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◆ 春と幸福の再来


 いつものように数冊の本を抱え、書庫から戻る途中で。
「……あら? この部屋、ピアノがあるんですね」
 不意に、クレアが立ち止まった。

 普段は使われない小部屋の、扉が開いていたのだ。中を覗くと誰もおらず、窓が開け放たれている。メイドの誰かが、空気の入れ替えをしているか、これから掃除でもする予定なのだろう。

「お屋敷のどなたか、弾かれるんですか? だいぶ、古い物のように見えますけど――」
 天使は、部屋の中央に設えられている、グランドピアノが気になるようだった。
「いや、ただ飾ってあるだけだ」
 昔、本家の別荘地として建てられたこの屋敷には、用途不明の骨董品や、シーヴァスには活用できない代物も多くある。このピアノも、そのひとつだった。
「昔から、ずっと置きっぱなしになっている。もう調度品の一部だな、これは」
「なんだか、もったいないですね……」
 口元に手を当てて呟きながら、天使はシーヴァスを窺った。
「ちょっと、弾いてもいいですか?」
「君は、ピアノを嗜むのか? 医術に料理に――多才なことだな」
 了承の意も込めて、頷いてみせると、
「そんなに、本格的なものじゃありませんよ。ただ、好きなだけで」
 クレアは微笑して、小さく首を振った。
「でも、ずっと忙しくしていて……三年近く触っていなかったから、弾き方、忘れているかもしれませんね」
 抱えていた本をサイドテーブルに置くと、紅紫の覆い布を取り、慣れた手つきで蓋を開け、椅子に掛ける。音の響きを確かめるかのように、ポロンポロンと片手で鍵盤を弾いた彼女は、
「…………」
 すぐに、流れるような指使いで、柔らかな旋律を奏でだした。

 明るく、穏やかであり、それでいてどこか悲しげでもある――シーヴァスの知識としてある音楽用語の、どれにも合致しない、不思議な曲調だった。
 その場に立ち尽くして、しばらく聴き入っていると、
(…………?)
 余韻らしきものをなにも残さずに、曲が途切れた。クレアは鍵盤から手を下ろし、ぼうっとピアノを見つめている。音律からして、弾き終えたというより、途中で止まってしまったような違和感が残ったが――知らない曲であるから、よく分からない。

「……どこが忘れているかも、だ」

 シーヴァスは、彼女に歩み寄り、素直な賛辞を述べた。
「すごいな。私は、音楽にはあまり詳しくないが――たまに市街でコンサートを開いているピアニストより、上手いと思うぞ」
「そんなことはないですよ。ただ、毎日のように弾いていた曲だから……時間が経っても、指が覚えていたみたいです」
 天使は、かぶりを振って苦笑する。
「だけど、やっぱり――唱歌が、ピアノだけじゃ味気ないですね」
「歌詞があるのか?」
「ええ」
「どのような? なんという曲名だ?」
 毎日のように弾いていたというからには、天界の曲なのだろう。人間の身で、それを耳に出来たことは、勇者の役得と言えるかもしれない。
「渓谷の百合――別名を、春と幸福の再来」
 クレアは、凛とした口調で答えた。
「……祈りの詩です」
 言葉。それ自体が、誇るべきものであるかのように。

 だが、すぐに元の穏やかな表情に戻り、
「他の曲、覚えてるかな。トッカータか、なにか――」
 ピアノに向き直ると、また別の曲を弾きだした。それも、やはり天上の音楽と呼ぶに相応しい、華やかな旋律だった。
「…………」
 真横で突っ立っていたのでは、彼女の気が散るだろう。シーヴァスは、窓辺のソファに腰を下ろした。
 天使が奏でる音色と、時折、さわさわと吹き込んでくる微風。薄手のカーテン越しに、室内に差し込む黄金の光――心地の良いものに包まながら、ごく自然に目を閉じる。
 時が、ひどく……ゆっくりと流れているように感じられた。

×××××


 数曲を弾き終え、眼前のピアノの弾きやすさ、品質の良さに感心していたクレアは、
「あれ? これって……」
 脚輪の横に、木製のラックを見つけた。薄い冊子のようなものが収められている。
(ああ、もしかして――)
 取り出してみると、やはり楽譜だった。多少、天界のものと異なるが、どうにか音階は読み取れる。丁重に扱われていたらしく、綴りが解けたり破れたりはしていない。それでも、かなり黄ばんで、よれているようだ。
 調度品としてピアノを置くにしても、わざわざ楽譜まで用意するものだろうか? 不可解に思い、
「あの、シーヴァス」
 勇者に問おうと、後ろを向いてみると、
「……あ」
 静かに聴いてくれているのかと思えば――いつの間にやらシーヴァスは、窓辺のソファに横たわり、眠ってしまっていた。
「私……子守唄、弾いたかな……?」
 椅子を立ち、近づいていって顔を覗き込んでも、いっこうに目を覚ます気配がない。
(……シーヴァスが寝ているところって、見たの初めてかも)
 思わず、苦笑が漏れた。せっかく眠っているのだから、起こしては気の毒だ。
 クレアは、ピアノに戻り、そっと弱音ペダルを動かした。


 ――古い楽譜は、バラードを集めたものだった。
 どれも好みの曲調であり、耳慣れぬ旋律が新鮮だ。次々に頁をめくりながら、夢中になって弾いていると、


「……クレアさん?」
 唐突に、軽い驚きを含む声が掛けられた。
「ジルベールさん」
 いつの間にか扉の傍に、メイド頭の老婦人が立っていた。右手に箒、左手にバケツを持ち、普段は細い目を丸くしている。
「あっ、お掃除ですか? ごめんなさい、散らかしてしまって……」
「いえ、掃除は――後でも良うございますが――」
 ジルベールは、まじまじとクレアを眺め、次いで窓辺に目をやり、
「坊ちゃま……?」
 眉間にシワを寄せ、やや遠巻きにシーヴァスの様子を覗き込んだ。
「寝ちゃったみたいなんです」
 声をひそめ、
「疲れていたのか、聴いていて退屈だったのか……微妙なところですけど」
 小さく笑いながら、楽譜を閉じようとするクレアに向かって、
「これでは、掃除は出来ませんね。先に他の部屋を済ませますから、どうぞお続けになってくださいまし」
 ジルベールは、ふっと微笑した。
「え? でも――」
 話し声に目を覚ますでもなく、シーヴァスは、クッションを枕にして眠りこけている。
「もう……久しく使われていなかったものです」
 ジルベールは、どこか懐かしむような表情でピアノを見つめた。
「この屋敷には、音楽を嗜む者はおりませんから――ただ飾られているより、あなたに、こうして弾いてもらった方が、ピアノも嬉しいでしょう」
 そうして、少し意外なことを言う。
「私も、しばらく……ここで聴いていても、よろしゅうございますか?」
 仕事熱心で規律に厳しく、ローザと意気投合しそうな性格の老婦人である。あまり勤務時間中に手を休めたり、誰かと余暇を共に過ごす姿を見たことがなかっただけに、彼女の申し出は、意表を突かれるものだった。だが、断る理由がどこにあるだろう。
「ええ。私の、拙い演奏でよろしければ」
 クレアは、面映いような気持ちで頷いた。なにかと世話になってばかりいる相手だ。これで少しでも楽しんでもらえれば嬉しいし――なにより、誰かに聴いてもらいながら弾く方が、張り合いもある。
「……」
 睡眠中の “坊ちゃま” を憚るように、無言で微笑むと、ジルベールは箒とバケツを床に置き、部屋の隅にあった籐椅子に掛けた。

 老婦人を聴客に、天使の演奏会は、古い楽譜を一通り弾き終えてしまうまで続いた。




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シーヴァスって、どれだけ疲れていても、人前では眠りそうにない気がしまして(タンブール行きの旅の途中でも、野宿しているとき、最後まで起きていたんじゃなかろーか) つい転寝してしまうのは、無意識に、相手に気を許してきている証拠かな――という、それだけの話です。