◆ 罠
「シーヴァス様、本当に来てくださったのですね」
昼間の大通り。街灯から少し離れた位置に、カーラは佇んでいた。こちらに気づくと微笑を浮かべ、ゆったりとした足取りで歩み寄ってくる。
「ああ……しかし、待たせてしまったようだな。すまない」
「いいえ、こうして会っていただけるのなら、一晩中でも待っていますわ」
嫣然とした口調、それに表情。
どうやら化粧をしてきたらしい。最初に見たときより明らかに唇が紅く、心なしか肌も白い。飛びつかんばかりの勢いで駆け寄り、はしゃいで一方的に喋り続けた少女とは、まるで別人だ。あのときは、よほど舞い上がっていたのだろう。
初めこそ、外見年齢より性格が幼い印象を受けたが、今はむしろ大人びた雰囲気がある。
「ところで、なにか話があると言っていたが――」
ちょうど夕食時である。まずはゆっくり食事でもと、レストラン街への移動を促そうとしたのだが、
「あっ?」
急に小さく叫び、不快げに顔を歪めると、少女は自分の背中に両手を回して掻き毟った。
(……虫でもいたか?)
それにしても、まるで背中に火がつきでもしたかのような、激しい仕草である。やはり昼間の、少々粗雑な言動の方が素なのだろうか。
「どうかしたのか?」
「え? ええ」
怪訝に思いながら訊くと、カーラは、取り繕うような笑みを見せた。そうして、奇妙なことを言いだした。
「……そのことなんですけど。ちょっと一緒に、森まで来てください」
「森へ?」
シーヴァスの予定には無い選択肢だった。
「なぜ、また――それにこんな夜中に、危険ではないか?」
ヨースト市街を北に抜ければ、常緑の森が広がっている。ここからなら、三十分も歩けば着く距離だ。季節が春や秋ならば、花や紅葉を背景に語らうのも一興だろう。
しかし今は六月下旬。今日も夕刻に雨が降り、邸を出る前にどうにか止んだところだ。道はぬかるんでいるだろうし、わざわざ観賞するほどのものもあるまい。夜が更ければ、野犬や猛禽類もに遭遇する可能性もある。
「ここだとまだ、人目がありますから」
「しかし……」
気乗りがせずに渋ると、少女は、ほとんど詰め寄るような勢いで食い下がってきた。
「お願いします、シーヴァス様。二人きりで、誰もいないところでお話がしたいのです!」
「…………」
二人きりになれる場所なら、市街にいくらでもあるのだが、おそらくカーラには馴染みのない施設だろう。なにより、ほぼ初対面の、しかも10代の少女を連れて行くというのは、さすがに抵抗がある――といって、路上で立ち話では味気がない。
それならば、まだ森の方がマシだろう。少なくとも、こんなぐずついた天気の日に、うろついている物好きは他にいまい。
「仕方ない、行くとするか……」
不承不承に頷くと、
「嬉しい。ありがとうございます」
少女は笑った。昼間の弾けるような笑顔とはかけ離れた、艶かしい微笑だった。
×××××
「なんだ、ここは? 森と言っても、沼地じゃないか。こんなところに連れてきて、いったい……」
正直うんざりした気分で、こちらに背を向け、沼の淵に突っ立っている少女に呼びかける。
あれからカーラの希望に沿い、連れだって森に足を踏み入れたはいいが、
『少し遠いけれど、とても素敵な場所があるんです。付いて来てくださいね』
そう微笑んで、迷いのない足取りで歩きだした少女は、二人で語らうにおあつらえ向きの湖畔や木陰、花畑などには目もくれず通り過ぎてしまい、ようやく立ち止まったかと思えば、そこは草が伸び放題、水面を小虫が飛び交うような汚らしい沼地だった。周辺の地面はぬかるんでおり、靴で踏むとじくじくと鬱陶しい音がする。
これでは、さすがに文句のひとつも言いたくなるというものだ。道を間違えたのなら、途中でそう言ってくれれば良いものを――
「…………」
カーラは返事をせず、振り向こうともしない。まあ、途方に暮れる気持ちは分かるが、来た道を戻れば済むことだ。そう促そうと一歩近づいたところで、
「ん? 君……」
奇妙な錯覚に、シーヴァスは自分の目を擦った。
一瞬、眼前の――少女の後ろ姿がまるっきり別の、ガラの悪い酒場にいるような、しどけない格好の女に見えたのだが。どうやら、まだ昨晩の酒が抜けきっていないらしい。
「…………」
改めて目を凝らせば、当然のごとくカーラはそこにいた。ただ、うずくまるようにしてしゃがみ込み、震えている。
(……泣いているのか?)
つくづく、感情の起伏が激しい少女だ。気落ちするほどのことでもないだろうに。
「カーラ……?」
宥めようと伸ばした手が、少女の肩に触れた。瞬間、
「!?」
目の前が真っ暗になった。
ひどく冷たく、柔らかい感触が唇を塞いでいた。焦点が合わないほど間近に、まだ幼さを残す顔がある。そして首筋に回された細い指――状況の把握に、しばらくかかった。
(……な……にを……)
さすがに面食らった。最初から、こういう意図で誘ったのか?
頑ななまでに二人きりになりたがった理由は、そう考えれば説明がつく。貴族の淑女たちとて、時に大胆な行動を取ることはある。だが、この少女が? 昼間の快活な印象と、さっきからのカーラの行動は、突飛さこそ共通するがどうも噛み合わない。
(しかも、こんな悪趣味な場所で――)
まあ、気まぐれに散歩するような人間にも、出くわしようがないのは確かだが。
「…………」
カーラは、ねっとりと絡みつくような口付けを深くしながら、シーヴァスの礼服の留め金を外し始めた。躊躇いや初々しさなど欠片もない、慣れ切った手つきである。
(女は見かけによらない、ということか)
しかし、期待に応えるにしろ思い止まらせるにしろ、場所は変えるべきだろう。一夜の思い出の舞台となるのが、こんな殺風景な沼地ではあまりに美意識に欠けている。
(…………?)
ひとまずカーラを引き離すべく、腕を動かそうとしたシーヴァスは、そこでようやく事態に気づいた。
(動かな……い……?)
抱きつかれているとはいえ、相手は少女だ。引き剥がすことなど造作ないはずなのに、カーラはびくともしない。いや――動かないのは、自分の身体の方だった。
「…………っ!」
全身の力が、ずるずると抜け落ちていくような感覚に、本能が恐怖を訴える。なりふり構わず少女を突き飛ばそうとするが、身じろぎひとつ出来ない。
「うふふ……」
そうこうしていると、ようやくカーラは口付けを止め、わずかに離れた。シーヴァスの首に腕を回したまま、妖艶な笑みを湛えて見上げてくる瞳の虹彩。
「!?」
それは、まるで燃え盛る業火のように、ぎらぎらと揺らめく深紅だった。
(こんな……色を、していたか……?)
いや違う。昼間は――そしてさっきまで、ごく普通の茶褐色をしていたはずだ。
「……ふふっ」
可笑しくてたまらないというように目を細め、少女は、シーヴァスから一歩、身を引いた。
(なっ……?)
細い腕が離れた途端、立っていることすら出来なくなり、シーヴァスは前のめりに倒れ込んだ。湿地に突っ伏したというのに、その衝撃も、衣服が濡れる不快感すら感じない。視覚と聴覚だけが、残酷なまでに鮮明だった。
「ふふ……あははははっ!」
カーラは笑っている。沼の淵に嫣然と立ち、ぴくりとも動けずにいる “恩人” を愉しげに見下ろして。
「…………」
遥か上空。木々の切れ目に、燦然と満月が輝いている。目を逸らしたくともシーヴァスには、もはや視界を塞ぐことすら叶わない。
それは歪みを帯びて鮮やかに大きく、眼前の少女の瞳と同質の、不気味な紅い色をしていた。
まあまあ。なんだか恋愛小説っぽい展開に! (どこがやねん)
来るもの拒まずな感じの青年ですからね。とりあえず、相手がある程度、好みのタイプだったら、抵抗しそうにないですよね。