◆ 庭園迷路(2)
放り出されるような勢いで転倒したものの、覚悟したほどの痛みはなかった。どうやら、生い茂る草花がクッションになってくれたらしい。
(…………花?)
五感の認識に、ひと呼吸遅れて理屈が異を唱える――いくらなんでも、妙だ。
寄りかかった壁が崩れたのなら、自分は瓦礫に埋もれているはずだ。だが上半身を起こし、腕や足を確かめても掠り傷ひとつ負っていない。足元には壁の破片など落ちておらず、ただ花が咲き乱れているだけだ。
「…………?」
混乱する頭を抱えたまま、周囲を見渡す。
深い緑と、パステルカラーが織り成す天然の絨毯。花から花へ、ひらひらと舞う白い蝶。空間の中央に枝葉を茂らせた灌木が、視界の一部を遮っているが、前後左右すべて煉瓦造りの壁になっているようだ。それは天井に向かうにつれ、緩やかな弧を描いている――シーヴァスは、大きな釣鐘状の空洞の片隅に、座り込んでいるのだった。
薄暗くはあるが――小窓でもあるのだろうか、頭上の壁のあちこちから夕陽が落ちているため、それだけのことは把握できた。よくよく観察すると、光源はすぐ傍らにも存在した。壁の隙間から差し込む微光は、きれいな長方形をかたどっている。
「……回転扉……か?」
憶測は的中した。その部分を、やや強く押すと軋みもせずに開く。
いったん外に出てみると、そこは間違いなく我が家の庭園だった。物音に顔を上げたフリートは、ひひん、と得意げに嘶くと、また食事に戻った。
「…………」
要するに、これまで煉瓦が積み上げられているものとばかり思っていた、時計塔の内部は隠し部屋になっており、さっき寄りかかった壁が、たまたまその扉だったわけだ。
「こんなものがあったとはな……」
ぼんやりとした橙色の空気が漂う、塔の内部に再び足を踏み入れ、改めて周辺を観察する。さっき、確かにクレアの声が聞こえた。
(と、すると――)
推測は、やはり的中した。灌木の斜向かいに、かなり年季の入った木製の長椅子があり、行方不明かと案じられた天使は、そこに横たわり詩集を片手にすやすやと眠っていた。
「……おい、クレア」
メイドたちが、見つけられなかったわけだ。この屋敷で暮らすようになったのは、学院を卒業してからのことで、まだ五年も過ぎていないが――時計塔がこんな構造になっていたとは、古株の使用人たちも把握していないのではないか?
「クレア」
呼びかけただけでは目覚める様子がない。軽く肩を揺さぶると、彼女は目を擦りながら身を起こした。
「んー……おはよう……ございます……?」
「ああ」
「じゃ、おやすみなさい……」
ほとんど寝言のような口調で言い、もぞもぞと再び横になろうとする。
「こら、寝るな! 眠るなら客室に戻ってからにしてくれ」
「う〜……もう、朝ですかぁ?」
「今は夕方で、夜はこれからだ」
「夕方ですか……それじゃ、晩御飯作らなきゃですね。なんでしたっけ、今日のメニュー……」
「夕飯の用意なら出来ている、だから呼びに来たんだ。レジーナたちが、心配して探していたぞ」
「出来てる……」
クレアは、気だるげに首をかしげた。
「食事当番のシフト、いつの間に変わったんですか? 先輩……」
どうも彼女は、寝起きが悪い質らしい。明らかに寝ぼけている。ふらついていた目線がシーヴァスの上に定まるまで、六十は数えられるであろう間が空いた。
「目が覚めたか?」
「……え? ああ! インフォスにいたんでした……」
重ねて呼びかけると、ようやくまともな反応が返ってきた。途端に、どっと疲労感が押し寄せてくる。
「いたんでした、じゃない。なにをやっているんだ、こんなところで」
「ええ。本を読んでいたんですけれど――風が涼しくて、だんだん眠くなってきてしまって」
こちらの気苦労など知らぬ天使は、にこやかに答えた。
「この場所は……」
閉ざされた空間のように見えるが、確かにそこかしこから、さわさわと心地よい風が吹き込んできている。塔の構造によるものだろうか?
「おもしろい建物ですよね。お散歩していたら、中から生き物の気配がするので、どうしてなのかなって調べてみたら、壁にしか見えないところが扉になっていて――」
「君が造ったわけじゃ、ないんだな」
思いつきを口にすると、
「部屋作りの魔法なんてありませんし、人様の家で勝手にそんなことしませんよ」
きょとんと目を瞬いた天使は、続いて小さく吹きだした。そのまま、くすくすと笑っている。
「それもそうか……」
「って、知らなかったんですか? シーヴァス。ここのこと――自分の家なのに?」
彼女は笑い止むと、訝しげに首をかしげた。
「ああ。時計塔が、こんなふうになっていると聞いたことはなかった。この館が建てられたのは、もう百年以上前のことだからな……おそらく、屋敷の者は誰も知らんのだろう」
「じゃあ、きっとシーヴァスのご先祖様の秘密基地だったんですね」
「…………」
天使の発想に、シーヴァスは二の句が告げなかった。わんぱく盛りの子供ではあるまいし――というか、
「……天界の住人でも、幼い頃はそんなものを作って遊ぶものなのか?」
「そうですね、何度か作りましたよ。ラヴィと一緒に」
「…………」
知らなければ判らないような造りにしてあるあたり、クレアの見解は、あながち間違いではないのかもしれないが――この海辺の地を、フォルクガング家の別荘と定めたのは、確か高祖父にあたる人物だったか。肖像画でしか知らぬ故人も、やはり執務を放り出して、ここで昼寝でもしていたのだろうか?
「秘密基地、か――そうだな」
喧騒から遮断された、日常と隣り合わせの隠し部屋。風通しが良く、雨露も凌げる。ジルベールの小言から逃れてくつろぐには、ちょうど良さそうだ。
「ならば、この場所のことは、他の者には伏せておかねばならないな」
笑いながら言うと、
「う〜ん、そうですね。みんなが知っていたら、秘密基地じゃなくなってしまいますものね」
クレアは、神妙な顔で頷いた。
その “秘密基地作り” が、彼女たちどちらの発案だったのかは知らないが、おそらくラヴィエルが飽きるか口を滑らせて、放棄されたんだろうなと漠然と思った。
秘密基地。空き地にダンボール持って行ったりしましたねー。雨が降れば、即おしゃかでしたけどね。