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◆ 父と娘と(2)


 ようやく到着した主治医、並びにバートランド伯爵と連れ立って、天使とヒルデの様子を見に行こうとしていたシーヴァスは、部屋の手前で足を止めた。

「気分は、いかがですか?」
「……あなた……誰?」
「クレア・ユールティーズ。医学生で、シーヴァスの知人です」

 微かだが、扉越しに話し声が聞こえる――どうやら、ヒルデが目を覚ましたようだ。

「応接室で倒れてしまったのは、覚えています?」
「…………なんとなく……」
「主治医さんが来られるまで、付き添わせていただきますね」
「お医者さん呼んでも、たぶん……意味ないよ」
 普段のはきはきした態度とは、かけ離れた暗い声で、ぽつりぽつりと少女は言う。
「私、病気じゃないもの」
「そうですね。ヒルデさんは、身体がお悪いわけではないようですから」
 クレアは、柔らかく応じた。
「医者が役に立たない、と思われてるってことは。前にも何度か、同じように苦しくなったことがあって、それは決まって似たようなことを考えているときで――ただ、これまで人前であんなふうに倒れたことはなかったから、お父様やお屋敷の方たちは知らなかった」
 そこで少し言葉を切り、どこか秘密めかした調子で訊く。
「……違いますか?」
「なんで、そんなこと分かるの」
 指摘が、的を射ていたらしい。ヒルデは呆気にとられたように訊き返す。
「ずっと昔――知り合いが、そっくりな症状で倒れたことがあったから。もしかしたら、そうなのかなって思ったんです」

 どうにも入っていきにくい雰囲気だ。伯爵と主治医も、通路の角にへばりついて聞き耳をたてている。

「その人は、いま……どうしてるの?」
 いったん途切れ、再び聞こえ始めたヒルデの声からは、さっきまでの警戒するような素振りが抜けていた。
「すっかり発作は起きなくなって、元気にしていますよ」
「なんで、治ったの」
「ずーっと誰にも言わないで悩んでいたことを、自分も悪いけど相手も悪い、誰の所為でもないって割り切ったら、すっきりしたみたいです」
「…………」
「ヒルデさんは、なにが心配なんですか?」
 なぜそういう話になるのか、シーヴァスにはいまいち理解し難かったが、天使は、ヒルデにそう訊ねた。

「……失敗するの」
「情けないって、怒られるの……」
「お父様の期待どおり、完璧にしていないとダメなのに――」
「こんなふうに、お客様の前で倒れたりしたら……また怒鳴られる……」

 絞り出すように答えた少女は、そのまましゃくり上げながら泣きだした。
「バートランド伯爵は、ヒルデさんのこと心配していましたよ」
 告げる天使の声音は、穏やかではあるが淡々としていた。年下の病人を労わるというより、世間話でもしているような話し方だ。
「血相を変えて、どうなっているんだ、どうすればいいんだってうろたえていました」
「嘘!」
 噛みつくような勢いで、少女が否定する。
 シーヴァスと主治医が、そろーりと視線を向けると、父親である伯爵は、脳天を金槌で殴られたような顔で固まっていた。
「本当ですよ。メイドさんたちに訊いてみたら、もっと詳しく話してくださると思います」
「…………」
「お父様が、なんでも出来て当たり前みたいに仰るんですか?」
 ヒルデは無言だったが、おそらく肯いたのだろう。やや傲慢で癇癪持ちの伯爵が、娘にそんなふうに接していたとしても、なんら不思議はないとシーヴァスは思った。
「ずっと頑張るのは、疲れますよね」
「………………」
「だったら、そう言わないと。平気な顔をして、なんでもこなしてみせていたら――それが当然なんだって思い込まれてしまいますよ」
「だって。そんなこと言ったら、呆れられるもの……」
「勝手に呆れさせておけばいいんです。娘さんの悩みを、真面目に考えないような石頭のお父さんは」
 クレアの、いつになく手厳しい語調は、あきらかに伯爵を糾弾していた。

 扉を蹴り開けて怒鳴り込みやしないかと懸念して、再度そろーりと視線を向けると、他人に等しい女性から石頭と断言された男は、まるで往復ビンタを食らったような顔で固まっていた。

×××××


 応急処置が良かったのだろう。すっかり落ち着きを取り戻していたヒルデを、主治医に任せ、シーヴァスはバートランド邸を後にした。

「過呼吸というものらしいな? 彼女の病は」
 正門を出て、待たせっぱなしの馬車に向かいながら、傍らのクレアに問う。
「君がやったように、自分で吐いた空気を再び吸うようにさせて――それで発作が治まったのなら、まず間違いないと主治医が言っていた」
 別名、過換気症候群。世間一般に認識されている呼吸困難は、息が出来なくなるという症状だが……逆に、呼吸のし過ぎで身体に害をきたすこともあるらしい。そうなった場合、
「密閉性の強いもので鼻と口元を覆い、大気中の酸素を吸わせないことが、応急処置の基本だ、と」
「そうなんですか? こちらでは、ああするものなのですね」
 涼しげな肯定が返ってくるかと思いきや、天使はなにやら感心している。
「知らずにやったのか?」
「彼女の体内を循環する酸素量が、異常に高くなっていることは一目見て分かりましたけれど……私たちの場合、魔法を使った方が早いですから。あの場には、代用できそうな物が他に無くて」
 そこで急に立ち止まり、
「ああっ、書類! 散らかしたまま放って来てしまいました」
 まったくどうでもいいようなことを思い出したらしく、あわてて屋敷の方へ踵を返そうとする彼女を、
「いい、いい。あれは、あそこのメイドが片付けていたから」
 シーヴァスは、片手で押し留めた。これ以上待ちぼうけを食わせては、さすがのウェッジもへそを曲げるだろう。
「あの。伯爵さん……なにか仰っていました?」
 思案顔で、なにやら考え込んでいたクレアは、おずおずと訊ねてきた。
「偉い方なんですよね? 私、だいぶ失礼なこと言っちゃいましたから――そのことでシーヴァスに、迷惑がかからないといいんですけれど」
「いや、娘に極度の負担をかけていたことに、ようやく気づいて猛省しているようだったぞ。過呼吸がストレスから引き起こされるものなら、手遅れになる前に原因に気づけたことは、むしろ」

 言葉の途中でシーヴァスは、おや、と眉根を寄せた。

「まさか、君は……あそこで我々が立ち聞きしていたのを、判っていて」
 伯爵に聞かせるつもりで、あんな話を?
「シーヴァス。私が天使だってこと、忘れていません? あんな近くに、ひとの気配が幾つも固まっていれば、さすがに気づきますよ」
 苦笑しながら肯いて、
「面と向かって話せれば、それが一番なんでしょうけど――お父さんが聞いていると知ったら、まだ今のヒルデさんは、本音を口にすることは出来そうにありませんでしたから」
 肩越しにバートランド邸を仰いだクレアは、柔らかく目を細めた。
「人間の親子って、いいですね。どんなに仲が悪いようでも、無関心に見えても、ちゃんとお互いのこと気にかけてる」
「? 君たちにも、親はいるのだろう」
 それは質問というより、確認のつもりで訊いたのだが、
「いませんよ。天使は、光の塊から生まれますから」
 創造主という意味では、神が父ですけれど、と。想定外の答えを返されて、シーヴァスは瞠目した。
「そうなのか? それにしては……やけに悟ったようなことを言っていたな。ヒルデに」

 立ち振る舞いが自然で、ほとんど “種族の差” を感じさせないからか。
 もちろん天の理が、なにから何まで地上と共通するとは思わないが――まさか天使と自分たちの間に、そんな “違い” があるとは想像だにしていなかった。血の繋がりが存在しないなら、恋愛や結婚の習慣もなくて当たり前だろう。

「そうですか?」
 こちらの当惑には気づく様子もなく、クレアは微笑んだ。
「今日の騒ぎが切っ掛けで……もう少しお互いの気持ち、ちゃんと話せるようになったらいいですよね。ヒルデさんたち」
「ああ」
 半ば上の空で、シーヴァスは同意する。
 今の彼女は、どこからどう見ても人間の女性でしかないのにと思うと、ひどく不可思議な気分だった。



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管理人は、医療関係とは無縁の生活を送っているので、一応文献を調べてはいるものの、病気についての記述に矛盾などあるかもしれません。後で気づくようなことがあったら、こっそり訂正します(汗)