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◆ 海を臨む街で


 フォルクガング邸に滞在して、ちょうど二週間目の朝。
『ずっと屋敷の中にこもりきりでは、退屈だろう? 怪我そのものは回復したなら、せっかくの長期休暇だ。空からではなく、この世界を見てみないか?』
 勇者に誘われ、徒歩で二十分ほどの海辺に足を伸ばすことになった。
 ――とはいえ、これまで散々、世界各地を駆けずり回ってきた身である。特になにか目新しいものがあると期待したわけではなく、単なる気分転換、兼リハビリのつもりでいたのだが、
(…………きれい……)
 地に足をつけて眺める大自然は、刻々と色を変えながら、まったく違う美しさを見せてくれる。やはり、地上界は奥深い。
(そういえば、いつも急いで通り過ぎるだけで……ゆっくり景色を眺めたことって、少なかったな)

 物思いに耽りながら歩いていると、不意にガクンと足元がおぼつかなくなった。驚いて下を見ると、舗装された遊歩道が途切れ、淡黄色の砂地に切り替わっていた。前にも、同じような場所を歩いた覚えがある。
「ここの地面……砂漠に似てますね?」
 しゃがみ込んで手のひらに掬うと、さらさらと砂がこぼれ、小さな貝殻がひとつ転がり落ちた。
「砂丘だからな」
 応じたシーヴァスは、さすがに普段の正装では、暑苦しいからだろう。開襟シャツに青灰色のスラックスという、くつろいだ服装で佇んでいる。
「砂漠じゃないんですか?」
「海に行くと言っただろう」
 確かに、うだるような熱気は立ち込めておらず、時折ひんやりとした風が吹き抜けていく。砂漠とは異なるようにも思えるが、
「砂漠も海も、天界にはないから。境目が、よく分からないです……」
「ないのか?」
 勇者は、意外そうな顔をした。
「はい。リメール海も、ずっと大きな湖かと思っていたんですけど。塩水だから、区別して海って呼ばれているんですよね?」
「そうだな」
「どうして、こんなにたくさん塩水があるんですか? こちらでも、雨は淡水なのでしょう?」
「ああ、君の故郷ではどうか知らんが――インフォスの魚は塩を噴くんだ。頭から」
「噴くって……噴水みたいにですか?」
「ああ、どさどさとな。それで塩水が大量生産されたわけだ」
 クレアは、ほうっと感心した。
「すごい特殊能力ですね! それじゃあ、こちらでは岩塩を探さなくても、いくらでも塩が採れるんですね」
 生物は、環境に合わせて進化すると聞くが、魚にも変わった種類がいたものだ。
「あの、魚が塩を噴くところ、ここからでも――」
 見えますか? と聞きかけたところでようやく、傍らの勇者が顔を背け、笑いを堪えていることに気づいた。
「あの。今の話って……?」
 嫌な予感がして、疑いの眼差しを向けると、シーヴァスはあっさりと白状した。
「すまん、さっきのは与太話だ」
「もう!」

 またやられた。
 こうして騙されるたびに、もう二度と引っかかるものかと決意するのだが――こちらが警戒を忘れた頃に、ごく自然な会話の流れに合わせて、涼しい顔で尤もらしい作り話をするのだ。この勇者は。

「そんなに、私の非常識ぶりがおかしいんですか!? 間違えたまま覚えて帰って、人に話して呆れられたら、シーヴァスのせいですからねッ」
 クレアは、熱くなった頬を押さえつつ抗議した。しかし勇者は、悪びれもせずに言う。
「だから毎回、きちんと本当のことも話しているだろう?」
「そういう問題じゃ、ありません!」
 むしろ天使の憤慨ぶりが、おかしいのかもしれない。睨まれるなり破顔したシーヴァスは、身を折るようにして、ひとしきり笑い転げてから、
「しかし、そうか――天界にも、岩塩はあるんだな」
 やっとのことで姿勢を正した。
 笑いすぎで息が切れたのだろう、語尾が痙攣している。
(私は、怒っているんだから。しばらく話しかけられても無視してやるんだから!)
 ……などと自分に言い聞かせていたクレアだが、子供じみた思考は、習慣に勝てるほど強くなく、
「え? ええ」
 つい反射的に返事をしてしまう。
「海底――まあ、海の周辺の土地もだが、それが岩塩を多く含んでいてな。長い年月のうちに水に溶け出して、このような地形が出来上がったというわけだ」
 シーヴァスは、さざめく海面に目を向けた。
「だから、例外的に塩分を含む湖も存在するが、淡水である限り “海” とは呼ばれない――地質学者の文献に書いてあっただけで、私自身が確かめたわけではないが」

 なるほど。
 だが、素直に感心するのは癪だ。とはいえ、ずっとカリカリしていても疲れるし、せっかく海に来たというのに楽しめない。それもこれも目の前の、悪ふざけが過ぎる勇者様が原因なのだが、いつまでも目くじら立てていては大人気ないというものだ。

 怒っていても疲れるだけだという理性と、からかわれたままでは悔しいという感情が、ない交ぜになり、
「……ちょっと、歩きにくいです。ここ」
 シーヴァスの講釈については言及せず、そっぽを向いたまま、クレアは、靴の爪先で砂浜をつついた。
「ゆっくり歩けばいいさ。もともと散策に来たのだからな」
 こちらが拗ねているのは丸分かりのようで、シーヴァスは笑みを深くした。
「そうですね」
 結局折れて、笑い返したクレアに、勇者はふと思い出したように言った。
「ああ――しかし、さっきの話も、なにから何まで嘘というわけではないんだ。頭から潮を噴く魚は、実在する」
「え?」
「正確には哺乳類で、 『しお』 というのも、この場合はただの海水を意味するんだが――クジラという生物でな。外見は巨大な黒光りする魚で、飲み込んだ海水を頭から噴き出すんだ。それこそ、噴水のように豪快に」
「…………」
 クレアは、その動物を想像してみた。しかし、まな板に乗るような魚しか思い浮かばない。
「巨大って、どのくらい大きいんですか?」
「個体差もあるが……成長しきったものであれば、軽く私の屋敷を飲み込めるだろう」
 またデタラメ。誇張表現。充分に怪しまれる話だというのに、疑心は脆くも好奇に吹っ飛ばされたようである。
「そ、それ、その生物、どこにいるんですか!?」
 目を輝かせて尋ねるクレアに、
「いや――なにしろ巨大だからな。浅瀬にはいない」
 懲りない天使だ、という可笑しみを、ほんのわずか語調に滲ませて、シーヴァスは答えた。
「もっと、沖の方を泳いでいるものだ。船で長旅をしていると、たまに見られる。君たちが移動中に、リメール海を注視していれば、見つかるかもしれんな」


×××××


 波打ちぎわの様子が視認できる辺りまで、なだらかな砂丘を降りていくと、
「……海って、いつでもこんなに賑やかなんですか?」
 天使が、驚嘆したように訊いてきた。
「季節にもよるな。今は真夏で海水浴の時期だから、こんなふうに人でごった返しているが――」
 立ち並ぶ露天に、砂浜を行き交う男女と、ばしゃばしゃと泳ぎながら大騒ぎしている子供たち。例年見られる光景だが、今日は晴天であるため、なおのこと人出が多いようだ。
「冬は寒いだけだから閑散としている。狙い目は、春や秋だな。涼しいし、くつろげる」
 実際、シーヴァスが海辺を訪れるのは、波の音を聴きながらぼんやりしていたいときが大半であって、今回も、適当に人込みを抜けて、知る者が少ない穴場の浜へ向かうつもりだった。

「そういえば……あれも、季節外れの海だったな」
「なにがですか?」
「君と出会って、ガーゴイルと一戦交えたときだ」
 魔族の瘴気を追い、傷だらけの天使を見つけたときには、一瞬、己の正気を疑ったものだったが。今は、活気あふれる真夏の浜辺で、人間と変わらぬ姿の天使と二人、こうしてのんびりと歩いている――縁というのは、奇妙なものだ。
「そうでしたか? 周り、岩ばっかりだったような気がしますけど――」
「海に岩場はつきものだぞ。上を見てみろ」
 海岸線に沿うようにして聳える、切り立った崖を示してみせると、クレアは目を丸くした。
「あ。ホントですね……」
「戦ったのは、向こうの岬寄りの浜だがな」
 あの辺りは本当に岩場だらけで、草木もほとんど生えておらず、地元の民すら滅多に寄りつかない。とっさに周囲を見渡して、戦闘による被害が少なくて済む場所と考えたのであれば、天使の判断力もなかなかのものだ。

「……情けなかったですよ、あのとき」
 懐かしむような目をしていたクレアは、やがて、ぽつりと呟いた。
「な、情けない?」
 それはガーゴイルに手も足も出なかった自分のことかと、早合点して、
(まあ……思い返してみても、確かにそうだが……)
 勝手にショックを受けていると、
「これから地上界を守るんだ〜って、勢い込んで降りていったら魔族の群れに追い詰められて、しかも初対面のシーヴァスに助けられて――シェリーは泣いちゃうし、ローザは怒るし、ティセには呆れられるし」
 天使は、おどけた仕草で肩をすくめた。
「それを言ったら、私はどうなるんだ。ケルピーの罠に嵌り、君にまで怪我をさせて――当分ティセナに頭が上がらん」
 頭をかきながら、苦笑したシーヴァスに向かって、
「お互い様、ということになるかな?」
「ふふっ、そうですね」
 クレアは、くるりと舞い返ると、照れたように笑った。




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ヨーストって、地図上の位置からして、港町かなぁとも思ったんですが。貴族の邸宅があるんだから、海辺のリゾート地なのかな、やっぱり。