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◆ 死淵の攻防(1)


 夕方。執務室で、ローザと一緒に資料整理をしていると、
「ブロードソードとグレートソードが二本ずつ、こっちがワイヤービュートで……」
 今日まで休暇だと聞いていたティセナ様が、メモ用紙を片手に、布に包まれた棒状の物を何本も抱えて現れて、
「ティセナさん。メタルブレストは、ここに積んどいていいですか?」
 続けて、彼女と同年代か少し年下に見える、少年少女がどやどやと入ってきた。
「そうね。固めて置いて」
「ゼファー、そこの椅子どけてくれ。荷物がつかえて通れねえ」
 アッシュブロンドの天使が言う。
「ああ――って、ルシード。いっぺんに二つも運ぶからだろう?」
 それに応じたのは、砂色の髪に、透きとおるようなスカイブルーの目と翼をした少年だ。
「いや、フロー宮からここまで、何度も行き来するほうが疲れるって。なあ、アリシェス」
「は、はい……。あのう、姉さま、この箱はどこに――」
 カナリアみたいな巻き毛の少女は、勝手が分からないようで、菫色の瞳をきょときょとさせている。
「わあっ、なんですか? すごい量ですね」
「ああ、うん。明日からクレア様が休暇でしょ。混乱度も正常値に戻ったし、今のうちに新しい装備品を揃えておこうかと思ってね」

 さすがに荷物の量が多いから、運ぶのを手伝ってもらったんだと、ティセナ様は簡単に説明した。彼らは、友達の弟さんとか、まあ幼なじみのような関係らしい。私たちも自己紹介した。
「また、いつでも呼んでください」
 ルシードさんたちは、勧められたお茶菓子を見事に平らげて、そう言って帰っていった。

「では、ティセナ様の明日の予定は、勇者様方の訪問ですね」
 急に静かになった執務室で、ローザがスケジュール表に書き込みながら言った。
「えっと、地図だと、シーヴァス様は訪問不可みたいですけど……」
 私は、テーブルに置いてある世界地図を確認した。
 図面の上には、計五本のダガーが浮かんでいる。それぞれ、柄の部分が青、水色、紫、オークル、グレイと色鮮やかだ。これは、勇者様が持ち歩く結晶石に連動していて、彼らの現在地、体調などを確認するためのアイテムなのだ。
 例えばオークルは、フィアナ様の魂の色を反映している。これが黒ずんでくると、体力を消耗している証拠。切っ先がクヴァールのタンブールを示しているから、彼女の居場所もそこだ。
 ……ちなみに、残るひとつ。普段なら金色のダガーは、今は無色透明で地図の上にころんと転がっている。本人の手元に石がないから、動力源もなくて用を成さないのだ。
「シーヴァス様ぁ?」
 その名前が出た途端、ティセナ様は、いつにも増して嫌そうな顔をした。
「いいよ、後回しで。どうせ夜通し、街で遊び呆けてるんでしょうよ」
「まあ……確かに、混乱度も正常値に戻ったことですし、それほど急ぐ必要は……」
 困り顔で、水晶球を覗き込んだローザが、
「!? ティ、ティセナ様! 数値がっ――」
 ぎょっと目を瞠った。
「?」
 眉をひそめ、ティセナ様が席を立つ。一足先に、水晶球に飛びついた私は、
「へ……? 混乱度164……なに、これっ!?」
 仰天した。ヘブロン王国の南西部一帯が、赤い瘴気に覆われている。接続した観測機の数値も、完全な危険域だ。
「な、ななななんで、だって今朝は確かに……!」
 おろおろする私を他所に、
「……壊れて、いるんでしょうか……?」
「そう思うけど――これ、まだ二ヶ月しか使ってない新品だし……不良品?」
 ティセナ様とローザは、最初こそ驚いていたものの、すぐに冷静に道具の不具合を調べ始めた。けど、

 ――ガシャンッ!!

 突然、ティセナ様が計測器を取り落とした。大理石の床にぶつかって、表面のガラスが粉々に割れてしまう。
「ひゃあ!?」
「ど、どうなさったのですかっ?」
 青褪めた顔で硬直していたティセナ様は、私たちの呼びかけも、まるで耳に届いていないみたいで、
「ク……レア、様……?」
 震えながら呟くなり、憑かれたような形相で虚空を睨むと、次の瞬間には忽然と姿を消してしまった。

×××××



 天使は、素早く視線を巡らせた。
 煌々と輝く紅い月。細く入り組んだ獣道、腰までを浸す泥水。シーヴァスの顔と、魔族との距離。そうして、なにかを振り切るように、


『 ―― “ ラグノア ” ―― !! 』


 叫び、銀のナイフを振り降ろした。それは俄かに黄金の光を放ち始め、水面を造作なく切り裂いて、ぬかるむ大地に突き刺さる。
「なっ……?」
 幾重もの光の筋が網目状に迸り、外部から覆い隠すかのように、二人がいる空間を取り囲んでいく。ケルピーが放った氷の刃は、その光輝に弾かれて跡形もなく消し飛んだ。
 シーヴァスは絶句した。
 眼前の現象に、ではなく――先刻までの暗がりから一転して、光の下に曝された天使の惨憺たる姿に。
「クレア……その怪我っ!?」
 彼女は、憔悴し切っていた。ただでさえ色白の顔は血の気を失い、魔族の攻撃が掠めた箇所、裂けた傷口から鮮血が噴き出している。衣服がひどく黒ずんで見えるのは、泥水に加え、どくどくと流れる赤い液体が滲み込んでいるからだった。
「たいした傷じゃありません。しばらく放っておけば、治ります」
 毅然とした目線と声音。だがそれすら、気力で己を奮い立たせ、痩せ我慢をしているようにしか感じられない。
「それより、じっとしていてください。シーヴァス」
 そっと伸ばされた右手が、ひたいに触れた。濡れて張りついていた前髪が、耳元へと払われる。後頭部を重く浸していた疼きが、たちまちに霧消してゆく。天使は、まるで病床の子供を宥めるような口調で言い、苦笑した。
「魔法では、体力は回復できても、奪われた生気までは戻せないんです。安静にしていないと、寿命……縮んじゃいますよ」
「人の心配をしている場合か!? だいたい、君は――」
 どうしようもなく憤りを覚えた。ついさっき溺死しかけた身ではあるが、それでも今の彼女に気を遣われる謂れはない。だが、

「へぇ……秘石結界?」

 後に続けようとした言葉は、
「こんなんで時間稼いで、なんになるっての? どうせこれから死ぬのにさぁ」
 唐突に間近で響いた、侮蔑混じりの声に遮られた。
「ほんっと、逃げ隠れするのが得意ねぇ。天界人って。正面切って刃向かえないわけ?」
 ケルピーは光の外側に立ち、両爪を袈裟斬りに振り下ろした。だが、幾何学模様を形作る黄金は綻ぶことなく、まさしく熱した油が水を弾くようにばちばちと音をたて、その身体を吹っ飛ばした。
「……フン」
 赤翼を広げ体勢を立て直した女魔族は、忌々しげに舌打ちすると、再び、足元で波打つ汚水を無数の刃へと変えた。飛来したそれは、端から光輝を掠めて蒸発していくが、一帯は津波を被ったかのごとく依然として水浸しであり、その攻撃は止むことがない。
 それでも “壁” の輝きは翳らず揺らぐことなく、シーヴァスたちがいる空間に氷刃は届かずにいた――当初、五分ほどは。
「!!」
 切れ目なく続く魔族の攻撃に、ぴしり、と微かな音がして “壁” の一部に亀裂が生まれた。それは軋みながら数を増し、やがて氷刃がぶつかる振動が内部にまで伝わり始めた。ぱらぱらと、光の破片が落ちてくる。いくら天使の魔法といえど、永遠に保つはずがないのだ。
(帯刀してきて、正解だったな……)
 夜行性の猛獣を警戒してのことだったが、まさか、こんな街に近い場所で魔族の罠に嵌るとは。
「…………?」
 苦い気分で剣の柄に掛けた手が、不意に、細い指に押さえられた。
「……放してくれ、クレア」
「嫌です」
 傍らの天使は、いつになく頑迷な意志をサファイアブルーの瞳に湛え、こちらを睨み据えてくる。
「剣を抜いて、それで、どうする気ですか」
「戦うに決まっているだろう」
「ここから出ても、殺されるだけです」
 彼女は断言した。おそらく、その見解は正しいのだろう。なにしろ、これまであらゆる敵の攻撃を無効化してきた天使の防御魔法を、ものの数分で破るほどの相手だ。シーヴァスでは歯が立たない。だからこそ、クレアも防戦一方に回っている。
「だが、このまま、みすみす殺られるくらいなら――」
 間もなく “壁” は破壊されるだろう。逃げる術もない。シーヴァスには、自分で蒔いた種だ。どうなろうと自業自得だろうが、この世界の守護天使まで道連れにするわけにはいかない。勝てないにしろ時間を稼ぎ、彼女だけでも、この場から逃がさなければ。
 あんな化け物の思うようになるよりは、一矢でも報いて死ぬ方がいい。
「――あなたは!」
 可能性があるなら、ひとりでも生き残る方を選ぶ。それは合理的かつ当然の選択であるはずなのだが、クレアは激しくかぶりを振り、わめきながらシーヴァスの腕にしがみついた。
「あなたたちは、私より先に死んだら駄目です!」
 無茶苦茶を言う。
 毅然とした態度は、すでに崩れ去り、そこにあるのは焦燥と怯えだけだった。直に触れた肌から、伝わる体温。華奢な身体は、疲労からか水を被ったせいか冷え切っていた。悠長に構えてはいられない。彼女がどう言おうと、こちらから打って出なければ状況は悪化するばかりだ。
「…………」
 頑なにしがみついてくる天使を持て余し、再度、理を説くか、それとも力ずくで引き剥がすべきか逡巡していると、
「ふふん、効果が絶大なだけあって、そう長くは保たないみたいね、これ」
 ひび割れた “壁” の外で、生き物のように蠢く汚水を、その身に纏わりつかせた女魔族の評が聞こえた。
「さぁて、と。燻り出したら、どう料理してやろうかしら……」
 濁った水が見る間に凝縮し、無数の鋭利な刃と化す。それらが今にも放たれようとした瞬間――


 燃え盛る紅蓮が、視界を薙いだ。



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ルシード、ゼファー、アリシェス。この三人は 『ディケイド』 を完結させた後で書く予定の、『純白の預言者』 ベースの小説のメインキャラクターです。ここでは伏線というか、紹介まで。