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◆ 相反する魔法


 タンブールの教会まで移動するのも、転移魔法にかかれば一瞬のことだった。

「すみません。夜中に突然」
「それは、構わないけど……」
 こぢんまりした客室のベッドに、ぼーっと座っていたクレア様は、いきなり押しかけてきた私たちを前にして心配そうに顔を曇らせた。
「どうしたの、なにかあったの? その怪我」
 ティセナ様の右手に巻かれた包帯。それから、本来ならカノーアにいるはずの勇者様。
「……ナーサディア?」
 彼女に、いつもの悠然とした雰囲気は欠片も無くて。
 名前を呼ばれて、おそるおそる――縋るように、クレア様を見上げる。

 それは、ずっと誰にも語られず記憶の底に閉じ込められていた。
 宙ぶらりんに放り出されたまま、未だ結末を迎えていない、長くて数奇な恋物語の始まりだった。



『私はね、勇者だったの。あなたたちに出会うずっと前から』

 急には信じられないような、話だった。
『インフォスが、堕天使に狙われて。天界から遣わされたラスエルたちに、出会って……妖精や、神獣も一緒に。今みたいに……魔族やモンスターと戦いながら、世界中を巡ったわ』
 だけど彼女は、前守護天使の補佐をしていた、妖精シータスを知っていた。
 ベテル宮の資料庫に残されている、当時の勇者たちの名前。うち一人は、任務の最中に戦死したことまで。
『真面目で、お人好しで、優秀なくせに間が抜けてて』
 いつの間にか、そんなラスエル様のことを愛するようになっていて。
 彼も、気持ちに応えてくれた。
『戦いの意味や、いつか訪れる平和、ラスエルの言葉も……すべてを固く信じていたわ』

 交わした、約束を。
 この戦いが終わったら、自分も人間として共に生きていくと、誓ってくれたのに。

 堕天使がインフォスから逃げ去って、勇者の任務も終わりを迎えたあと。彼は、なにも言わずにいなくなった――最初から、約束なんて無かったみたいに。
 取り残されたナーサディア様が、ぜんぶ夢だったんだと思い込んで、お酒に逃げなきゃやっていられなくなってしまうくらいに。


「……兄様は」

 呆然と聞いていたクレア様は、やがて掠れた声でつぶやいた。
「インフォスを堕天使から解放したあと……一度は、天界に戻って来てたわ。でも、すぐに姿を消したの」
 必死に、記憶を辿っているようだった。
「愛する人がいる。破滅させるわけにはいかない世界がある。だから、僕はインフォスに残る。天界には、もう二度と戻らないって、言い残して」
「じゃあ、ラスエル様は、ナーサディア様のために地上に降りたってことじゃないんですか?」
 他に行く場所なんて考えられないし、と私が口を挟むと、
「そんな訳ないわ! 世界中を探し回ったのに、どこにもいないのよ!?」
「インフォスには、いないと思うわ――当時の捜索隊でも発見できなかったんだし、兄様の気配があれば、今までなにも感じないはずないもの」

 二人がかりで反論されてしまった。
 でも、それならラスエル様はどこに行ったんだろう?

「……ちょっと、待って?」
 うつむいて考え込んでいたクレア様が、また、きゅっと眉を寄せる。
「兄様がインフォスの守護をしていたのは、ここの時流で百年以上前のことよ。ナーサディア、まだ25歳でしょ? 生まれてもいないじゃない――」
「私が生まれたのも、前世紀のことよ」
 ほとんど泣き笑いのような表情で、勇者様は答えた。

「彼女の “時” は停まっています。この世界の異変とは、無関係に」
 ずっと黙っていたティセナ様が、言葉を添えて。
「“老いの呪い” と “若返りの祝福” ……それぞれ別の術者がかけた魔法がせめぎ合って、肉体の老化を留めている」
 私たちは、ここに来る前に聞かされていたけど。ホントに寝耳に水だったろう、クレア様は食い入るように目を瞠ったままだ。
「片方からは、瘴気。もう一方から感じる聖気は、クレア様のものによく似ています」
 物静かな中にもピリピリした雰囲気を漂わせて、ティセナ様は、自分の右手に視線を落とした。
「深く探ろうとしたら、弾かれました」

 カノーアの酒場で、ナーサディア様の過去を聞いたあと。
 私たちを連れて、人目に触れない場所に移動した彼女は、とにかく “老いない身体” について調べようとした。
 勇者のひたいに手を当てて、黙祷するような――それがいきなり、熱した油に水を落としたみたいに、二人の間にバチバチッと火花が散って。
 ティセナ様の右手には、赤黒い火傷のような痕が残ってしまった。
『自然治癒しかないんだよ、こういう類のものには』
 びっくりして、あわてて治療しようとしたけど、本当に私の魔法じゃ効かなくて。
『……だいじょうぶ、痛くないから』
 困ったみたいに笑いながら、頭を撫でてくれたけど。
 痛くないはず、ないのに。

「何十年も過ぎて、私を知っている人もいなくなって……自分でも、あの日々が夢だったのか現実だったのか、よく分からなくなって」
 ナーサディア様は、途切れ途切れに。
「時々、彼に似てるなって感じることはあったけど、まさか、あなたがラスエルの妹だなんて……天界では十年前の出来事に過ぎないなんて、思わなくて……でも」
 溜め込んでいた不安を吐き出すように、話し続けている。
「幻を――見たのよ、この間。ボルサの森で」
 それは天使でもなんでもない、不気味に霞んだ黒い影にしか思えなかったけれど。
「私の名前を知っていて……ラスエルの声に、聞こえたわ」
「あっ、そのとき私も一緒にいました!」
「……シェリーにも、見えたのね?」
 クレア様に念を押されて、私はこくこくと肯いた。ただの幻じゃなかったんだ、きっと。

「すべての魔法は、術者が生きていなければ効果を保てないわ。ナーサディアに “若返りの祝福” をかけたのが、兄様だとしたら――」
「ええ。彼女たちに接触してきた影が、ラスエル様と直接の関わりがあるのかどうかは、今の時点では判りませんが……彼が、生きていることは確かです」
 ティセナ様は、断言した。

「…………生きて、る……?」

 ナーサディア様が、半信半疑といった感じで繰り返す。
 それは嬉しいことのはずなのに、彼女たちの表情は少しも晴れることが無かった。




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ナーサディアの物語も中盤、でしょうか。しかし彼女の目に、自分と同じように時が停まった世界はどんなふうに映っていたんだろう……? 普通に考えたら、異変に気づくような。