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◆ 夢の残滓(1)


「昨日より……顔色は良いようだな)
 なるべく物音を立てぬよう扉を閉め、ベッドの傍、籐の椅子に腰を下ろす。
 ケルピーと戦った夜から丸三日が過ぎ、四日目の朝を迎えたが、クレアは未だ昏睡状態から目覚めていなかった。
 命に別状はなく、数日経てば意識も戻るはずだとティセナは言っていたが、青褪めた肌の色や低い体温、その衰弱しきった様を見ていると、ひどく落ち着かない気分になる――とはいえ、離れていても彼女の容態が気になり、看護をメイドに任せて自分の仕事に集中することも出来ず、結局シーヴァスは、ここ三日間、ほとんどの時間をこの客室で読書などして過ごしていた。
「…………」
 いつもは結い上げられている髪がほどけているからか、それとも神々しいまでに白い翼が見えないからか。眠り続ける天使の顔は、いつになく幼く頼りなく映る。
「………………」
 なんとはなしに、銀色の髪を撫でる。絹糸のような感触が、さらさらと指の間をすべり落ちていく。
(今の彼女を、この世界の医者に診せたら……どうなるのだろうな)
 ふと、思った。
 人間となんら変わらぬ姿で、ここにいる、彼女は――その存在は、やはり仮初のものに過ぎないのだろうか。

「……坊ちゃま?」

「!?」
 物思いに耽っていたところに、不意に背後から声を掛けられ、シーヴァスは危うく座っていた椅子をひっくり返すところだった。
「…………」
 どうにか体勢を立て直し、跳ね上がった心臓を押さえながら振り向くと、水差しを乗せたトレイを片手に、訝しげな顔をしたジルベールが立っていた。シーヴァスの手元の文庫本に目をとめ、
「いらしたのなら、カーテンくらい開けてください。目を悪くしますよ」
「あ、ああ……」
 こちらの動揺には気づかぬ様子で、サイドテーブルに置かれていた水差しを取り替えると、彼女は手際よく、中庭に面した窓を開けた。さっと朝陽が差し込み、夏の朝風にレースのカーテンがふわりと翻る。
「ん……」
 それが刺激となったのか、これまで呼吸音すら聞こえないほど静かに寝入っていたクレアが、わずかに息を漏らした。
「……気がついたか?」
 呼びかけると、ゆるゆると瞼を開いた。ぼんやりと天井を見つめ、視線を彷徨わせたサファイアブルーの瞳が、こちらを向く。
「キー……ス……?」
 しかし意識はまだ夢の中にあるのか、藍青の色彩は曇り硝子のようで、そこに光を映していなかった。
「……の……幸せ、なら……ど……して……」
 今にも泣きだしそうな声音で、なにかうわ言のように呟いているが、それも途切れがちでほとんど聞き取れない。焦点の合わない瞳は、ここではない、どこか遠い虚空を見つめているように思えた。
「クレア……私が分かるか?」
 漠然とした不安に駆られ、やや強い声で名を呼ぶ。
「…………」
 彼女は、訝しげな、まるで初対面の相手を見るような視線を向けてきた。
「…………シー……ヴァス?」
 ようやく反応があったのは、軽く30秒は過ぎてからだった。夜明けとともに霧が晴れるように、天使の瞳の青さが、湖面にも似た常の明瞭さを取り戻していき、

「――!?」

 血相を変えて跳ね起きた。しかし次の瞬間、悲鳴を噛み殺しながら、自分の肩と腹部を両の手で押さえ、ベッドの上に倒れこんでしまう。
「動くんじゃない! ……絶対安静だと言われているんだぞ」
 傷に障らぬよう慎重に、強張っている背と後頭部に腕を回し、その身体を元のように横たえる。
 クレアが反射的に庇ったのは、薬草に浸した包帯が巻かれている箇所――ケルピーの瘴気に毒された傷口だった。ティセナが言うには、それは天使にとって質の悪い病原菌のようなもので、治療したからといって、すぐに癒えるものではないらしい。
「シーヴァス……怪我は? ティセは――」
 他人の身を案じていられる状態ではないだろうに、クレアは絞り出すような声で訊いてきた。
「大丈夫だ」
 倦怠感は未だ残り、万全とまではいかないが、日常生活に支障がない程度には回復している。気がかりだったティセナの切り傷も、昨晩、妖精とともに半刻ほど顔を出したときには、消えていた。
「ティセナから、伝言を預かっている。当分ここで静養するように、とな」
「ここ……は……?」
 彼女は当惑気味に、室内に視線を巡らした。
「ヨーストの、私の屋敷だ」
「……休んで、なんて……いる場合じゃないです。戻らなきゃ……」
 頑なな口調で、小さくかぶりを振る。
「馬鹿を言うな。丸三日、眠り続けていたんだぞ、君は――医学生なら、自分が飛び回れる状態じゃないことくらい、わかるだろう」
 シーヴァスは、起き上がろうとするクレアの、細い手首を掴み押しとどめた。
「でも……仕事……」
「休養することだ。今の君の仕事は」
 天使というのは、概してこういうものなのだろうか。他人には必要以上に気を遣い、自分のこととなると無頓着で。
「……頼むから、無茶はしないでくれ。君が倒れたのは私の所為だからな。ここにいる間に、体調を悪化させるようなことになったら、今度こそティセナに半殺しにされる」
 なんにせよ、クレアを説き伏せるには、こちらの都合を持ち出すのが最も効果的であることは、これまでの経験から解っていた。
「違います……」
 予想どおり、彼女は困ったように言葉に詰まり、おとなしくなった。
「そうじゃ、ないです……わた……しが、弱いから……」
「いいから、とにかく安静にしていろ。こうして、話をしているだけでも疲れるんだろう?」
 天使は、申し訳なさそうに目を伏せた。
「……ごめんなさい」
 ひどく気落ちしているようだ。どう考えても非があるのは、こちら側だと思うのだが。

「クレアさん――でしたね。初めまして」

 話が一段落したと判断したのか、黙して控えていたジルベールが、すっと天使に歩み寄った。
「……ジルベールさん?」
「私を……ご存知で?」
 初対面のはずの相手に、先んじて名を呼ばれ、さすがにジルベールも面食らったようだった。
「え……」
 これまで、事件発生時は別として、定期的にシーヴァスの元を訪れていたクレアは、自然、使用人たちの顔と名前くらいは把握している。しかし屋敷の者たちに、天使の姿は見えない。そんな事情を知る由もない。
「あ……あの……」
 クレアは、ひどく狼狽していた。普段の彼女なら機転を利かせ、簡単に話の辻褄を合わせているところだ。それ以前に、こういう “失言” そのものをしないだろう。衰弱の激しさが、改めて窺い知れた。
「彼女とは、知り合ってだいぶ経つからな。何度か、話したことがある」
 適当に口を挟んでごまかすと、
「さようでございましたか……」
 ジルベールはあっさり納得した。向けられた青の色彩に、感謝の念が加わる。シーヴァスも視線だけで、気にするな、と返した。
「事情は、坊ちゃまからお聞きしました。私が、この屋敷のメイド頭、ジルベールです。なにか、必要なものがあれば遠慮せずに仰ってください」
「……すみません。ご迷惑……おかけして……」
 天使は、恐縮しきっていた。彼女の性格からして、遠慮するなと言うだけ無駄だろう。必要最低限のものは、あらかじめ揃えておいたほうが良さそうだった。
「だから、気兼ねすることはない……もう少し、眠っていたまえ。クレア」
 諭しながら、そっとベッドクロスをかけ直す。
「ごめん……なさい……」
 呟いて、彼女は素直に瞳を閉じた。
「…………」
 やはり相当疲れていたようで、呼吸音はすぐに、規則正しい寝息へと変わっていった。


 睡眠の妨げにならぬよう、そっと客室を後にし、その扉を閉めたところで。
「……それにしても」
 不気味なまでに、にっこりと頬笑みながら、ジルベールが言った。
「クレアさんに、なにをどう話していたのか、ぜひお聞きしたいものですね」
「…………」
 とりあえず、天使が次に目を覚ましたら、それとなく口止めしておく必要がありそうだった。




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完全にストーリーから脱線したロングバケーション、スタート。真夏の避暑地。恋愛イベント満載。こういうのって、普通は短編でやるもんなんでしょうけどね。