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◆ 7月21日(1)


「申し訳ありませんでした!」

 さっきから、いっこうに土下座を止めようとしない老女を前にして、クレアは弱り果てていた。
「ちょ、ちょっと、あの。ジルベールさん……」
 周囲に助けを求めようにも、今にも当主たる老人を追って走り出しそうな勢いで、かんかんに激怒しているジョセフ。
 それを必死に宥めているレジーナ。
 厩舎から駆けつけてきたウェッジは、経緯が理解できぬようで、ただおろおろするばかり。
 他のメイドたちは、うろたえて泣き出す始末で、まったく頼れそうもない。
 そうこうしているうちに、苦りきった顔で現れたグレンが、

「全員、仕事に戻れ! こんな大勢で騒ぎたてては、よけいクレアさんの怪我に障るだろう」

 珍しく厳しい口調で、ぴしゃりと言い渡し――収拾をつけてくれて、ようやく落ち着くことができた。
 客室にはグレンと、まだ浮かぬ表情のジルベールだけが残った。

「……本当に、よろしいんですかな? 医者を呼ばなくても」
 気遣わしげに、執事は訊いた。
「私なら、だいじょうぶです。一応、医者の卵なんですよ? このくらいの怪我、自分で処置できます。2、3日安静にしていれば治りますから」
 クレアは、微笑して肯く。

 包帯で固定した左腕は骨にひびが入っており、動かすと痛いが、じっとしていればさほどでもない。普通の人間なら、全治一ヶ月は免れないのだろうが――聖気が回復しつつある天使の身には、転んで足をすりむいた程度のことだ。
 むしろ、医療関係者を呼ばれては困る。ある程度のベテランにもなると、少し診ただけで怪我の原因を察せるから、へたな言い逃れは通じない。ただでさえ、この屋敷で世話になっているのに……フォルクガング家の現当主である老人に殴られたなどと、どうして言えようか?
 なにより実体化した天使は、あくまで四大元素を人間の姿に結集させているだけで、アストラル体の本質はそのままだ。診断で、どういう結果が出るか想像もつかない。

「それに、たぶん私が悪かったんですよ。なにか――分かりませんけど、おじい様には絶対に許せないようなことを、してしまったんだと思います」

 ……といっても、クレアはただ、小部屋でピアノを弾いていただけなのだが。
 シーヴァスの祖父だという人物は、とにかく純粋に怒っていた。つい一時間ほど前のことだ。


 うららかな、昼下がりの時間帯。
 突然、玄関の方向が騒がしくなって。ずかずかと入室してきた白髪の老人は、
『貴様――そこで、なにをしておる!?』
 ひたいに青筋をたて、開口一番に怒鳴り散らすと、いきなり持っていた杖を振り上げ殴りつけてきたのだ。
『出て行け……』
 左腕に激しい痛みを感じると同時に、掛けていた椅子から転げ落ちたクレアが、なにがどうなっているのかと考えを巡らせるより先に、
『今すぐ、この屋敷から出ていけっ!!』
 怒鳴り散らしたシーヴァスの祖父は、そのまま部屋を出て行ってしまった。
『だ、旦那様っ!』
 ジルベールの悲鳴のような声が、ばたばたと後から追いかけてきて。平身低頭する彼女に助け起こされるまで、ものの一分と経っていなかったはずだ。
 あっという間の出来事だった。

 初対面の相手に、あれだけ激昂していたのだ。なんらかの具体的な理由があるのだろう――とはいえ、それが何なのか知らないままでは、さすがに気分が晴れない。


 いつか機会があれば……本人に話を訊いて、きちんと謝りたいと思った。

×××××


 昨日に引き続き、客人の接待に追われていたシーヴァスは、

「――失礼します」

 夕刻になって、ようやく祖父が帰宅したと知らされ、呼びつけられた。
 重厚な造りの扉。日当たりも良く広いはずの室内が、冷たく圧迫感に満ちて映るのは昔から変わらない。変わったのは自分が、子供の頃のように、そんなことでいちいち怯えはしなくなったことくらいか。
「…………」
 アンティークの椅子に掛けていた祖父は、じろりとこちらを一瞥した。
 漂う、ピリピリとした沈黙――これは、そうとう機嫌が悪そうだ。まあ、かれこれ十五年間、この老人の笑顔など目にした例はないのだが。
「どこへ行っていらしたんですか? こんなときに」
 唯一の肉親でありながら、反目しあう孫と祖父。客観的に考えれば困った話である。しかし、長らく続いた平行線の関係が、いまさら是正されるとも思わない。
「政界の重鎮方が数名、待ちきれずに帰ってしまわれましたよ。世代が違いすぎる私が相手では、ご満足いただけなかったようでね」
 ひょいと肩をすくめてみせた、シーヴァスの態度に神経を逆撫でされたか、
「ああ、ふざけた噂の真偽の確認にな」
 祖父は渋面を紅潮させ、だんっと両手で机を殴りつけた。

「……いったい、どういうつもりだ、シーヴァス? 貴族の娘ならまだしも、どこの馬の骨とも知れん女を連れ込んで、屋敷の中を我がもの顔で歩き回らせるとは!」

 会場のそこかしこで囁かれていた噂が、帰宅した祖父の耳に入らぬはずがない。クレアの件について、小言が始まることは予想済みだった。
「だらけた生活を送るのもいい加減にしろ! 少しはフォルクガング家の、後継者としての自覚を持ったらどうだ!?」
 だが、祖父の口から飛び出した台詞は、想定外の代物だった。
 真偽の確認? 屋敷の中?
「……彼女に、会ったんですか?」
 半信半疑で問うと、ぴくりと白眉が動いた。気難しい性格をしている反面、隠し事などには向かないタイプでもある。答えを待つまでもなく、シーヴァスは確信した。

 大勢の客が訪れる最中、祖父が屋敷を空けた理由。

 ヨースト邸に赴いていたのだ――自分と入れ違いに。会った、という表現は、おそらく不適切なのだろう。天使に向かってろくでもない暴言を吐いたか、それとも、
『クレアが怪我をして、全員が出払っている』
 レイヴの言葉が脳裏によみがえる。
 まさか、とは思う。曲がりなりにも、レディファーストを重んじる貴族階級の人間が?
 ……とはいえ、癇癪を起こした祖父には一切の理屈が通用しないことも、シーヴァスは身を以って知っていた。


 かつて、成す術もなく目の前で焼き払われていったもの。


「……クレア・ユールティーズは教会関係者で、私の客人です。あの噂は、体調を崩したバートランド家の令嬢を、彼女が助けたという話に尾ひれがついているだけで、間違いもいいところですよ。ご心配なく」
 押し殺した口調で言い置いたシーヴァスは、そのまま踵を返した。
 ここに留まっていては、なにも判らない。祖父を問い質したところで、正確な返答が得られるとも考えにくい――戻らなければ。
 懸念が杞憂に終わるなら、それでいい。だが、クレアの負傷が事実だとしたら。

「どこへ行く気だ、シーヴァス!!」
「時期当主としての義務は果たしているのだ。私の行動を、いちいち貴方にとやかく言われる筋合いはない!」

 人間の姿をとって地上にいる天使に、手を貸してやれる者は限られているのだ。
 振り向きもせず怒鳴り返し、何事かと声を掛けてくる使用人たちをも無視して、シーヴァスは本家を飛び出していった。



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シーヴァスのお爺さん。ゲームでは、会話の中に出てくるだけでしたが、たぶん厳格で癇癪持ちなんだろうなぁ……というイメージがあります。