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◆ 狂い月の夜(2)


「いい夜だこと。こうも上手くいくとは思わなかったわ」

 その背から一対の、コウモリを思わせる形状の赤い翼が、ずるりと生え出た。
 少女の姿が蜻蛉のようにぼやけ、それが飴細工のように瞬く間に別のものへと変形していく。

(……幻覚では、なかったのか!?)

 奇怪な現象が止み、そこにいたのは――先刻、一瞬だけカーラにだぶって見えた、病んだ雰囲気の婀娜な女だった。
 青白い肌。黄褐色の縮れた髪。
 それ以外は――濡れた唇、猫に似た両眼、扇の如き翼、薄絹の衣服すら――深紅。
「あー、窮屈だった」
 顔をしかめ、しきりに翼の付け根をはたいている。
「特に街の中ときたら! あっちもこっちもネオンだらけで、息苦しいったらありゃしない」
 ひとしきり、身体をほぐすように動かしてから、
「さて、と……初めまして、と言うべきかしら? あたしの名前はキルケ。よろしくね」
 女は、こちらに向き直った。
「綺麗な顔よねぇ……生気も極上。人間の男とは思えないわ」
 覆いかぶさるように寄り添い、恍惚とした表情で頬を撫で回してくる。長く尖った爪。それも、また深紅だった。
「適当に何匹か狩るつもりでいたけど……もう、他は要らない」
 粘着質の嬌声が、耳元で囁く。
 気色が悪い。すぐさま払いのけたい――だが、全身が鉛のように重く、ぴくりとも動かない。女の指先が、首筋を這うのが視界の隅に見えても、身体はなにも感じない。どうなっているんだ、これは!?
「永遠に、その姿のままで私の傍に置いてあげるわ、シーヴァス……」
 ふざけるな。
 そう切り返したくとも、声さえ出ない。
「…………?」
 おもむろに周囲で、ごぽごぽと水の音がし始めた。それが次第に勢いを増していく。状況を把握する間もなく、四方から濁流が押し寄せてきた。

(ぐっ……!?)

 泥水は瞬く間に嵩を増して、シーヴァスを呑み込んだ。汚濁に視界を塞がれる寸前、目に映ったのは、愉悦に歪んだ赤の虹彩だった。
(……なんの冗談だ、これは…………)
 ごうごうと、渦を巻く轟音だけが聴こえる。流されているのか、沈んでいるのか……熱さも冷たさも感じない。息が出来ないはずなのだが、苦しささえ感じない。まるで悪趣味な夢のようだ。
 死ぬ瞬間とは、こういうものなのだろうか。かつて一度は死にかけた身だが、よく思い出せない。それとも――これは夢なのだろうか? 非現実的な展開にも程がある。案外、酔い潰れて自室で眠ったまま、夢を見ているのかもしれない。

(それなら……早く覚めて欲しいものだがな……)

 考えることも面倒に思え、朦朧とする意識を手放しかけた刹那、


『 ―― “ディサス・エルジード” ―― !! 』


 凛とした声。白い閃光が、濁流を裂いた。
「ギャアアアアッ!?」
 次いで響いた、獣じみた悲鳴。津波のごとく荒れ狂っていた水流が、ぴたりと静まる。
「シーヴァス!!」
 ばしゃばしゃと、水を掻き分ける音が震えて。
「しっかりしてください! 動けますかっ?」
 汚泥に浸されていた視界に、わずかながら光が戻った。
「…………」
 辛うじて、薄く目を開けることは出来た。立ち並ぶ常緑樹は水浸しで、シーヴァス自身も濡れ鼠だが、どうにか上半身は水面より上に出ていた。細い腕に、抱き起こされている。さっきまでとなんら変わらず、朧な夜空に浮かぶ紅い月――ただ、あの女は見当たらず、張り詰めた表情の天使がそこにいた。
(クレア……?)
 サファイアブルーの瞳は、焦りと怯え、そして困惑に揺れていた。彼女も全身、ずぶ濡れだった。白基調の衣服が泥水に汚れて台無しだ。
「…………!」
 気遣わしげに覗き込んでくる視線に、驚愕と険しさが加わる。


『 ―― “ユートゥエル・リフィア” ―― 』


 次いで紡がれた言葉。
 それはクレアたちが多用する回復魔法だった。降り注ぐ淡緑の光が、身体に触れては雪のように融けていく様を、シーヴァスは、まるで他人事のような気分で眺めていた。だが、まず自分を支えている天使の腕の、どこか頼りない感触を認識し、
「うっ……?」
 腰までを浸す泥水の冷たさと、腐臭。濡れた礼服が纏わりつく不快感。そして全身を襲う、重度の吐き気と倦怠感をようやく自覚した。
「……がはっ!」
 唐突に、ひどい息苦しさを覚える。どうやら神経も器官も完全に麻痺していたらしい。天使が回復魔法を使うほどに――全身の感覚が戻るにつれて、体中の細胞が酸素を欲して暴れ狂い始めた。
「しっかりして、眠ったらだめです! 飲み込んだ水は、できるだけ吐いてください!」
 そんな叱咤を、すぐ耳元に聞きながら、目の前の細い身体にしがみつき、ただ咳き込み喘ぎ続ける。必死で抱きとめてくれているクレアの、確かな温もりと柔らかさだけが、現時点で唯一心地よく感じるものだった。
「ぐ……っ、はあ、はあ、はあっ……!」
 溺れかけたときに、だいぶ水を飲んでいたようで、まともに呼吸できるようになるまでにもしばらくかかった。ぜいぜいと、肩で息をしている勇者に向かって、
「シーヴァス! ちゃんと自分の名前が言えますか? 住所は?」
 天使は、かなり間の抜けた質問をしてきた。意図は理解できるのだが、もう少しマシな訊き方が出来ないものだろうか。
「……っ、迷子の、子供……扱いか? クレア……」
 助けてくれたことに礼を言うべきなのだろうが、真っ先に転がり出たのは、そんな憎まれ口だった。
「…………」
 けれど天使は、怒るでも呆れるでもなく、今にも泣き出しそうな顔で微笑んだ。安堵、喜び。そういった単純なものではない、もっと複雑な感情を映して。
(……美しいな)
 素直に、そう思えた。こんな状況下で、それでも――そんなこととは無関係に、彼女は、その笑顔は綺麗だった。しかし、
「街まで、飛びます。もし誰かに目撃されても、後で適当にごまかしてくださいね!」
 見惚れていられたのは束の間だった。クレアは、いつになく強引な態度でシーヴァスを立ちあがらせた。回復魔法のおかげで、どうにか動けるようにはなっていたから、それは構わないのだが、
「なに、が……どうなって……」
 まさか自分を連れて飛ぶつもりか? なにを、それほどまでに急いで、

「誰が逃がすか、小娘があっ!!」

 投げつけられた罵声。背後で蠢いた殺意と冷気が、


『 ―― “キア・エファス” ―― ! 』


 迫り来るより一瞬早く、天使は宙に印を描いていた。忽然と現れ出た青灰色の魔方陣が、飛来した氷の槍をことごとく霧散させる。だが、槍の残影かと思われた漆黒の筋が、青い光を貫通して彼女の身体を掠め、鮮血を散らせた。
「クレア!」
「……掠り傷です。そこから、動かないで」
 前に出て、事態を把握しようとしたシーヴァスを、彼女は有無を言わせぬ調子で押しとどめる。そこに漂う緊迫感は、初めて天使に出会ったあの夜と酷似していた。いや――クレアの表情の険しさは、あのときの比ではない。
「あれ、は……なんなんだ?」
「中位魔族、ケルピー。水属性の妖魔です」
 半ば予想していた答えだった。ケルピーというのは種族名だろうか。だが……中位魔族? 今まで戦ったガーゴイルを始めとする化け物は、下位魔族と呼ばれていた。つまり、あれらとは桁違いの相手ということか?
「――ったく。浄化魔法ってヤツ? ふざけた真似してくれるじゃない、下級天使風情が」
 女魔族は、さっきまでのシーヴァスと同様、上半身を起こした状態で泥水に浸かっていた。全身に、焼け焦げたような痕があるのは天使の魔法によるものか。だが、たいした痛手は被っていないように見えた。
「しかも冷気が利かないとはね……あんた、水属性? シーヴァスの、なんなの?」
 濡れて額に張りついた髪を鬱陶しげに払い、ざばざばと水面を割りながら立ちあがる。そうして赤翼を広げた女魔族は、宙に浮かび上がるとギロリと天使を一瞥した。
「…………」
 クレアは答えず、相手を睨み据えている。
 対峙した両者の容貌は、あらゆる要素を反転させたかのように対照的だった。
「まあ、いいわ。瘴気で燻り殺せば済むものね――私たちの逢瀬を邪魔した罰よ。とっとと死になさい」
「……逢瀬?」
 クレアは、怪訝そうに首をかしげた。
「そうよ。その男は私のもの。暗く冷たい水の底で、永遠に私を愛し続けるのよ」
「ふざけるな!」
 舐めるような視線を、間髪入れず撥ねつける。あんな化け物に一生を捧げるくらいなら、自殺した方がマシだ。
「そうですよ、おかしなこと言わないでください! 彼には、れっきとした人間の恋人がいるんですっ」
 天使もまた、いきり立って反駁した。しかし、
「なによぉ。キスしても、抵抗しなかったくせに」
 ケルピーが不満げに言い放ち、それがまあ事実ではあったので、とっさに否定できずにいると、
「…………」
 クレアは神妙な面持ちで、女魔族とシーヴァスを見比べ、おずおずと訊いてきた。
「……あの、シーヴァス。もしかして私……デバガメでしたか?」
「化け物の言うことを真に受けるなっ!」
 語句の意味は理解しているようだが、根本的なところがズレている。だがそれ故に、ある種の安堵も覚えた。目の前のこの天使、紛れもなくクレア本人だ。
「あら、ひっどぉい」
 ケルピーは、おおげさに肩を竦めてみせた。
「ま、盾突くって言うんなら、それでもいいわ。好きなだけ足掻きなさい。暴れる獲物の方が、興奮するもの。ただし……」
 口の端が、愉悦を含んで釣り上がる。獲物を狙う捕食者の目をして、
「すぐに楽になれるとは、思わないことね」
 女魔族は嗤った。それに呼応するように逆巻いた水面が、びしびしと音をたてて刃と化し――




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緊迫した状況で、なんでか掛け合い漫才? 天使がボケてるせいか……。