◆ 狂い月の夜（１）
「う〜っ、眠い……」
ふらふらと、クレアはヘブロン王国の上空を移動していた。あまり高い位置だと突風に煽られかねないので、街の灯りがわずかに届くあたりを飛んでいる。
酔い潰れたナーサディアを、どうにかこうにか部屋のベッドまで運び、安眠妨害に憤慨していた宿泊客、その全員に謝罪して回り、従業員に叱られながら、ぐちゃぐちゃに散らかったラウンジを掃除して。壊れた備品の代金に、迷惑料を上乗せした二千ダルクを支払うことで、なんとか許してもらえた。
『人間界にいる以上、必要になることもあるでしょうから』
そう言って、インフォスの通貨を持たせてくれていたティセナに心底、感謝した――とはいえ、戻って経緯を話せば呆れられることだろう。
「早く帰ろ……」
さすがに眠い。交代で仮眠はとっていたが、ボルンガの一件に始まり、夜盗ゼビアの討伐、若い女性を狙うゴブリン退治、焼き払われたティアズの救済活動、サルファの反乱軍鎮圧と、もう六ヶ月インフォスに詰めっぱなしだった。天界暦で二週間近く、ろくにベテル宮に戻っていないことになる。さすがに疲れが溜まり、聖気の余力も限界に近かった。
事件が起きるタイミングに文句をつけても仕方がないが、どうしてこう立て続くのか――任務は最優先事項であるものの、たまにはベッドで眠りたい。
サルファの事件が解決して、ようやく混乱度が平常値に戻り一段落ついたので、クレアは、明日からティセナと入れ替わりで、五日ほど休暇を取る予定だ。その前に皆の様子を見ておこうと、ナーサディアを訪問したが最後、体力も尽きてしまった。
シーヴァスとも、しばらく顔を合わせていないので、ナーサディアを訪ねた後で行くだけ行ってみようと考えていたが、そんな気力も失せていた。
相変わらずで元気そうだったと、今日、ティセナが教えてくれたことだし、それでなくても夜の訪問を迷惑がる勇者だ。なにより、自分の頭は、もう半分夢の世界に浸かっている。これでは、ただの世間話すら満足に出来そうにない。休暇明けに、真っ先に挨拶に行けばいいだろう――
「！！！？」
唐突に、稲妻にでも打たれたように、つらつらしていた思考が現実に引き戻された。
「な、なんなの……？」
自分でも訳が分からないまま、滞空して四方を見渡す。
ふと腕に目をやると、鳥肌が立っていた。ひどく風が冷たい。インフォスの季節は、もうすぐ夏になるのに――うっかり居眠りしながら飛んでいて、ファンガムの雪原地区に入り込んだのかという考えが、一瞬、頭を掠めたが、眼下に広がる地形はヘブロン王国のものだった。ちょうど、ヨースト市街――フォルクガング邸の近辺である。
閑静な住宅街。大通りをまっすぐ行くと繁華街で、その先はヴォーラスへと続いている。左側に見えるのは、なだらかな海岸線。逆方向は森になっていて。
（……今……秋だった？）
目に映る情景が理解できず、束の間、そんなことを考えた。
前方の広大な森が、生い茂る葉も、そして幹まで深い紅に染まっている。まるで燃えているかのように。しかし今は六月だ。いくらなんでも紅葉のはずがない。
「あ……」
ようやく鳥肌の原因を、木々を覆う紅い濃霧の正体を悟り、クレアは思わず両腕で、自分の身体をきつく抱きしめていた。
―― “瘴気” ――
ひどく禍々しい、凍てつく波動。下位魔族のものでは有り得ない。あのレベルの魔族の気配は、どれだけ数が多かろうと、こんな明るい場所まで届かない。中位――もしくは、それ以上の魔族が、あの森にいる。
（けど……だけど、どうして……）
今朝、インフォスの混乱度は確かに正常値だった。以前のボルンガ族の件といい、未だ突き止められない淀みの原因に、どれだけ他の不安要素を加味しても、
（そんな高レベルの魔族が、この世界に侵入できるはずないのに――）
そこまで考えたところで、時空連結の法則、その “例外” に思い至り、ぎくしゃくと、厚い雲に覆われた夜空に目を凝らす。
「……狂い……月 ……！？」
夜空においては異質な――俗に “狂い月” と呼ばれる、紅の色彩がそこに在った。時空連結の法則を狂わせる、唯一のもの。次元がねじれ、隔てられた世界が交差する。
常ならば白銀の輝きを放つ天体が、なぜ時に血の色に染まるのか。理屈は定かでない。ただ、こういう日は魔力が乱れ、聖気も弱まるので、天界人は外出を避ける。逆に魔族は凶暴性を増すとも噂されている。
（ど、どうしよう……）
今の状態で、あんな瘴気を放つ魔族と戦えば、自分には万にひとつも勝ち目はない。ティセナでなければ。
（でも、せっかくの休暇中に呼びつけるなんて――）
昼間、ちょっと顔を合わせたとき、グリフィンのところへ行くと言っていた。きっと今頃、遊び疲れて眠っているだろう。
（事件性がないなら……ただ、森にいるだけなら、夜明けまで様子を見る……？）
獣型の魔族なら、空腹でもない限り、無闇に他の生物を襲いはしない。だが、
（……だめ。やっぱり、呼んで来なきゃ……）
中位――レベル２０以上に分類される人型魔族は、例外なく “擬態” の力を持つ。光の差す場所では多少、行動に制限を受けるとはいえ、人間に化けて街に潜り込めるのだ。取り逃がしてしまえば、探し出すのも容易ではない。歴代の守護天使の記録にも、魔族が人間に成りすまして事件を起こしていた例が、いくつも書き記されているのだ。
（私は、このインフォスの守護天使なんだから）
こんなところで私情を挟めば、それこそ、あの少女に叱られてしまう。
「グリフィンは……ニーセンの借家かしら」
逸る気持ちを押さえ、石の波動を探るべく感覚を研ぎ澄ませると、
（…………？）
ばらばらの方向に、精神反応が五つ。シーヴァスのものだけが欠けている。つまり彼は石から離れていて、訪問不可。そのはずなのだが……なにか今……呼ばれたような？
（……違う）
そうではない。呼ばれたのではなく、ひどく微弱な、だが確かにシーヴァスの気配がしたのだ。あの森――瘴気が渦巻く方角から。しかもそれが、今にも消えてしまいそうなくらい急速に衰弱している。
「なん……で……」
考えるまでもないことだった。状況が指し示す答えは、ひとつしかない。
（魔族に、襲われたの！？）
思い出したくもないのに、過去が押し寄せてくる。血の海に堕ちた、黄金の。
『 ――私が、殺した 』
背筋が、総毛だった。
泣いていた記憶。なにも出来なかった記憶に、どうしようもなく突き動かされて。
天使たちの過去も、そろそろ書きますかねー。クレア視点じゃ、全設定の半分も明らかになりませんが。