◆ 天からの見舞い客(1)
「……シーヴァス?」
拍子抜けたような声に振り向くと、温室へと続く廊の欄干から身を乗り出すようにして、長期滞在中の天使が立っていた。淡いラベンダーのサマードレスが、よく似合っている。
「おはよう、クレア」
「あ、おはようございます」
居住まいを正して挨拶を返した彼女は、しげしげとこちらを見つめ、それから花壇の脇を通り抜けて歩み寄ってきた。
「ずいぶんと早いな……どうかしたか?」
時刻は、まだ早朝の五時を回ったところだ。真夏であるから、辺りはそれなりに明るいが、朝食当番の使用人がようやく起きだすくらいの時間である。
「え? いえ、今日もいいお天気のようなので、涼しいうちに、少しお庭を散歩しようかと思ったんですけど。シーヴァスは――」
クレアは興味深げに、勇者の手元を凝視しながら、
「真面目に、剣の練習ですか?」
心底意外そうに訊いてきた。その言われように、思わず笑ってしまう。
「フフ、今までどういう印象を持っていたのかは知らんが、これでも私は、騎士なのでね。稽古くらいは真面目にするさ」
ゆっくりと瞳を瞬くと、天使は感嘆口調で呟いた。
「レイヴやフィアナは、伺ったとき、修行されていることが多いんですけど。シーヴァスが、こんなふうに訓練しているのは、見たことありませんでしたから……剣技に秀でているのは、才能なんだと思っていました」
「それはまあ、ある程度は素質も必要かもしれんがな。天賦の才があったとて、磨かなければ宝の持ち腐れだろう」
修行は嫌いではない。むしろ、無心に剣を振るっているときの充足感や、ひと汗かいた後の爽快感は好きだ。なにより――相手が魔族であろうと、あんなふうに後れを取るのは二度と御免だった。
とはいえ、レイヴのように、暇さえあれば剣の稽古に明け暮れる趣味はない。物事の成果は、かける時間の長さよりも、その精度と集中力に左右されると考えている。日課として早朝、だいたい二時間ほど鍛錬をして、ひと風呂浴びてから朝食を摂る――というのが、屋敷にいるときの一日の流れだった。
これまでクレアが自分の元を訪れるのは、役所の職員のごとく、だいたい午前九時から夕方五時の間であったから、修行中に顔を合わせたことがないのは至極当然である。
片手を口元に当て、神妙な顔つきで、こくこくと頷いていた天使は、
「――あの! ここで見学していてもいいですか?」
突然、なにか思いついたように頬を紅潮させて、妙なことを言いだした。その瞳は純粋な期待に満ちて、きらきらと輝いている。
「別に構わんが……君には、退屈なだけだと思うぞ」
入隊したての従士ではあるまいし――国の競技会で行われる剣闘や、手錬同士の演習ならまだしも――女性には、自主鍛錬としての素振りなど、ただ眺めていておもしろいはずがない。
「そんなことないですよ。勉強するんですから」
「なにを、だ?」
「修行のコツ……とか、そういうものです」
返ってきた答えに、シーヴァスは呆れた。
「そんなもの、眺めていたところで解るわけがないだろう」
「仕方がないじゃないですか! 説明してもらっても、実際にやってみても上達しないんですからっ」
クレアは、ムキになって食い下がった。
「それは君に適性がないから、だな。前にも言っただろう?」
いつだったか剣術の指南役を頼まれ、軽く相手をしたことがあったが――正直言って、彼女の腕前は、町の少年の騎士ごっこと大差なかった。素質がどうこうという前に、相手に怪我をさせることを終始ためらっていたのでは、努力したとて上達するはずがない。性格というか、気質的に向いていないのだろう。
「人間、諦めも肝心だぞ。クレア」
笑いながらからかうと、彼女は幼い子供のようにむくれて、そっぽを向いた。
「む〜、シーヴァスまで、ティセと同じようなこと言って……」
ふてくされた天使の傍らで、真夏の太陽を映し咲いた大輪のヒマワリが、そよとの風に揺れた。
×××××
昼下がり、書庫にて。
天使と二人して読書に耽っていたところ、遠慮がちに扉がノックされた。
「あの、クレア様、いらっしゃいますか?」
「はい。なんでしょう?」
返事をするだけでいいというのに、クレアはまた律儀に、迎え入れに席を立った。
「あ、あのっ。読書を中断させてしまって、申し訳ありません。クレア様……」
顔を真っ赤にしながら、ぺこりと頭を下げたのは、新米メイドのタチアナであった。ぎこちない動きに合わせ、左右で結った栗毛がウサギの耳のように揺れる。
「気にしないでください。それに私のことは、クレアでいいですよ、タチアナさん」
ふわりと微笑んだ天使に、
「…………」
恍惚として立ち尽くしていたタチアナが、我に返るまでには、たっぷり十数秒かかった。
「そ、そんな。とんでもないです! シーヴァス様のお客様を、呼び捨てにするなんてっ。私こそ、タチアナでいいですから!」
浮かれ舞い上がった口調で、ぶんぶんと勢いよく首を振る。
天性の美貌には、二種類がある。同性の反感を買うタイプと、老若男女問わず魅了するものだ。
クレアは明らかに後者であり、その穏やかで思慮深い人柄も相俟って、屋敷の使用人は例外なく、彼女に好意を抱いたようだった。あの頭の固いジルベールでさえ、クレアには愛想よく、客人として遇している。
親しみやすいのをいいことに、しばしば若いメイドたちが、彼女を着せ替え人形のようにして盛り上がっているのは、困りものだが。
「……それで? 彼女に、なにか用なのか」
放っておけば日が暮れるまで、天使の容貌に見惚れていそうな様子である。シーヴァスは苦笑しながら、適当に口を挟んで先を促した。
「あ――は、はい。あの。お客様がいらっしゃっています」
タチアナは、ようやく平常心を取り戻したらしく、ひとつ深呼吸をしてから言った。
「私に、ですか?」
クレアを名指しで呼びに来たのだから、そう考えるのが自然ではあるが、
「ティセナなら、いつでも通していいと言ってあるだろう?」
「いえ、あの女の子じゃなくて……修道女風の、若い女性でした。ラヴィエル・アルネアと伝えてくれれば分かる、と言われましたが――」
「ラヴィエル?」
「……知り合いか? クレア」
反応からして、そんな感じだった。女勇者の誰かが、天使の所在を聞きつけて見舞いにでも来たのだろうか?
「ええ。友達です」
クレアは嬉しそうな、ごく自然な笑顔で、頷いた。
ちゃんばらごっこ。今時のお子様はやらないんでしょうねぇ。管理人の小学校時代は、女子でもやってましたね。戦いごっこ。