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◆ ケーク・オ・シトロン


「んもう、ラヴィ! 果汁、飛ばさないでよっ」
「だああああ、このテの作業は性に合わないんだってば!」
 きゃんきゃん喚くラヴィエルの手元で、スクイーザーにかけられたレモンが、ぶしゅうううう、と憐れな音をたてて潰れていく。
「どうして手先は器用なのに、家事の類になるとだめなのー?」
 クレアの目線は、友人が身につけているエプロンに向いていた。元は純白だったであろうそれには、絵の具をぶちまけたような汚れが付着している。
「跳び箱4段で蹴つまずいてた、あんたに言われる筋合いはなぁい! 有機物が相手だと、勝手が違うのよっ」
「あの、クレア様? レモンの皮は、このくらい刻めばいいですか?」
「そろそろ焼きあがりそうですよ。仕上げに使うシロップは、これですかな?」
 騒ぐ天使たちの周りには、調理器具を手に作業に勤しむメイド数人に加え、普段この時間帯は、たいてい鼾をかいて昼寝している料理長のフレディまでいた。
「あ、はい。それじゃあ……」
 クレアが何事か指示を出し、彼女らが厨房を動き回るにつれ、柑橘系の香りがそこかしこに広がっていく。

「……なんの騒ぎだ? これは」

 入り口で棒立ちしたまま、思わず呟く。
 今日の執務がひと段落ついたところで、応接室の様子を伺いに行くと誰もおらず、庭園へ散歩にでも出たのかと思いきや、天使たちは、なぜかエプロン姿で厨房に立っていた。
「あ、シーヴァス」
 こちらに気づいたクレアが 「キッチン、お借りしています」 と、ぺこりと頭を下げた。
「それは構わんが――」
 厨房に足を踏み入れると、オーブンの前に位置取り、手帳になにやら走り書きしていたフレディが「おや、シーヴァス様。ちょうど良いところへ」 と、機嫌よさそうに笑みを深めた。
「なにをやっているんだ? 君たちは」
 てっきり、応接室でアフタヌーン・ティーでも飲みながら、談笑しているものとばかり思っていたのだが。
「ケーキ作りです」
 彼女は、至極あっさりと答えた。
「ケーキ?」
「はい。せっかくラヴィが来てくれたので、お土産代わりに。フィアナたちにも、届けてもらおうかと思って」
 話の脈絡としておかしな点はないのだが、それにしては用途の想像がつかない物体が、ラヴィエルの傍らに大量に積まれていた。
「……この大量のレモンは、紅茶にでも使うのか?」
 搾りカスと化したものと、今のところ原形をとどめているもの――少なく見積もっても五十個はあるだろう。作り方などは知らないが、ケーキならば通常、使う果物はイチゴか、オレンジか、そのあたりではないのか?
「そうですね。二つくらいは、輪切りにして紅茶に添えてもいいですね」
「それで……残りは?」
「生地に練り込んで、シロップにも混ぜています」
 あまり考えたくないが――まさか天界では、菓子は酸い物なのだろうか? 甘ったるいデザートは嫌いだが、さりとて酸味のキツイ菓子など、食べたがる者がいるとも思えないのだが。
「お口に合うか、わかりませんけれど。よかったら、これから、お茶にしませんか?」
「いや、私は――」
 とっさに言葉を濁すと、クレアは思い出したように頷いた。
「そういえば……フルーツを使った料理は、お嫌いでしたね」
「まあ、そうだな」
 フルーツは、そのまま食べてこそ美味い。火を通したものは好みではない。

 以前――確か、タンブールへ向かう旅の途中だったか。野宿した晩に彼女が食事を作ってくれることになり、その際に食べ物の嗜好に関して訊かれ、答えていたことである。ちなみにクレアは、キノコが苦手らしい。菌の塊だと思うと、どうしても食が進まないのだそうだ。
 しかし、この場合の問題は、フルーツがどうこうではなく味の想像がつかないことにある。だいたい、レモンをフルーツと呼べるのか? 少なくとも、デザートとして食べる代物ではないだろう。

「ただ、いい香りがしているからな。正直、気になる」
 そう。香りは良いのだ。ほのかに甘く、食欲をそそられる。ラヴィエルの手元にごろごろしている物体がなければ、まさかレモンが使われているとは思わなかっただろう。
「あ、それじゃあ、味見してみてもらえますか?」
 差し出された小さな紙の箱には、一口サイズに切られたケーキが詰まっていた。前方のテーブルにも、同じ箱がいくつか積まれている。
「試食用か? 準備がいいな」
「いえ、フレディさんたちには、そう説明してありますけど……本当は、ローザたちのぶんとして取り分けてあるんです」
 使用たちの目を憚るように、やや声を潜め、クレアは答えた。
「ああ、なるほど」
 フォークを受け取り、ひとつを口に放り込む。

「どう……ですか?」

 なにも言えずにいるシーヴァスの顔を、おずおずと覗き込みながら、彼女は心配そうに訊いてきた。
「…………美味い」
 それしか返す言葉が見つからなかったのは、ただ感嘆していたからなのだが、クレアは世辞と解釈したらしく、困ったように言う。
「あの、お口に合わないようでしたら、無理には――」
「いや、本当だ。しかし……酸味をほとんど感じないのは、どういうわけだ?」
 ほどよいレモンの風味と、舌に残らないすっきりした甘さ。柔らかな生地の外側は、白い水飴のようなものでコーティングされている。今まで口にしたことのない、上品な味だった。
 よくある菓子類の甘さは、ひとつ食べただけで胸焼けがするのだが、これならいくらでも入りそうに思える。
「? さっき、フレディさんたちにも驚かれたんですが……もしかして、レモンを使ったお菓子って、こちらでは一般的じゃないんですか?」
「とりあえず、私は初めて食べたな。レモンといえば、料理の臭みを消すために用いるものだとばかり思っていた」
 言いながら、ふたつ目を口に運ぶシーヴァスを見やり、
「お砂糖やミルクを一定の割合で混ぜると、酸味が中和されて、香りが引き立つんです。生クリームのケーキより保存が利くし、栄養価も高くなるんですよ」
 ようやくクレアは肩の力を抜き、微笑んだ。
「なるほどな……」
 旅の道中、ろくな道具もない不便な場所で、手の込んだ料理を作る彼女の腕に舌を巻いたものだったが、これまた絶品である。医者志望とは聞いていたが、パティシエとしても充分やっていけるのではないか?
 白衣の天使というのも、まあ悪くはないが、こうして眺めるには今の服装の方が――

「ところで……参考までに聞きたいんだが、そのエプロンは、どこから出たんだ?」

 ケルピーにずたずたにされた彼女の衣服は、もはや繕いようがなく焼却処分となり、ここに来てからクレアが身に纏っているドレスは、どれもジルベールが調達してきたものだ。しかし、前もってエプロンまで用意していたとは考えにくい。
 彼女が厨房を使いたいと言いだしたのは、せいぜい小一時間ほど前で、買いに行く暇などなかったはずなのだが。それにしては、天使たちが身につけているそれは、明らかにメイドたちが制服として着用するものとは異なっていた。

「これですか? お菓子作りをしたいと話したら、ジルベールさんが貸してくださいました」
「…………」
 フリルとレースで縁取られた、かなり少女趣味なピンクのエプロン。
 身につけている天使の姿に問題はないとして、いったいジルベールは、どこからどうしてこれを出してきたのだろう。

 かなり気になったが、さすがに、本人に訊ねてみるだけの度胸はなかった。



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私自身、甘ったるいものは好きでないので。ケーキはシトロンか、チーズケーキしか食べないですねぇ。フェバでは、男性陣はケーキ嫌い、逆に女性陣は揃って甘党とされていましたが、現実はそう単純な分け方は出来ないと思う……。