◆ もう一人の被害者(2)
昼間の喧騒とはがらりと違い、享楽的な空気を醸しだす繁華街。
下卑た言葉を投げかけてくる酔っ払いや、引く手数多の客引きを見事なまでに無視して、
「瘴気の残滓が濃くなってる――この辺りか」
天使は、アンティーク・ショップを曲がってすぐの裏路地へと入り込んでいった。
大通りから少し外れただけで、そこは別世界のように静まり返っていた。四つ角に差し掛かるごとに立ち止まり、片っ端から路地の奥を覗き込んでは、積み上げられた木材や酒樽などの物陰を調べ回っている。
「……なに、ボサッと突っ立ってるんですか」
思い出したように振り向き、ここまで走っただけで息切れしている勇者を見咎めたティセナは、苛立たしげに声を荒げた。
「さっさと帰って休むか、あの女の子を探すか、どっちかにしてください!」
「あ、ああ」
気圧されながら頷くが、そのときにはもう彼女は、勢いよく踵を返して遠ざかっていくところだった。
「厄日だな、まったく……」
“生気” なるものを大量に吸われた所為らしい。ひどく気だるく、ただ歩いているだけで身体がふらつく。だが、事の真相がティセナの言葉どおりなら、のんきに邸で休んでいるわけにはいかない。せめて、あの少女――カーラの無事を確認しないことには。
重い足を引きずるようにして、しばらく路地を進んでいくと、
「?」
ザツッと、なにかが靴先に当たり、小枝を蹴り飛ばしたような軽い音がした。
足元に目を落とすと籐編みのカゴがひとつ、上下逆さまに転がっていた。その周辺には、手のひらほどの大きさの物体が散らばっている。
「……なんだ?」
身を屈め、薄闇に目を凝らしてみると、それはとりどりの形をしたパンだった。生ごみ置き場の残飯をカラスが食い荒らしたのか、とも思ったが、それにしては形状が整いすぎている。
(なぜ、こんなところに――)
考え込むまでもなく、巡らせた視界の隅に、その答えが映った。
「カーラ!?」
動揺しつつ駆け寄る。少女は、路地の行き止まりに倒れ伏していた。服装は昼間と、そしてケルピーが化けていた姿とも同じだが、おさげ髪はぐしゃぐしゃにほどけてしまっており、そして、
「…………!」
抱き起こそうとすると、ぬるり、と嫌な感触が手のひらを濡らした。後頭部から血が流れ出している。街灯に照らされた、幼さを残す顔は、蒼白を通り越して土気色をしていた。
「ティセナ!!」
応急処置などで、どうにかなる出血量でないのは瞭然だ。シーヴァスは来た道を引き返し、大声で天使を呼んだ。
「見つかったんですか!?」
幸い、声の届く範囲にいたらしい。駆け戻ってきた彼女を先導しながら、シーヴァスは歯切れ悪く肯く。
「ああ、だが……」
「!」
カーラを、そこに広がる血溜まりを見たティセナは、愕然と立ち竦んだ。しかし、
「…………!?」
虚を突かれたのは、むしろシーヴァスの方だった。天使は、ほとんど躊躇いもなく動かぬ少女の傍らに膝をつき、回復魔法を使い始めたのだ。すっかり馴染みとなった、淡緑色の光輝が暗がりを照らす。
「お、おい。いいのか? 君たちは、勇者以外の人間に――」
「私は、守護天使でも正規軍でもありませんから」
つっけんどんに答えたティセナは、わずかに顔をしかめ、淡々と説明を加えた。
「言っておきますけど、あくまで私が例外なだけですからね。クレア様たちには、やらせないでください……たとえ誰のためだろうと、どういう状況だろうと。戒律違反は、天界では重罪ですから」
「あ、ああ……」
釈然としないまま頷いて返したところで、
「後頭部を殴られて、そのまま気絶していたようです」
どうやら治療が終わったらしい。天使はふうっと肩の力を抜き、
「出血は多いですが、命に関わるほどじゃない。脳や内臓に損傷がないのは、不幸中の幸いでした――すぐに意識も戻るでしょう」
ひたいの汗を拭いながら、ほんのわずか頬笑んだ。
天使が大丈夫だと言うのだから、医者に診せる必要はないだろう。
しかし、自宅まで送り届けようにも家がどこなのか分からない。騎士団の詰め所に行けば、捜索願いが出されているかもしれないが、さりとて経緯をどう説明したのものか考えあぐね、
「…………」
それでもいくらか肩の荷が下りた気分で、路地裏に留まり、カーラの意識が戻るのを待っていると、
「うっ……ううん……」
半刻ほどして、彼女は小さく呻きながら身じろいだ。
「カーラ」
「……気がつきましたか?」
かわるがわる呼びかけると、まだ焦点の定まらない茶褐色の瞳が、すぐ傍に屈み込んでいたティセナに向いた。
「えー……と……?」
「ここはヨーストの、繁華街の路地裏です」
疑念に先回りして、天使が答えた。不思議そうな表情を浮かべる、カーラの顔色には、どうにか血の気が戻ってきている。
「あなた、は?」
「街の警備を仕事にしている軍人です」
固有名詞や魔族の件については見事に省きつつ、天使は本当のことを言った。
「もう真夜中になるのに、あなたが待ち合わせの場所に現れないと、シーヴァス様から聞きまして――捜索を手伝っていました。頭を打って気絶されていたようですが、なにがあったか覚えていますか?」
「…………?」
意識がまだ朦朧としているのか、ぼんやりと考え込んで、
「あ……そうだ。歩いてたら……なにか頭にガツッて……当たって……それで……」
やがて後頭部を押さえながら、身を起こしたカーラと、まともに目が合う。
「……シーヴァス様?」
きょとんと目を瞬いた彼女は、すぐさま血相を変えて跳ね起きた。
「あーっ!!」
路上に散らばったパンとカゴを見つけるなり、ふらふらとその場にへたり込んでしまう。
「これは、君が?」
状況と、今の反応を見れば確認するまでもないことだった。
「……わた……し……シーヴァス様に助けていただいたのに……うちは貧乏だから、お礼できるような物もなくて……」
項垂れていたカーラは、か細い声で話しだした。
「でも、パン作りなら得意だから……せめて焼きたてのパンを食べてもらえたら、って……思って……」
「…………」
少し離れた位置に立ち、天使は、凪いだ目をして黙っている。
「それでも……大貴族の騎士様には、お口に合わないかもしれないから……どこか人目のないところで、お渡ししたかったのに……なんで、私……パン落っことして、こんなところで寝てたなんて……」
自分のスカートの裾を握りしめ、細い肩を震わせていた少女は、そこで堰を切ったように泣きだした。
「ごめんなさい……シーヴァス様。ご迷惑かけてごめんなさい、ごめんなさい――」
(…………迷惑も、なにも……)
自分と係わり合いにさえならなければ、ケルピーに襲われることもなかったはずだ。なにより、ティセナが気づいてくれなければ、シーヴァスは、彼女もまた被害者であったなどとは考えもせずに、己の不運を呪い、天使への引け目だけを抱えて眠りについていたことだろう。
あの怪我と出血で、朝まで誰にも発見されずにいたなら、おそらく、この少女は――
「カーラ……だったな」
謝らなければならないのは、こちらの方だ。だが、そうすると必然的に、魔族についても話すことになる。
天使の軽蔑に満ちた眼差しが脳裏に浮かんだが、ただでさえ傷つき、目の前で泣きじゃくっている少女を、得体の知れない化け物のことで怯えさせる気には、なれなかった。
「このパンは、私のために焼いてくれたのだな?」
それが保身――偽善と思われたとしても。事実を告げることは、どうしても出来なかった。
「……ありがとう」
手近に転がっていたパンを拾い上げ、一口かじる。
「え? ……あっ!?」
ようやく顔を上げたカーラは、点目になり、慌てふためいて立ちあがった。
「だ、だめです! だめですよシーヴァス様っ、そんな、砂がついたようなの……!」
しかし彼女が取りすがるより先に、シーヴァスはそれを平らげていた。ちょうど小腹が空いていたということもあるが、
「……美味いな」
世辞などではなく、そう思った。素朴な、飽きのこない味だ。歯ごたえは柔らかく、香ばしい匂いがする。
「そこいらのパン屋で買うものより、ずっと美味い。焼きたてならば、もっと美味かっただろうに……勿体ないことをしたな」
「…………」
カーラは耳まで赤くなりながら、ぱちぱちと両目を瞬いている。
「これは明日の朝食にいただくとしよう」
路地に転がっていたパンを、すべてカゴの中に拾い集め、
「ゆっくり話が出来れば良かったんだが、もう夜も遅いからな……ご両親が心配しているだろう。家まで送らせてくれ」
「えっ?」
「……歩けそうか?」
重ねて問うと、少女は激しく首を横に振った。
「だっ、だっ、だめ! だめですっ! これ以上ご迷惑おかけ出来ません! 家なら近くですから、ちゃんとひとりで帰れますから……!」
「距離の問題じゃない」
本当の経緯は話せそうにないが、それでも、彼女の父母に会って謝りたかった。なにより、
「こんな夜中に、女の子ひとりで街を歩くものじゃない。物騒な輩に出くわさんとも限らんしな」
深夜の繁華街。世間慣れしてない若い娘には、魔族とは別種の危険が潜む場所だ。これでカーラが悪漢に襲われでもしたなら、シーヴァスは一生、枕を高くしては眠れなくなる。
「それに……送っていく間に、少しは君と話が出来るだろう?」
「…………」
ひどく恐縮しながら、それでも嬉しそうに頬を朱に染めて、少女はこくりと頷いた。なんというか……分かりやすい性格である。
「……家まで、送ってくる」
わずかばかり気後れしながら、静かに壁ぎわに控えていたティセナに、そう告げる。
「そうですか。それでは私は、これで戻らせていただきます」
彼女は事務的な口調で返すと、カーラに軽く会釈だけして、その場から歩み去っていった。
カーラの自宅は、徒歩で一時間程度の住宅街にあった。
家の戸を叩くと、弾かれたように飛び出してきた母親が、おずおずと 「ただいま」 と言った娘に、どうにか 「おかえり」 とだけ返して抱きついて、そのままぼろぼろと泣きだした。
そうこうしているうちに、娘を探しに出ていた父親が帰ってきて、喜んでいるのか怒りたいのかよく分からない調子でカーラに説教しながらも、しきりに目じりを拭っていた。
カーラは、愛されて育った子供なのだなと感じた。
両手を広げて迎え入れてくれる誰かが、いなければ――出来ないことだろう。心配かけてごめんなさいと、泣きじゃくりながら素直に謝ることは。
路地裏で気絶していた自分を見つけて送ってくれたのだと、少女は嬉しそうに、シーヴァスについて語った。
『二年前、あの “闇馬車” に捕まっていたところを助けてくれた騎士様』だと。
そしてフォルクガング家の人間であることも。
驚きに目を丸くして、それでもなんの含みもない笑顔で、夫妻は交互に礼を述べた。しかし……向けられた感謝と温かな空気が、今はひどく居心地の悪いものに思われた。事実を話してさえいれば責められ、恨まれたに違いないのだから。
辞去しようとするシーヴァスを呼びとめ、カーラは言った。
将来、パン屋になるのが夢なのだと。もっと腕を磨くから、いつか、焼きたてのパンを食べてほしいと。
無邪気に目を輝かせて未来を語る彼女に、シーヴァスは、平静を取り繕い 「楽しみにしている」と答えることしか、出来なかった。
もーちょっと続きます。罠。てーか、このイベント時、真相はこうだったのでは……? と、ふと考えたんですけどね。