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◆ 父と娘と(1)


「やけに遅いですなぁ、シーヴァス様は……」
 市街地の一角。照りつける西陽を避けるため、木陰に止めた馬車のボックスシートで。
「すいませんね、クレアさん。お疲れでしょうに、待たせちまって」
 隣接した屋敷の方へと身をよじり頭をかきながら、御者のウエッジは、すまなさそうな顔をしている。
「そんな、気になさらないでください」
 後部座席に凭れていたクレアは、微笑んで返した。
「この木陰、涼しくて気持ちがいいから、ゆっくり休んでいられますもの」

 散歩がてら、市街を歩かないかと誘われて、ヘブロンの観光名所を半日かけて巡り。帰路について間もなく――バートランドという伯爵邸に、用があるのを思い出したというシーヴァスを、どうせ通り道ならば寄ってきた方がと促したのだが。
『30分ほどで済むと思う。すまんが、ちょっと待っていてくれ』
 言い残して馬車を降りていった勇者は、すでに一時間が経過したというのに戻ってこない。
 天使としての概念では、さほど長い時間を待っているわけではないのだけれど。ウェッジは、さっきから暇そうに欠伸を繰り返している。

「そうですねぇ。俺も半分は、待たされることが仕事のようなモンなんで、待機するのに楽な場所は、自然と覚えちまいますね」
 この御者は、一般的に “おじさん” と呼ばれる年代の男性だ。シーヴァスがいる間は寡黙だったのだが、こちらに気を遣っているのか、それとも自身が退屈なのか、
「まあ、最近はそうでもなくなりましたけど、昔のシーヴァス様ときたら、も〜毎晩、こっちが勘弁してくれって泣きたくなるくらい連日、夜遅くまで――」
 あれこれと世間話を続けていたのだが、何故かそこで急に黙り込み、
「…………」
 視線を泳がせたかと思うと、あははと笑い出した。
「あー……いや……知人への挨拶に、時間をかける、お人でしてね。ええ。予定が長引くことも、たまにあったかな……」
「お友達に久しぶりに会うと、やっぱり話が盛り上がりますものね。ある程度は仕方がないですよ、それは」
「は、ははは、そう! そうですな」
 真夏の陽射しのせいだろうか。いつの間にか汗だくになり、裏返った声で相槌を打つウェッジの挙動に、首をひねっていると、

「クレア!」

 耳慣れた声が聞こえた。用事が済んだのだろうと、クレアは屋敷の方に目をやる。
「あ、お帰りなさ――」
 だが、正門から飛び出してきたシーヴァスの顔は、異様に険しかった。
「すまん、ちょっと来てくれ!」
 何事かと驚くウェッジを黙殺して、呆気に取られるクレアの手首をつかみ、馬車の座席から引き降ろす。
「なっ、ど、どうしたんですか?」
 そのまま屋敷の方へ取って返した勇者に、引きずられるようにして走りながら、やっとのことでクレアは訊ねた。
「急患だ!」
 短く答えたシーヴァスは、迷うことなく館内の通路を突っ切っていき、開け放たれていた一室に駆け込んだ。

×××××


「お嬢様、お嬢様っ!?」
「ヒルデ――どうしたっていうんだ、しっかりしろ!!」

 天使を引き連れ、駆け戻った応接間は、ますます騒然となっていた。
 おろおろと、立ち尽くすばかりのメイドたち。
 くたりと床に倒れ伏しているのは、さっきまで、まだ平らな胸を掻き毟るようにして喘いでいた、バートランド家の一人娘だ。ひどく荒い呼吸。父親の呼びかけにも応えがなく、もはや意識があるのかどうかも判別できない。
「…………!?」
 緊迫した空気を前に、ろくな説明もなしに引きずられてきた、クレアの顔色がサッと青褪める。

「伯爵!」
「フォルクガング卿――」
 声を掛けると、館の主である壮年の男は、
「彼女かね? 医者の卵というのは」
 常の気難しさはどこへやら、縋るような勢いで振り向いた。シーヴァスは頷いて返し、傍らの天使に、手短に事情を伝える。
「つい十数分前までは元気そうだったのに、突然、ああして苦しみ出したんだ」
 シーヴァスが応接室に通されてすぐ、父親とともに挨拶に現れたときには、ごく普通の様子だった。とくに持病があるわけでもないというし、倒れる直前まで口にしていた茶菓子は、同じテーブルについていた自分たちも食べているのだから、それが原因とは考えにくい。
「主治医は、外出中だそうで――あわてて使用人が呼び戻しに行ったんだが、とても悠長に待っていられる状態には見えん。とにかく、診るだけ診てくれないか」
 ……と、こちらが頼み終えるより早く、
「すみませんッ、これ、お借りします!」
 クレアは、手前の書棚に置いてあった紙袋の中身をぶちまけた。
「は?」
 居合わせた全員が呆気に取られる中、床に散らばった書類の束を一瞥もせず、
「彼女、動けないように押さえていてくださいね」
 言いおいて、素早くヒルデの横に屈み込むと、苦しむ少女の顔をその紙袋で覆ってしまう。
「んなっ!?」
「な、なにをやっている、クレア!」
 呼吸困難で苦しんでいる人間の、息を塞いでどうするんだ。ギョッとしたシーヴァスたちが、声を荒げかけるが、
「静かにしてください。横で騒ぐと、よけいに患者が動揺します」
 物静かでありながら、有無を言わせぬ迫力に、それぞれの抗議はあっけなく封殺された。

「………………」

 シーヴァスは、あらためて思った。彼女は時々、怖い。
「…………」
 不服そうに、ぱくぱくと口を開閉しながらも、バートランド伯爵が天使の指示どおり、娘の身体を抱きとめている姿は、さらに意外だった。特権階級意識の塊ともいえる彼の言動は、目下の者に対しては特に威圧的なのだ。普段なら、二十歳そこらの女性に指図などされたら、それが正論だろうとなんだろうと怒鳴り散らしているだろう。
 だが、日頃は控えめなクレアが強気に出ただけあって、

「……」

 乱れていたヒルデの呼吸は、屋敷の者たちが固唾をのんで見守る中、どういう訳かだんだんと規則正しくなっていった。
「えー……と」
 ややあって、かぶせていた紙袋を外したクレアは、今はただ眠っているように見える少女の顔色や脈を診て、ふうっと肩の力を抜いた。
「とりあえず、落ち着かれたようなんですが……」
 険しかった天使の表情が和らぎ、それにつられるように、場の空気も緩む。
「この子、休ませておく必要がありますし。鎮静薬があれば、飲ませた方がいいんですけれど……主治医さん、まだですか?」
 訊ねられたバートランド伯爵は、我に返ったように扉の方へ目をやった。

「あ、いや……」

「あ。わ、わたし、表を見て来ます――」
 メイドのひとりが、外へと駆け出していき、伯爵はせかせかと頷いた。
「そ、そうか、頼むぞ。ああ、とにかくヒルデは、寝かせておかなければならんな。部屋に運ぼう」



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イトコの兄さんが、飲み会の最中に過呼吸で倒れて、救急車で病院に運ばれたことがあります。そのときに、この症状については知ったんですが……ストレスからも起きるんだとか。