◆ 悪友、来たりて(1)
七月も中旬に差しかかろうかという、ある日の午後。
辞典と図鑑を数冊を抱え、書庫から客室に戻ろうと歩いていたクレアは、
「おわ?」
「きゃあっ!」
通路を曲がろうとしたところで、思いきり、人にぶつかってしまった。
それほど痛くはなかったが、反動で取り落とした書物がひどく重い音をたて、床に散乱してしまう。
「ごめんなさい、だいじょうぶですか!? (あああ、借り物の本が〜!)」
「いや、こっちこそ悪かっ――」
相手は、見知らぬ青年だった。シーヴァスの普段の服装を、赤基調にしたような風貌だ。誰だろう?
「…………」
青年は、言葉の途中で黙り込むと、まじまじとこちらを見つめてきた。怒りだすのかと思いきや、
「……失礼。お怪我はありませんでしたか? お嬢さん」
微笑を浮かべて手を差し伸べると、へたり込んでいたクレアを立たせ、やたら至近距離に顔を近づけて言う。
「は、はい。あなたこそ、怪我は」
「なんともありませんよ。こちらこそ、申し訳ありませんでした――僕の不注意で、こんなことに」
「いえ、そんな」
「しかし……貴女のような華奢な女性が、こんな重いものを持ち運ぶべきではありません。部屋まで、お持ちしましょう」
「は? あ、あの、ひとりで持てますから。それに、お客様にそんなことしていただくわけには……!」
「ははは、遠慮深い方だなぁ。いいんですよ、これは僕が好きでやっているんですから」
止めようとするクレアの言葉を、軽く受け流し、さっさと本を拾い集めてしまう。口調と物腰は柔らかいものの、やたら強引な印象を受けた。
「僕は、エディーク・アシュフォード。この館の主人の友人です。以後、お見知りおきを――よろしければ、貴女のお名前を教えていただけますか?」
「えっ? ええ、クレア・ユールティーズと申します……」
「クレア――良い名だ。美しい貴女に、相応しい響きですね」
赤毛の青年は、謳い上げるような調子で言う。どこかで聞いたような台詞だなぁと、ぼんやり思った。
さて、どこで聞いたのだったか?
「こうして出会えたのも、なにかの縁でしょう。ぜひ、もっと貴女のことを知りたいと思うのですが――これから、時間はありますか?」
なんなのだ、この圧迫感は。
会話の流れが速すぎる。とてもじゃないが、ついていけない。
「えー……っと……。きゃ!?」
返答に窮していると、突然、後ろから肩を掴まれた。ぐいと引っ張られ、間髪容れずドカッと鈍い音がして、
「のわっ!!」
青年が、逆方向に吹き飛んでいった。なにがなんだか解らないまま、そろそろと背後を仰ぐと、
「シ、シーヴァス……?」
ひたいに青筋たてた勇者様が、戦闘中よりもピリピリした空気を漂わせて立っていた。
「…………」
不機嫌そのものの目つきで、クレアを一瞥すると、おもむろに肩を掴んでいた手を放した。そうして、つかつかと倒れている青年に近づいていき、
「な、に、を、やっとるか! 貴様は! 断りもなく、人の家に上がりこんで!」
一息ごとに、どかどかと相手の脇腹を蹴り飛ばした。
「だああ、痛い痛い痛い! 少しは手加減しろ、このヤロー! だいたい、どっから湧いて出たんだ!?」
たまらず跳ね起きた青年が、シーヴァスの向こう脛を蹴り返す。
「やかましい、それはこっちの台詞だ! 今すぐ病院送りにしてやるから、しばらく禁欲生活を送ってこい!」
二人は通路の真ん中で、互いに罵り合いながら、掴み合いのケンカを始めてしまった。
「…………」
事の展開についていけず、しばらく呆然と立ち尽くしていたクレアは、
「ちょ、ちょっと、シーヴァス! なんてことするんですか、お客様なんでしょう? この方――」
「知るか! 呼んだ覚えは、欠片もない!」
なんとか我に返り、仲裁を試みるも、シーヴァスの反応はにべもない。それどころか逆に怒られてしまった。
「だいたい、なにを、されるがままになっていたんだ、君は! 取って食われたいのか!?」
「と、取って食う!?」
本来、アストラル体である自分が、食べられるのかどうかは、ともかくとして――
「ま、ま、まさか、食人鬼……なんですか? この人……」
「は?」
「文献で、読んだことありますよ。人肉を食べるんですよね……私には、人間の男性にしか見えませんけど、どこか違うんですか?」
魔族と同じで、人間に化けられるのだろうか? だから、問答無用で蹴り飛ばして助けてくれた?
「…………」
二人の青年は、点目になった。
「違う、違う。そうじゃない。こいつは、れっきとした人間で、王立学院時代の同期生だ」
やがてシーヴァスが、疲れたように片手を振った。
「…………」
王立学院。レイヴも通っていたという、インフォスの教育機関の名称だ。その、同期生。
「じゃあ、やっぱりお客様じゃないですかっ!」
「あ、おい!?」
喧嘩両成敗とはいうが、先に手を出したのはシーヴァスだ。ここは客人の手当てを優先すべきだろう。クレアは、赤毛の青年に駆け寄った。
「ごめんなさい、すぐに手当てしますね。私、医学生ですから、応急処置くらいなら……」
青痣などになっていないか確かめようと、手を伸ばすと、
「医学生? それは、また――白衣の天使とは、まさに貴女のことですね」
彼は、クレアの手首を掴んでしまい、
「こうして傍にいてくださるのなら、他にはなにも要りませんよ」
「…………は?」
また意味不明なことを言う。どこか打ち所が悪かったのか――ちゃんとした、この世界の医者に診てもらったほうがいいだろうか?
「……やはり痛い目を見んと、わからんようだな」
考え込んでいると、地を這うような声が背後から聞こえて。今度は青年のみぞおちに、止める間もなくシーヴァスの蹴りが炸裂した。
×××××
料理が不味い。紅茶が不味い。空気も不味い。
しかし、これはフレディの腕が落ちたわけではなく、チェルシーが葉と湯の配分を間違えたわけでもなく、ましてや天気の所為でもない。
(……どうしてこうなるんだ?)
庭園のパーゴラに設えられたラウンドテーブルに頬杖をつき、客二人から顔を背けているシーヴァスは、ひたすら不機嫌であった。
天使お手製のレモンケーキをぱくつきながら、
「いや、美味いよ、これ! クレアさん、パティシエでもやってけるって、絶対」
手放しで褒めちぎる悪友と、
「そうですか? ありがとうございます」
クレアは、すっかり打ち解けた様子でいる。彼女の人当たりの良さは知っていたが、
「……食べ終わったら帰れよ」
よりにもよって、なぜこの組み合わせで団欒せねばならないのか。まったくもって、おもしろくない。
「もう! せっかくお友達が遊びに来てくださったのに、どうしてそんなふうに言うんですか?」
不快感を隠さずにいるシーヴァスを、天使は困ったように窘めた。
なにがおもしろくないって、さっきから彼女が、やたらエディークの肩ばかり持つことである。おそらく『お客様だから』 と気を遣っているのだろう。こいつ相手に限っては、そんな遠慮は不要だというのに。
「呼んだ覚えはない」
「あー、いいのいいの、毎度のことだし。こいつ捻くれ屋だからさ」
片手をひらつかせながら言い放たれて、
「…………」
シーヴァスの眉間のシワが、またひとつ増えた。
シーヴァスとエディーク、勝手に暴走。クレアは完全にボケ役ですね、今回は。