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◆ 7月21日(2)


 ヨースト邸のバルコニーで、クレアはぼんやりと夜空を眺めていた。
 今日は雲ひとつなくて、星も月もキレイだ。

 左腕に巻いた包帯を眺めながら、勇者の祖父だという老人のことを考える。
 あの烈火のごとき怒りは、いったい、どこから来たのだろう?
 気に障ることをしてしまったのだろうから、謝らなければならない――だが、訳が分からぬまま謝罪の言葉だけ口にするというのは、その場凌ぎで不誠実なことのようにも思える。

(……そういえば私、シーヴァスにお爺さんがいることすら知らなかったんだっけ)

 あまりにも家族の話を聞かないから、グリフィンのように天涯孤独の身なのかと勝手に想像していたが、違っていたようだ。
 なんにせよ出て行くよう言われたのだから、明日の朝にはここを去るべきだろう。戻ってきた勇者から腕の怪我について問い質されては、またジルベールたちに迷惑がかかる。治ってしまった後ならいくらでも弁解が可能だろうから、早い方がいい。

 それに正直、明日――いや、時計は夜中の12時を回っているから、正しくは今日だが―― “23歳の誕生日” を迎えるシーヴァスに、なんと言葉をかけて良いものかわからない。
 出会ってから、これで3度目。
 肉体は歳をとらず、その意識は、去年と同じことを繰り返していると気づかない。
 緩やかに流れる時間軸に生きるクレアには、初めのうち、それが特に不自然なことだという意識は薄かったが……突き詰めて考えると空恐ろしいことだ。
 そんな状態に陥った彼らを。世界をどうすることも出来ぬまま、こんな場所で身動きひとつ取れずにいる自分に、祝いの言葉を口にする資格があるとも思えない。

 この日ばかりは、シーヴァスが傍にいなくて幸いだったのだろう。

 おそらくジルベールたちは渋るだろうが、怪我のことは口止めして。ティセナに迎えに来てもらって、国に帰ると告げよう。
 聖気の回復に必要な時間は、あと30日前後。
 せっかくだから、それまでインフォスを巡ってみようか。歩いたり、馬車を乗り継いだり――いつも勇者たちがそうしているように。ここからカノーアや、デュミナスを通ってクヴァールへ。ナーサディアに会って、それから教会を訪ねるのだ。セアラの様子も気にかかる……あの子は元気にしているだろうか?
 しばらく会えずにいる人々のことを、つらつらと考えていると、

「クレア!!」

 ばたんと物凄い音が響いて、開け放たれた客室のドアから、
「シーヴァス……?」
 ヴォーラスに赴いたまま、まだ数日は帰らないはずであった勇者が、つかつかと険しい顔で歩み寄ってきた。なぜ彼がここに、と驚いて目を瞠る中、

「…………!」

 血相を変えたシーヴァスは、なにを問う隙も与えずクレアの腕を掴み上げた。

×××××


「きゃ……!?」

 苦痛を映した悲鳴。びくりと身を竦ませた天使の、表情。
 その原因が怪我よりも、むしろ自分なのだと一拍遅れて気づいたシーヴァスは、

「――す、すまん!!」

 慌てて、勢いのまま捻り上げていたクレアの腕を放した。骨折しているのか、それとも脱臼かは定かでないが、負傷した部分を乱暴に扱われては堪ったものではないだろう。
「もう……なんなんですか、いきなり? 驚かさないでください」
 深呼吸を三度くり返し、ほんの少し眉をひそめて、包帯に右手を添えながら。
「なんなんですか、って――」
 それでも、こちらが拍子抜けるほど。のんびりした態度でバルコニーに佇んでいる天使の姿は、ひどくシーヴァスの苛立ちを煽った。
「落ち着いている場合じゃないだろう! なんだ、その怪我は!?」
「これ、ですか? ……ちょっと、ぶつけちゃいました」
 顔色ひとつ変えず、あっさりと言う。
「こちらでの生活に少し慣れたからって、ぼーっとしてたらダメですね」
「ごまかすんじゃない、私の祖父がやったんだろう? 昼間、ここに来ていたことは分かっているんだ!」
 祖父の言動と、クレアの怪我。
 両者を照らし合わせれば、他の可能性など考えられない。有り得ない。とても正気の沙汰とは思えない。
「救いようのない偏屈者だとは思っていたが、まさか女性に手を上げるとは――」
「……シーヴァス」
 天使は、わずかに顔をしかめた。
「だいたい、ジルベールたちは何をやっていたんだ? あいつが来たのに気づかなかった訳が」
 名を呼ばれたことにすら気づかず、ぐしゃぐしゃと金髪を掻き毟りながら毒づいている勇者を、むっとした面持ちで見やると、

「シーヴァス!」

 咎めるように声を荒げ、おもむろに、相手の頬をぱちんと叩いた。
 撫でられた、と表現するには少々痛いが、平手打ちというほどの衝撃でもない。例えるのなら、そう――ちょうど母親が、聞き分けのない幼児に対してするような。
「…………」
 ぽかんと突っ立っているシーヴァスの、頬に手を添えたまま。クレアは怒っているような、呆れているような、なんとも言い表しがたい藍青の瞳を向けた。
「あのですね――大切なティーカップを置きっぱなしにしていたお母さんと、遊んでいたらぶつかって、それを割ってしまった子供って、どちらに非があると思います?」
「は?」
 困惑しながらも、とりあえず問われた事項について考えてみる。
「どっちもどっち……だろう?」
「ですよね」
 シーヴァスの返答に、彼女は肯いた。
「それと同じこと、なんですよ。きっと――おじい様が大切にしているものに、私が勝手に触ってしまって。だから、怒られて当たり前なんです」
「な」
「悪気があるなしの問題じゃなくて。誰だって、ひとつやふたつあるでしょう? どうしても他人に踏み込まれたくない場所や、思い出とか」
 考え込むかのように、ちょっと首をかしげ。また問いかけてくる。
「シーヴァスにはそういうの、ないですか?」
「いや、そうじゃなくて、その腕」
「3日で治りますよ、こんなの。そんなふうに騒がれる方が、居心地悪くて困るんですけど」
 こんな目に遭わされて怒らない方がどうかしている、と思うのだが。
 さっきまでの勢いは既に削がれていて、事を荒立てれば彼女が嫌がるであろうことも明白であって。
「…………」
 二の句が継げず黙り込んだ勇者を、しげしげと仰ぎ見て、
「ああ、でも――今日のうちに言うのは無理だろうなって思っていたから、お会い出来たのは良かったです」
 クレアはふわりと微笑んで、言った。

「誕生日、おめでとうございます。シーヴァス」

 そんな祝辞はパーティー会場で、何百回も贈られていたはずだった。
「…………」
 どうということのない、あきたりな台詞であるはずなのに。
「なんで、君は――」
 それをひどく新鮮に、面映いものとして感じるのは、そこに何ら他意が含まれていないと知っているからだろうか。
「?」
 不思議そうに見返してくる、この天使は確かに、ここにいて。
 儚げな外見と裏腹に、しなやかに強い。祖父にどうこうされるほど脆弱な “モノ” ではないのだ。

「……ありがとう」

 安堵と、感謝。それらをどう伝えたものか思いつかず、シーヴァスは、気の赴くままに天使の肩を抱き寄せる。


 真夏の月は、あざやかに。さらさらと光の粒子を降らせていた。



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誕生日編でなにを書きたかったかとゆーと、この、勇者が天使をぎゅーっとするとこ(恋愛感情の類は抜きで) だったりします。