとこちらを凝視したナーサディアは、不機嫌そうに紅い唇を尖らせた。
「あのねぇ、クレア。人間がキスする意味って知ってる?」
「恋人同士がするんでしょう?」
「だから、シーヴァスがあなたにキスしたってことは、あなたと恋人でいたいって意思表示なのよ? それも解ってる?」
「え――」
話の飛び具合に、クレアは仰天した。
「えええええっ!?」
「えーって、なによ」
「なにってなな、なんでそうなるんですか? そんなのしてる訳ないじゃないですかッ!!」
「なんでって、あなたさっきしたって言ったじゃない」
「したなんて言ってません、してたって言ったんです! だいたい、どうしてシーヴァスの名前が出てくるんですか!?」
「だって。けっこう前から、良い仲でしょう?」
ナーサディアが当然みたいな顔して断言するから、ますます混乱してきて、とりあえず頭を激しく左右に振ってみても脳裏の映像は消えてくれないし、
「な、仲悪くはありませんけど、してませんし、しません!!」
最大ボリュームで叫んで、しまったここは宿屋だった近所迷惑で怒られる……! と蒼白になり、いや今は実体化していないんだから大声もナーサディア以外には聞こえていないはず、ああ良かった――と安堵したら脱力して、ベッドサイドにへたり込んでしまった。
「じゃあ、誰のこと気にしてるのよ?」
「誰と言われても……みんなですよ。ナーサディアのこと、ティセのことも」
すると女勇者は拍子抜けたように、瞳をぱちくりとさせた。
「ずっと今みたいに天界とインフォスを行ったり来たりして、みんなが幸せに暮らせるように手伝いたいけど――守護天使の任務が終わったらもう、インフォスへ続く扉の鍵は返却しなければならないでしょうし」
「なーんだ、そういう意味ね」
つまんないの、とベッドに腰掛けた彼女は、スリットスカートから覗く脚をぶらぶらさせている。
「そういうって、どういう意味だと思われたんですか? いまいち会話が噛み合ってなかった気がするんですけど……」
「そうね。あなたたち天使が根本的に、色恋沙汰に疎いってことを忘れてたわ――あのね、ここしばらく、そわそわして溜息吐いたり悩んでるふうだったから、もしかしたら恋してるのかなーと思ったのよ」
そう呟いて、ナーサディアは肩を竦めた。
「天使様の初恋が上手くいくように、恋のテクニックを教えてあげたかったのに。あーあ、残念」
曲解にも程がありますよ、と半ば呆れるも、それより急激に “あること” が気になって、この際だからと質問してみる。
「ナーサディアは、したんですか? その……兄様と。キスを」
再び、さっきよりもゆっくり瞬いた彼女は、笑って 「ええ、したわよ」 と頷き返す。
「楽しいものなんですか?」
「楽しいっていうより、そうねえ――幸せな気持ちになれるのよ」
そういうものなんだ……と感心しつつ首をかしげていると、ラスエルの想い人は、悪戯っぽい表情を寄せてきた。
「気になるんなら、試してみる?」
「え?」
「キスの練習してみるって、どう? 私と」
「れ、練習!? 練習が必要なくらい難しいものなんですか、キスって――」
「まあ、そうね。上手い下手もあるし、慣れないうちは、頭や鼻をぶつけたりって失敗もするでしょうし」
説明を聞きながら、間近にあるナーサディアの唇に視線を落とす。
どんな感触がするんだろう? 人間と天使でどう違うかも謎だけど、多分くっつければ柔らかい?
しかし、顔を寄せれば先に鼻の方が迫るから、ぶつかってしまうことは多々ありそうだ……なんで敢えて唇と唇なんだろう? 誰が最初に始めた習慣なんだろう?
「あら、どうしたの? 黙り込んじゃって」
「いえ、えーっと、その」
なんとなく気恥ずかしくなり、凝視していた唇から目を逸らして、
「興味が無いと言ったら嘘になりますが、キ、キスは恋人同士がするものなんですから、つまりは兄様の特権であって、もちろんナーサディアのことは大好きですけど、練習だなんて理由で、兄様に断りもなく挑戦するのはいかがなものかと!」
とりあえず丁重に遠慮しようと、言葉を探し探し紡いでいたら、
「まだ今はよく分かりませんけど、兄様にあったんですから、いつか私もそういう気持ちになる可能性が全く無いわけでもないですし、だったらファーストキスは取っておきたいなあと思いまして……」
だんだん自分でもなにを主張したいのか分からなくなって、音量も尻すぼみ、どこか物陰に隠れたくなってきた。
支離滅裂な断り文句に、気を悪くしただろうかと萎縮していると、くすくすと楽しげな声が聞こえて、
「ホント、うぶねえ……かわいいんだから」
戸惑いつつも顔を上げれば、子供相手にするようにポンポンと柔らかく、クレアの頭を撫でたナーサディアは優しく笑った。
「どこで、なにしてたって良いのよ。ずっと元気に、幸せでいてくれるなら」
天界に帰っちゃったら寂しいけど、あなたが空の上で怒ってるの想像したら、お酒の量もほどほどに出来そうだしと冗談めかして言う。
「ただ、自分の気持ちには正直に生きてね。人間はもちろんだけど、天使にだって――永遠なんて保証は無いんだから」
原作ゲームにおいて、基本的に天使は受身だけど、地上に残りたいという気持ちは勇者に告白される前からちゃーんと自覚しててほしいなあという。