◆ 血(2)
ドッ、と鈍い音が響き。
「クレア様っ!!」
幼女を抱きしめたまま、ティセナが真っ青な顔で叫んだ。
昏倒したクレアを軽々と抱き上げた男は、シーヴァスたちに剣先を突きつけ、牽制する。
「さぁて。この女が死ぬところを見たくなけりゃ、そこから一歩も動くなよ」
「くそ……!」
グリフィンが、今にも噛みつかんばかりの眼つきで舌打ちするが、この状況では打つ手がない。
自らの優位性を確信しているんだろう、ヒュブリスたちは悠然と去っていく。意識があればクレアが言いそうな台詞は、簡単に想像がつく。このまま連中を逃してしまえば――再び西の集落が略奪されかれないと、理解していても足が動かない。わずかでもいい、隙さえあれば!
「やれやれ。仲間を見捨てて子供を盾に逃走した挙句、若い女性を人質にするとは……どこまでも救いようのない」
緊迫した静寂を破り、場違いなほど穏やかな声が聞こえた。
「!?」
ぎくっと全身を強張らせ振り向いた盗賊たちの、凄まじい形相に気を呑まれ、行動が遅れた。グリフィンも、とっさに動けずにいる――機を逃さなかったのは、ティセナだった。
「フィン、この子お願い!」
「おわ?」
幼女をグリフィンに託すや否や、彼女は一直線に突き動いた。
ヒュブリスが我に返ったときにはもう、抜き放たれた剣がその喉下をかすめ――男は傷こそ負わなかったものの、よろめき地面に膝をつく。崩れ落ちるクレアの身体を抱きとめた、ティセナは素早く後ろへ飛び退いたが、
「ひゃっ!?」
細腕に、気絶したクレアの重みは支えきれなかったようで、バランスを乱して転びかけた。
「……危ないな」
どうにか駆け寄って受け止めると、少女は目を丸くしてシーヴァスを見上げたが、
「実体化していても翼は使えます。手助けは要りません」
すぐさま不機嫌そうに眉をしかめ、肩に回した手も押し退けてしまった。つくづく辟易させられる――素直に礼くらい言えないのか?
「おい、ティセ。おまえなぁ……」
幼女を抱えて走り寄ってきたグリフィンが、呆れ顔でなにか言いかけ、
「!?」
血相を変え、バッと背後を振り返った。
ひゅっと空気を裂く音が続けざまに唸る。突如、飛来した白銀の筋が視界を過ぎり、それは未だ体勢を立て直せずにいた盗賊連中めがけ、その空間を貫通してガスガスと後方の大樹に突き刺さった。
×××××
「ぐぎゃあああーっ!!」
ニーベルンゲンの残党は絶叫した。
後生大事に抱えていた麻袋を放り出し、のた打ち回る。頭や肩、腹からも。だらだらと赤い液体が零れ落ちている。
(ど、どうなってんだよ、こりゃ?)
状況を理解できず、ぎくしゃくと、さっきの光跡を目で追った先――木の幹には、柄と刀身の区別も曖昧に細い、しかし切っ先だけは異様に鋭利な刃物がめり込んでいた。
(なんで、あんなもんが掠めただけで……)
ティセに押し付けられていた例のガキが、びくっと身を竦ませた。慌てて小さな頭を右腕で抱え込み、視界を塞ぐ。子供が見るモンじゃない。
「…………」
連中はヒィヒィと呻きながら身悶えている。しかしヒュブリスだけは、さっき膝をついた位置から動かず――腰でも抜かしたのかと思ったんだが、
「ご……ふっ……」
半開きの口から、意味を成さない声が漏れた。それが引き金だったかのように、野郎の全身から鮮血が噴き出す。どろっとした血溜まりに、ヒュブリスは前のめりに倒れた。弾かれた紅が、ばしゃっと四方に散らばる。
「あ、兄貴っ!?」
手下たちは、それぞれ傷口を庇い必死に身を起こそうとしていたが、
「どうにか、取り逃がさずに済んだようですね」
再び――今度はすぐ近くに聞こえた、奇妙に穏やかな声に、そいつらの動きは停止した。
(……誰だ?)
ゆっくりとした足取りで、峠の向こうから現れた人影は、場違いな風貌の男だった。
腰までありそうな銀の長髪。十字が縁取られた長衣に、薄緑の外套。柔和とも呼べる表情――だが、灰褐色の双眸は酷薄に歪んでいる。
「っ!?」
クレアを庇うように抱きしめた、ティセが、じりっと後退る。シーヴァスは、気遣わしげな視線をそっちに向けていたが、
「……グリフィン。その子と、彼女たちを見ていてくれ」
剣を携え、正体不明の銀髪男とニーベルンゲン、双方から等距離の位置に立った。上から見れば、ちょうど三角形になる図だ。あれなら、どっちが襲ってこようが対処できる――そうこうしていると左右から、複数の足音が近づいてきた。
「ディ、ディアン様。盗賊どもは、どうなりました?」
「クレア様! 我々も、なにか手伝いを」
片や数人で怖々と峠を降り、もう一方は息せき切って駆け上がってくる。後者は、西で助け出した村の連中だった。
「おおっ、おまえら! 無事だったんだな……よかった」
「そっちこそ、どうやってここに? 盗賊団に捕まってたんじゃなかったのか?」
「いや。それが、この人たちが助けに来てくれて」
互いの無事を喜んでいた村人たちは、次いでオレたちに目を移し、
「うわああああ!?」
血塗れの残党や、あきらかに死んでいるヒュブリスに気づいて、叫んだ。ひとりは武器のつもりか鍬を固く握り、ひとりは腰を抜かしてへたり込む。脱兎のごとく来た道を駆け戻っていく奴らもいた。
「なるほど――残るはあの三人だけ、というわけですか」
ディアンと呼ばれた男は、すぐに状況を察したらしい。どこからともなく取り出したダガーを指先で弄びながら、ヒュブリスの死体を気にとめる様子もなく、逃げ場を失いガタガタ震えている手下どもに近づいていく。
「そ、そいつらだ! そいつらが俺の目の前で娘を!!」
ディアンを追ってきた村人のうち一人が、怒り狂った形相で三人を指した。
「ほう。それはそれは……ならば是非、同じ目に遭わせてやらなくては、なりませんね……」
ディアンは、心得たというように頷いて返した。
優しげな口調が奇妙に愉悦を含んで聞こえ、胸が悪くなる。双方の動きを警戒していたシーヴァスは、さらに表情を険しくした。
「ひ、ひいいいいっ!」
追い詰められた三人は成す術もなく縮こまり、くぐもった悲鳴を上げるだけだ。
ディアンは殺気もあらわに、瞋恚とも侮蔑ともつかない薄い笑みを浮かべ、そいつらを見下す。
娘を殺されたらしいオッサンだけは、怒りと興奮にギラついた目で食い入るようにその情景を注視しているが、他の村人たちは、当惑気味に目を逸らしていた。
そりゃあ確かに、連中は八つ裂きにされても文句なんざ言えない立場だろうが――これじゃ、まるで。
「……う、ぅん」
オレたちが、固唾を呑んで動けずにいたところに、失神していたクレアが小さく身じろいで目を開けた。
ティセが、ゆるゆると息をつく。シーヴァスも目線だけ振り返り、同様に安堵の色を浮かべた。
「あ、れ? ああ、そっか――」
どうにか意識がはっきりしたらしく、両手で背中を庇いながら身を起こす。当て身程度の衝撃だったはずだが、やはり痛むらしい。
「ティセ……あの子、は?」
「ここだ、クレア。怪我はねえよ」
ぎこちない動作で、こっちを向いたクレアは子供の姿に気づき――安心したように微笑んだ表情は、すぐに不審と入れ替わる。
オレの腕にしがみつき固く目を閉じて、ぶるぶる震えていた金髪のガキが、すがるように天使を仰いだ。
クレアは数秒、幼女を見つめ、寄り添っていたティセを見上げ、怪訝そうに細い首をめぐらす。やがて一点で静止した、その目が驚愕に見開かれた。
「い、命だけは、命だけは……!!」
地面に這いつくばり、恐慌状態で命乞いを繰り返す盗賊たちと、
「……往生際の悪い」
うち一人の胸倉を掴んで引きずり立たせ、無造作に刃を振りかざした銀髪の男を映して。
「やめてくださいっ!!」
悲鳴が、底冷えした夜気を切り裂いた。
クレアが、ディアンと盗賊たちとの間に、両手を広げるようにして割って入っていた。
振り下ろされた刃は――天使の胸を刺し貫く寸前で、止まった。
「ラ……イ…………?」
幽霊でも見たかのような顔で硬直したまま、何事か呻いたディアンの手からダガーが滑り、かしゃんと地面に転がった。どうにか、それに血は付着していない。
シーヴァスたちも、庇われた当の三人ですら呆然と、相対する銀髪の男女を凝視していた。どくどくと、跳ね上がった心臓の鼓動が早鐘のように聴こえる。
「なんの、つもりですか? ……そこをお退きなさい」
唖然としていたディアンは、すぐに苦々しげに取り落とした武器を片足で押さえた。盗賊たちの悪あがきを警戒したんだろう。長衣の懐から、真新しいダガーが取り出される。
「彼らに、もう戦う意志はありません。刃を向ける必要はないでしょう」
今にも沫をふいて気絶しそうなニーベルンゲンの残党を見やり、クレアは毅然と反駁した。
「貴女は――なにも解っていないようですね」
苛立たしげに、ディアンが言い放つ。
「連中は、その子の両親を殺した。あの男性の娘さんを殺した。貴女にも危害を加えようとしていた。くだらない物欲のためにソルダムを襲い、善良な村人たちを殺傷した罪人だ」
聞き分けの悪い子供を諭すかのような、語調だった。
「貴女が情けをかける理由もない。生きる価値の無い人間は、殺した方が世の中の為なのですよ」
男は、薄く嗤う。
そこには、どんな仮面を以ってしても隠せない狂気と悪意が蠢いていた。幼女が、涙目でグリフィンに縋りつき。ティセナは、ひたいに脂汗を浮かべながらもディアンを睨みつけている。
「……あなた、医者じゃないんですか?」
天使は、おもむろに銀のダガーを指し示した。ディアンは、わずかに眉根を寄せる。
「それ、手術用のメスでしょう?」
サファイアブルーの瞳は、怒気に燃えていた。声音は静かだが、あんなふうに詰られるくらいなら、まだ怒鳴られたほうが気楽かもしれない。
「それは、人殺しの道具じゃありません。生命を救う為のものです。私は、まだ半人前ですけれど――医者を志す者として、あなたの行動は看過できません」
村人たちは、少し離れた木陰に固まって、おろおろと対峙した二人を見つめている。
「それに子供は、血を怖がって泣きますから」
「…………」
クレアの言葉に、娘を殺されたと息巻いていた男は、勢いを削がれたようだった。例の幼女にちらっと目をやったとたん、バツが悪そうにのろのろと下を向いてしまう。
「だから、あなたが彼らを殺すというなら――私は、ここを退くわけにはいきません」
一歩も退かない、戦闘さえ辞さないという態度だった。ディアンは平静を装っていたが、完全に気圧されているようにシーヴァスには映った。
「まあ……いくら罪人とはいえ、女子供の目の前で殺すべきでは、ないでしょうね……」
目を逸らして踵を返すと、人垣を押し退け、鬱蒼とした森の奥へ歩み去っていく。
「あっ、ディアン様? どちらへ――」
うろたえ追い縋る村人の声にも、ディアンは振り返らなかった。クレアは、しばらくその後ろ姿を見据えていたが、やがてグリフィンたちに向き直った。
くしゃくしゃに泣き腫らした顔で、幼女が天使に駆け寄っていく。
「……ごめんね」
飛びついてきた小さな身体をそっと抱きしめ、囁くクレアの声は、悲痛に震えていた。
ティセナとグリフィンが、やりきれない様子で二人を見つめる。
盗賊たちはへたり込んだまま、さっきまでの恐怖と、命拾いした安堵とで、立ち上がる気力すら無いようだった。
ディアンを追わず残った村人は複雑そうにしているが、表情の大半を占めるものは、やはり安堵だった。
遥か上空の、重く淀んだ雲間から、わずかに差し込んだ月光が辺りを照らす。
「お父さんと、お母さん。助けられなくて、ごめんね――」
クレアの謝罪に、何度も何度も繰り返し、幼女は無言でかぶりを振る。
「…………」
とめどなく流れる涙は頬を伝い、ぽたぽたと乾いた大地に落ちてはしみ込んで、ただ消えていくばかりだった。
ニーベルンゲン。南ドイツの叙事詩の名です。ベイオウルフって、古期英語の叙事詩の名前らしいんですよね。それで、せっかくだからネーミングに共通点でも持たせようかと