◆ カタルシス(2)
ある時代の、とある街で。
名家の跡取りである男と、代々対立関係にある家の娘とが、互いの素性を知らぬまま恋に落ちた。
後日、相手が仇家の人間であることを知るが、逆境に置かれ、愛慕の情はいっそう激しく燃え上がる。
密会を重ね、想いを確かめ合うが、二人の関係が周りに認められるはずもなく――ならば神の前で愛を誓おうと、男と娘は、街外れの古びた教会で結婚式を挙げる。
神父は、二人の絆が、いつか両家の諍いをなくす切っ掛けとなることを願い、式を執り行う。
だが数日後、娘の従兄弟に喧嘩を売られた男は、誤って相手を殺してしまう。
人殺しとして追われる身となり、娘に近づくことも叶わず逃げ回る男を、不憫に思った神父は、ほとぼりが冷めるまではと遠方の村に逃がした。
その直後、恋人の身を案じる娘が、神父を訊ねてくる。
男は無事だが、ここで娘が姿を消せば怪しまれ、捜索の手が伸びるだろう。恵まれた生活を捨ててでも、恋人と添い遂げる覚悟があるのならばと、神父は娘に薬を渡した。人間を、一時的に仮死状態に陥れる秘薬である。
薬を飲み、自害したものとされ、葬儀が執り行われる。三日後、仮死状態から覚めた娘は、男の元に行き、二人で支え合いながら生きてゆく――神父は、計画を記した手紙を男に出した。しかし、それは行き違いで届かない。
男は、娘に会いたい一心から、村を抜け出して、故郷の街を訪れていたのだった。
そこで耳にした、愛しい恋人の訃報。
喪服に身を包んだ人々の、粛々と続く葬儀の列。
そして、深夜。墓地を訪れ、棺の中の娘、その冷たい身体に触れた男は、彼女が生きていることに気づかず、隠し持っていた毒を飲み、命を絶つ。
やがて目を覚まし、恋人の死を目の当たりにした娘は、男の手に残された毒を飲み、後を追って死ぬ――
舞台で繰り広げられるストーリーは、悲劇そのものだった。
常ならば、どうということなく観ている話なのだが、
(……しまった)
結末がほぼ確定したところで、遅ればせながら、今回に限っては連れてきた相手に問題があることを思い出す。
嫌な予感に、おそるおそる隣席の天使を窺うと――
「…………」
案の定、クレアはきつく両手を握りしめ、墓地に立ち尽くして嘆き悲しむ神父と、抱き合うようにして横たわる男女の死体(役者) を食い入るように見つめながら、今にも泣き出さんばかりに青褪めた顔で、かたかたと全身をわななかせていた。
×××××
終幕を待たず、早々にクレアを連れて席を立ったシーヴァスは、招待券の送り主である支配人に挨拶だけ済ませ、
(話の荒筋くらい、確かめておくべきだったな――)
己の軽率さを呪いながら、取り急ぎホールに戻った。
めくるめく虚構世界の余韻も醒めぬまま、ざわめきながら出口へと向かう人々の中、
「…………」
クレアは、さっき長椅子に座らせたときの体勢もそのままに、柱の陰で鬱々と沈み込んでいた。
「待たせたな。出ようか」
声をかけると、こくんと頷いて立ちあがるのだが、心ここに在らずといった様子でひどく危なっかしい。
「だいじょうぶか?」
軽く腕を引くと、彼女はようやく顔を上げた。しかし、
「……ごめんなさい」
こちらと目が合うなり、また申し訳なさそうに肩を落とし、うつむいてしまう。
「お芝居……どこがどう良いのか、わからなくて」
「謝ることなどない」
シーヴァスは片膝をつき、天使の頬に左手を添え、かぶりを振った。
「私こそ、すまなかったな。君には合わない物を、見せに連れてきてしまったようだ」
観劇は数年来の趣味であり、女性をエスコートして行く他に、ひとりでもよく訪れる。これまでは何の疑いもなく、老若男女を問わず楽しめる知的文化と捉えていた。どういう舞台であれ、誰ひとり、こんな反応をすることはなかった。
共感できる部分が多いため、つい忘れてしまいそうになるが、クレアは神の御遣い――その価値観は、必ずしも人間の常識の枠には嵌らない。他人事だろうが芝居だろうが、彼女にとっては “悲しい話” でしかないのだ。それを失念して、また嫌な思いをさせてしまった――つい先日、フェリスの一件で肝を冷やしたばかりであるというのに。
「そんなことないです! だって……」
クレアは、おろおろと首を振り、
「あれは、楽しむものなのでしょう? 他の観客だった人たち、みんな 『感動した』って……」
吹き抜けのホールを、がやがやと通り過ぎていく人々に目を向けた。やや遠いが、熱く語られている感想の詳細が、こちらにまで聞こえてくる。先刻、支配人も自慢げに話していたが、連日盛況であるらしい。
「……感激の仕方がわからない私が、おかしいだけです」
しゅんと気落ちしている彼女を、支配人と引き合わせずに済ませたのは、双方のためにも良かったのだろう。
「物事の捉え方は人それぞれだろう。君は、そのままでいればいい」
感情表現は素直な質だが、必要な場合には笑顔で繕える天使だ。その彼女が、こうまで塞ぎ込んでしまうあたり、よほど劇の展開が耐え難かったのだろう。
まあ、救いも何もない結末であったのは確かだが――
「それに、あれは作り話だ。実際にあったことではないから、そんなふうに気落ちする必要はないんだ」
「お芝居……なのは、わかるんですけど……」
わずかに首をかしげ、
「どうして、わざわざ悲しい話を作って、こんなに大勢で観るのですか?」
純粋な疑問を、藍青の瞳に湛えて、クレアは訊いた。
「…………」
とっさに答えられず、シーヴァスは、まじまじと彼女を見つめ返す。
(なぜ……と言われても……)
悲しみたいから? 嘆きたいからか? そんな奇特な人間はいないだろう。
観劇は一種の娯楽。人々が劇場を訪れるのは、息抜きに、楽しむためであるはずだ。
ならば、喜ぶため? 愉悦に浸るために?
なにを?
居もしない他人の、ありもしない不幸の物語を前に、安心して卑下できる対象を得て、嗤うのか?
そんな代物が、多くの人々を魅了するはずもない。芸術と呼ばれる舞台が、そんな負の想いを糧に成り立つはずがない――
「そうなりたくないから……かもな」
たぐり寄せた答えは、それでも天使には、理解しがたいものであるのかも、しれなかった。
「誰もが、幸せでいたいから――悲劇を見て、自分がそうでないことを確かめて、ああならずに済むようにと自戒するのかもしれない――」
脆く儚いものを、貴く。
壊れてしまったものをこそ、愛しく。
叶わぬ想いを、運命に引き裂かれてもなお貫こうとする恋を、人は “純愛” と呼ぶけれど。それは、第三者として見るからそう感じられるのであって、事態の当事者たちにとっては苦痛でしかない。
生き別れ、死に別れ。愛する者との別離を、襲い掛かる惨劇を、どこの誰が望むだろう?
直面したくないもの。けれど、ひどく美しく思えるもの。
その憧れを、芝居という毒のない “虚構世界” に託して――ほんの少し、心のどこかで、己が悲劇と無縁であることに安堵するのだろう。人間は。
「…………」
得心がいかない様子でいる天使に、
「次の機会があったら……今度は、幸せな結末を迎える話を観にいこう」
ふと思いついて、シーヴァスは微笑みかけた。
「……幸せな?」
クレアは、ぱちぱちと目を瞬き、意外そうに訊いてきた。
「そういうお芝居も、あるんですか?」
「ああ。嫌か?」
問い返すと、彼女は小さく首を振った。ここに来て初めて表情を明るくして。
「観てみたいです。おもしろそう……」
「そうか」
つられたように、シーヴァスは笑みを深くする。ただ聞けば、陳腐に思われるような物語も――この天使と観るなら、楽しいだろう。
小説でも映画でも、悲恋物は苦手ですね。結ばれない二人の話にしても、『ロミオとジュリエット』よりは 『タイタニック』 が好きです。せめて、どっちかがたくましく生き延びていってほしい……。