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◆ 夢の残滓(2)


「……変なお風呂」
 それが、浴室に入っての第一印象だった。
 もうもうと水蒸気が立ち込めていて、湯船らしき空間は泡だらけ。どこに水があるのかと、おそるおそる手でかき混ぜてみると、熱くもぬるくもない湯が浴槽の半分を浸していた。どうやら、泡の正体は石鹸水らしい。
(やっぱり、天界とは違うなぁ……)
 タンブールへ向かう旅の途中で宿泊した、旅館の大浴場の広さにも驚いたが、こんなふうに泡だらけではなかった。
 
 守護天使としての任務のために、地上界インフォスに降りてきたはずのクレアは、なんの因果か、実体化も解けないほど聖気が枯渇した状態で、勇者の屋敷で療養生活を強いられていた。
 事の元凶である魔族ケルピーは、駆けつけたティセナが退けてくれたが、自分は情けないことに気を失い、人様の家で三日も寝こけていたらしい。そうして目を覚ましても、起きて自力で歩けるようになるまで、さらに三日かかってしまった。
 出来ることならベテル宮に戻りたいが、本調子でないまま仕事に復帰しようとしても、ティセナに散々叱られて、ローザの見張りつきで留守番だろう。
 ならば、この屋敷でおとなしくしている他ない。とはいえ――いくら天使とて、実体化している限りは環境の影響を受ける。インフォスの季節は真夏で、北半球に位置するヨーストも例外ではない。特に昼間は暑くて身体が汗ばんで、沐浴をしたくて仕方なかった。
 それで今日、メイドのチェルシーという少女に頼むと、快く浴室に案内してくれたのだが。
「なんなんだろう、これ……」
 湯に浸かると、ただの石鹸水にしては妙な匂いが、鼻にかかった。花の蜜と砂糖を混ぜて煮詰めたような、ほのかに甘い香り。小さなシャボン玉が、ふよふよと宙を飛んでいる。天窓から差し込んでくる陽射しを浴びて、虹色に光っている。
(…………綺麗……)
 夢心地で、その光景を眺めながら、どれくらいぼんやりしていただろう。

(……あれ?)

 ぐらりと、急に視界が揺らいだ。
 次いで目の前が暗転して、そのままなにも見えなくなった。

×××××


 懐かしい夢を、見たような気がした。
 その面影は、切なさだけを残して、跡形もなく霧散して消えてしまって――

「……気がついたか?」

 聞き覚えのある声に、ふと目を開けると、呆れと疲労の入り混じった、なんともいえない表情で、こちらを覗き込んでいる人影が、すぐ傍にあった。
(…………シーヴァス?)
 綺麗な金色の目と髪。勇者を引き受けてくれた、地上界インフォスの青年。寝起きで、ひどく回転の遅い頭は、その名前を記憶から引っぱり出すにも数秒かかった。
「気分はどうだ。暑くはないか?」
「はい……普通ですけど……どうして私、こんなところで寝ているんでしょう……」
  ふかふかした天蓋付きのベッド。精巧な細工が施された、天井のシャンデリア。部屋の中央にはテーブルと、華奢な造りの椅子。窓際の花瓶には、淡い色合いの花が生けられている。
「湯あたりを起こして、気絶していたんだ」
「ユアタリ……それは、インフォスの動物ですか?」
 初めて耳にする単語だったので、そう訊ねると、シーヴァスは 「は?」 と目を点にした。
「起こすと、噛みつかれて気絶するんですか? 私、お風呂に入っていたはずなんですけど……ユアタリって、浴室に棲んでいるんですか? それともお風呂は夢で、今は任務の途中だったんでしょうか……」
 断片的な記憶の、どれが現実で、また幻だったのか。考えるほど混乱してきて、頭がずきずきと痛んだ。
「……違う、違う」
 シーヴァスは、はたはたと片手を振った。
「湯あたりというのは、なんというか――長時間、入浴していると起こる貧血のような症状だ」
 知らなかった。
 天界の医学書には記されていない症例だ。おそらく、地上界特有のものなのだろう。つい、ひとりで感心していると、
「君が浴室に行ったまま、二時間近く経っても戻らないというので、ジルベールが様子を見に行ったんだが――倒れ方がまずければ、溺死していたところだぞ。のぼせる前に上がってくれ」
「す、すみません」
 厳しい口調で怒られた。自分は水属性で、溺れるということはまず有り得ないのだが。そういうことを言うと余計に叱られかねないし、弁解の余地もないので謝るしかなかった。
「すみません、じゃないだろう。高熱を出して、丸一日、目を覚まさなかったんだぞ、君は」
「え……?」
「昨晩、ティセナを呼んで、回復魔法をかけてもらった。それからどうにか熱は下がったものの――激怒していたぞ、彼女は」
 眉間にしわを寄せながら、シーヴァスは言った。
「聞けば天界では、身を清めるにも水浴びが普通で、そのうえ地上界で一般的な湯船の温度は、君からすれば熱湯だそうじゃないか。どうして、そういう肝心なことを知らせないんだ……言ってくれれば、湯加減ぐらいどうにでも調節する」
「……ごめんなさい」
 ティセナの言い様は、かなり大げさだが、それでも迷惑をかけたことに変わりはない。どうしてこう、やることなすこと全てが裏目に出てしまうのだろう。
「その……お湯は、少し熱いだけでしたし、前に旅館でお風呂に入ったときは平気だったので」
「どうせまた、メイドたちの手を煩わせたくない、とでも考えたんだろう」
「…………」
 先回りして指摘されてしまい、クレアは返答に詰まった。
「その浴室を用意した、チェルシーだがな。君が倒れたのは自分の責任だからと、すっかり落ち込んで、気も漫ろといった状態で、受け持ちの仕事も失敗の連続だ」
「ち、ち、違います。チェルシーさんに責任はありません! 私の自己管理が――」
「……クレア」
 シーヴァスは、小さく溜息をついた。
「君は、私たちに世話を焼かれるのが迷惑なのか?」
「そ、そうじゃないです! そういうことを言っているんじゃなくて――」
「……わかっている」
 まるで子供相手にするように、クレアの頭をぽんぽんと撫でる。
「それが君の性分だということはな。気を遣うことが、悪いというわけじゃない。だが、遠慮されるより――頼りにされ、甘えてもらうことが嬉しい人間もいるんだ」
 穏やかだった口調が、そこでどことなく不機嫌そうなものに変わり、ほとんど独り言のように、
「実際、君に構いたくて仕方ないんだからな。屋敷の者たちは……」
 呟いた勇者は、また真剣な面持ちでクレアに向き直った。
「だから、ちゃんと言ってくれ。どんな細かいことでもいい。君は客人で、天使だ。こちらの慣習に合わせる必要は、どこにもない。少なくとも、ここにいる間は、それが “礼儀” だ――いいな?」
「…………」
 どこかで、聞いた台詞のような気がして。
「解ったのなら、返事は?」
「……はい」
 誰から言われたのだったか、思い出した途端――まともに勇者の顔を見ていられなくなり、クレアはベッドクロスを頭からかぶった。
「それでは早速、要望を聞こうか」
「……ジャスミンティーが飲みたいです」
 とにかく、ここにないものを取りに部屋から出て行ってくれるなら、なんでもよかった。
「……ハーブか?」
 訝しげな声が、布越しに耳に届いた。
「私は、あまり飲まないからな――厨房にあればいいんだが」
 かたん、と。椅子を引く音がした。
「少し、時間がかかるかもしれないが、かまわないか?」
 ベッドに潜り込んだまま、クレアは頷く。
「おとなしく休んでいるんだぞ」
 そう言い残して、シーヴァスは立ち上がったようだった。気配が遠ざかっていき、扉の閉まる音とともに遮断される。


(…………キース……)


 別に――似ていないと、思っていた。綺麗な金色の髪以外は。
 それとて “彼” は、プラチナブロンドに近かった。だから――なぜティセナが、あそこまでシーヴァスを避けるのか、正直、よく解らなかった。けれど、

(……気づいていた、のかな……最初から…………)

 ティセナは――彼女は、見つけていたのだろうか? ……面影を。
 言葉をくれた人が、いなくなって。月日が流れて――いつしか忘れてしまっていた。

(なのに……こんな遠く離れた世界で、違う人から、同じことを言われるなんて……)

 だが彼は、キースではない。たとえ似ていたとしても、違う。
 天使ではない。魔族でもない、天界の在り様とは、なんら関わりのない人間だ。この任務が終われば、会うこともなくなるのだから。
 回復して、ここを出たら――言われたことは、忘れてしまおう。
 そうでなければ、きっと自分はまた……肝心なときに何も出来ずに、後悔することになるだろう。



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この世界の浴場って、どういうもんなんでしょうね。シャワーはなさそうだけど、タイルぐらいはあるのかな? 中世ヨーロッパの文献でも探してくるか……。