◆ アシハナ(1)
「よくまあ、懐かれるものだな――」
それが扉を開けるなり、視界に飛び込んできた情景に対する感想だった。
「……あ。おはようございます」
手元の本から顔を上げ、クレアは穏やかに微笑んだ。
意識が戻ったとはいえ、自由に出歩けるほどには回復していない彼女は、日中は、このように読書に耽っていることが多い。特に医学書を好んで読んでいるようだが、屋敷の書庫にあるものは、あと数日もあれば読破してしまうことだろう。
「ああ、おはよう」
室内に足を踏み入れると、クレアの傍にまとわりついていた鳥たちが、ばさばさと驚いたように彼女の背後へと飛び退いた。そうしてまた、元のように騒々しく囀りだす。
「……やはり、親近感があるものなのか?」
「? なににですか」
クレアは、質問の意味を図りかねたようで、きょとんと首をかしげた。
「鳥に、だ」
そこかしこを飛び交っているのは、どれも庭園でよく見かける野鳥だ。警戒心が強く、常ならば、人間の気配がしただけで逃げてしまう。
「飛べるだろう、君たちも……まさか言葉が通じるのか?」
今のクレアも外見は、人間の女性にしか見えないはずなのだが。この鳥たちには、なにか――分かるのだろうか。
「ふふっ、お話できたら楽しいでしょうね」
本の頁を閉じながら、クレアは静かにかぶりを振り、
「でも……私には解らないです。これはティセの見よう見真似で」
出窓をうろうろしていた淡黄色の小鳥に、そっと片手を伸ばした。小鳥はためらう素振りもなく、つつつ、と跳ぶように近づいていき、つぶらな目で彼女を見上げた。
「クチバシをこう……かしかしってされるの、好きみたいなんです。この子たち」
天使の人差し指に、クチバシの付け根あたりを掻かれ、小鳥は気持ちよさげに目を細め、長い尾をひくつかせている。
「……そうか」
蒼天の世界の住人に。彼女たちの眸に――地上は、如何様に映っているのだろう。
地を這うばかりの自分には、解るはずもないことだが。
「なにか、ご用でした? シーヴァス」
問い掛けに、思考の淵から引き戻され、とっさに適当な言葉を連ねる。
「ああ、いや……用……というか……具合はどうだ?」
「ええ、おかげさまで。傷はもう癒えました」
彼女は頷きながら、ふと表情を曇らせ、窓の外へと目をやった。
「ただ……聖気は、仕事に支障ない程度に回復するには、こちらの時間でまだ二ヶ月はかかりそうで――せめてそれまで、何事も起こらないといいのですが」
「……そう……か」
相槌を打ちながら、シーヴァスは暫時、本題を切り出すべきか、ためらった。
問題の薬瓶は、右手の内にある。どう処理したものか決めかね、約三ヶ月、私室に放置したままになっていた代物だ。
先日、ここを訪れたティセナに経緯を話し、エスパルダ政府の動向と、シエラ及びディアンについては調査してもらうことになった。しかし薬品の、しかも地上の物の用途などは、自分には見当がつかないと匙を投げられた。
静養のために滞在しているクレアを、余計なことで煩わせるのは気が進まない。しかし――これが『事件』の芽だとしたら、早く摘んでしまうべきだろう。
「……どうか、したんですか?」
突っ立ったまま黙考しているシーヴァスを眺めやり、天使は訝しげに眉根を寄せた。
「君は、医学生だったな」
「え? ええ」
「この薬品が、どういうものか……分かるか?」
あのときの、ディアンの態度からして、笑い話で済まされる可能性は皆無だ。捨てるにしろ、開封して調べるにしろ、せめて、その質が判明してからでなければ危険すぎる。
「有毒らしいんだが――どう害があるのか分からず、始末に困ってな」
「どう……って……」
当惑気味に、薬瓶に目を移した天使は、
「あ――アシハナ!?」
悲鳴のような声で叫び、血相を変えて、いきなりシーヴァスの手から瓶をもぎ取った。
なぜ、こんなものを持っているのか。
いったい何に使うつもりでいたのか。
気圧されるほどの剣幕で、激昂して詰め寄る彼女に、問い質されるままに経緯を話すと、
「…………」
天使は凍りついた表情のまま、止めるシーヴァスを振り払うようにして外へ出て行き、屋敷の敷地の隅に設えてある焼却炉に、ためらいもなく薬瓶を投げ入れてしまった。
小さなガラス瓶は、ほとんど黒に近い紫の正体不明の液体ごと、燃え盛る炎に包まれて瞬時に灰と化した。
ふらふらとその場にへたり込んだ彼女を、手近な木陰の長椅子に座らせ、いったい、なにがどうしたのかと訊ねた。
「あれは……アシハナという植物の、毒素を抽出したものです……」
クレアは、か細い声で答えた。
「少量を、外科手術の際に、麻酔として使う……その意味では、確かに医薬品ではあります……けれど、あの色……濃度のものは……」
膝の上で、両手を握り締めながら言う。
「生き物にとって、もう……麻酔薬ではなく、神経毒です。血液から全身に回り、死に至らしめる……」
「それでは、やはり毒薬なんだな?」
口を挟むと、彼女は、ますます表情を翳らせ俯いた。
「ええ。ですが、この世界では……ユータナジーに使われているようですから……確かに、医者なら誰でも所持しているでしょう」
「……ゆーたな……なんだ、それは?」
初めて耳にする単語だった。医学用語だろうか?
「安楽死。助かる見込みのない患者に――それ以上の苦痛を与えぬよう、人為的に命を絶つことです」
端的な説明。
その内容に、返す言葉を失いながら、シエラの言葉を思い返す。
『エスパルダの教典では、血を流して人を殺すことが禁じられているから、どうしても貴方の強力な毒薬が欲しいの』
合法的に罪人を殺す道具。それが “アシハナ” だった。ならば――取引の違法性を立証することは、まず不可能だろう。ディアンの余裕は、見せ掛けのものではなかった。
「それを防ぐために、医者はいるのに……」
ひどく硬い声音が、嘆きを紡ぐ。純粋な怒りと、悲しみを瞳に映して。
「…………人殺しのための道具なんかじゃ、ないのに……」
長椅子に浅く腰掛け、肩を落としながらも、天使は――ソルダムでディアンとやりあったときと同じ表情をしていた。
そこに在るのは、なにがあろうと退かない、相手の理屈を認めはしないという、強固な意志そのもの。
(…………なぜ、彼女は……)
あのとき、確かに思った。クレアなら、あの男に言い負かされはしなかっただろうと。
「だが……犯罪者を生かしておいて、それがなんになる?」
抱き続けていた疑問が、形となって転がり出る。明らかに、火に油をそそぐ言葉だった。
「…………」
クレアは黙したまま、挑みかかるような鋭い眼をこちらに向けた。
彼女は、聡明だ。知識が及ぶ分野は多岐に渡り (一部、欠落してはいるが)、その感性に、さほど自分たち人間との差異はない。単純な無知ゆえの強さとは考えられない。
ならば、なぜ――揺らがずにいられる?
「ディアンの言い分が正しいとは思わん。しかし、ある意味――筋が通っているようにも感じた」
腹は立ったが、否定できなかった。
「野放しにすれば人々に危害を加える。捕らえたところで更生は見込めない。それなら、殺した方が世の中のためになるのではないか? 少なくとも、それで一般人の安全は確保される」
心のどこかで、認めてしまったからだ。確かに、そうかもしれない、と。
「罪人を……殺して」
ふと、疲れたような口調で、天使は呟いた。
「そうして殺し尽くしていけば――いつか世界は平和になる、と?」
「違うと言い切れるか?」
自業自得。因果応報。大多数の者が運命に委ねるであろう裁きを、ディアンは己の手で齎そうとしている。
「私は――奴に反論できなかったよ。情けないことだがな」
世界の不条理。善悪の価値。平和の意味。
クレアたちと出会うまで、たいして気にも留めずに生きてきた。語れるような信念など、持ち合わせていない――故に。
「現実だ、と思った」
少なくとも、口先だけの平和主義者よりは、奴の方が高尚だと思える。
「…………仮に、今」
激怒するかと思われた天使は、しかし冷静に言葉を返してきた。
「 “犯罪者” と呼ばれる人々を全て殺したとして……それで、永遠の平和が約束されるのですか」
「それは――」
束の間の平穏は、享受されるだろう。だが――その先は? それで、犯罪を。争いの芽を根絶やしにしたことになるのか。
「彼らとて、望んでそうなった訳ではないでしょう」
生まれついての罪人など、いるはずがない。誰であれ、無垢な赤子であったはずだ……思い出せないほど遠い、昔には。
「奪わなければ。騙さなければ。他者を傷つけなければ、生き残れない場所が在る――世界がそうである限り、また新たな “犯罪者” が生まれ続ける。ならば、いつ終わるのですか。その人間同士の殺し合いは」
すっと長椅子から立ちあがり、遠く高い空を仰いで。クレアは辛辣に言い放った。
「永遠に “犯罪者” を。敵を探して、殺し続けますか?」
振り返った彼女の、澄んだ青い瞳と、まともに視線がぶつかる。
「……貧困に喘ぐ、他に生きる術を持たぬ人々に、そういう境遇に生まれたのだから、諦めて死ねと言いますか」
「…………」
ディアンだけでなく、天使に対してさえ。シーヴァスには、返す言葉が見つからない。それでも、たったひとつ――はっきりした答えが、胸の内に生まれた。
「私は……自分の価値観でしか、物事を考えることは出来ません」
守護天使。
大仰な役職名には不釣合いな、可憐さ。壊れ物のような美しさ。
「更生の余地があるかないか、というのも……どう判断すればいいのか分かりません。けれど……寿命でもないのに、誰かが死ぬのは嫌です」
だが、その心は揺らがない。目指す未来の、あるべき姿を描いている。
「ディアンさんのやり方は、嫌いです」
理想が “キレイゴト” に終わるのは、それが行動が伴わない代物であるときだ。だが、クレアはそうではない。
「死は簡単に訪れるけれど……生き返ることは、出来ない。命を絶ってしまったら……可能性すらなくなるじゃないですか」
「……そうだな」
ディアンの行動が “悪” だとは思わない。だが、あの男に手を貸そうとは思えない。
大義を掲げて短絡に走ること。無関係として傍観を決め込むこと。どちらもただ、現実に正面から向き合っていないだけだ。
「少し……解った気がするよ」
世界の不条理が、争いの根源。ならば――ディアンの手法では、結局なにも変えられない。インフォスが進む方向は、たとえ遠回りであろうとも、目の前の天使が思い描くものがいい。
辿りついた結論が、ここ三ヶ月、捌け口もなく抱え込んでいた靄を払拭していく。
「なにがです?」
険しい口調で、天使が問う。だが、先程とは違い、答えは決まっていた。
「君が、この世界の守護天使とされた理由が、だ」
導き手が彼女で、よかったと思う。
その理想の先にある未来が、現実になればいい。
“天使の勇者” とされた、自分たちは――少しは、その “力” になれるだろうか。
「……え?」
「自己管理がなっていないのは、問題だがな」
ただ当惑の色を浮かべているクレアに歩み寄り、横抱きにした身体は、少し腕に力を込めれば折れてしまいそうなほどに柔らかく、華奢だった。それでも――幻ではなく、確かに、ここにいる。インフォスの守護天使は。
「ちょ、ちょっと、シーヴァス!?」
クレアは数秒、硬直していたが、すぐにじたばたと抵抗を始めた。
「なんなんですか、降ろしてくださいっ!」
「暑さは苦手なのだろう? こんな炎天下に出歩いて、また倒れでもしたらどうするんだ。湯あたりだけで充分だろう」
屋敷へと続く道を引き返しながら、からかい混じりに先日の出来事を蒸し返すと、
「し、しません。もう! 子供じゃないんだから、自分で歩けます!」
彼女は絶句し、次いで耳まで赤くなりながら反駁してきた。久しぶりに味わう、穏やかな気分で、その瞳を正面から見つめる。
「止めるべき、なのだろう? ディアンたちを」
クレアは驚いたように息を呑み、目を瞬きながら、まじまじとこちらを見つめ返してきた。
「我々には世界は広すぎて、導いてくれる君がいなければ――迷うのだからな。きちんと静養して復帰してくれなければ、困る」
シーヴァスとしては、思ったままを述べたのだが。
「……迷子になったこと、あるんですか?」
彼女は、こちらが言葉に込めた意味合いとは、違う解釈をしたようだった。きょとんとして、小首をかしげている。まあ、わざわざ訂正するほどのことでもない。
「よく知る街ならともかく、なんの道標もない砂漠や雪原では、道を間違えるなという方が酷だろう?」
苦笑しながら答えると、
「そうですね……早く仕事に戻らなきゃ、ですね」
彼女はようやく表情を和らげ、頷いた。
クチバシをかしかしされるのが好きだったのは、かつて我が家で飼っていた、セキセインコのぴよちゃんです。ぴーぴーうるさいけど、可愛かったなぁ……。