◆ 戯れな、愛の
最も 『恋愛』 に詳しそうな知人は、シーヴァスだった。だから、彼を訪ねて行った。
深夜にも関わらず押しかけた理由は、気が焦っていたという側面もあるが、以前 『時間は気にするな』 と言ってくれていたから。けれど、
「…………」
こんこんと窓を叩くこちらに気づき、応対に出た勇者は、怒りこそしなかったものの渋い顔を向けてきた。
(来てもいい、って言ったのに……)
上がらせてもらうか、それともこのまま帰ろうか。
ためらうクレアを、苦笑しつつ室内に招き入れたシーヴァスは、どうやら寝酒の最中であったらしい――中央のテーブルに、葡萄色のボトルと飲みかけのグラスが並んでいた。
「なにか用があるから、こんな時間に来たのだろう? 突っ立っていないで、座ったらどうだ」
「……ごめんなさい、すぐにお暇しますから」
勧めを断ったはいいが、どう話を切り出したものか。
たっぷり10分近くが過ぎてもまだ、うつむき黙りこくって、所在なさげに両手を組んでは解いているだけの天使に、業を煮やしたらしい。
「ワインでも飲まないか?」
尋ねたシーヴァスは、戸棚からグラスを取り出そうとしたが、
「いえ、私は――」
思考の渦から抜け出せずにいるクレアは、目線を落としたまま首を振った。当然、すぐ傍にいる青年が、不愉快そうに眉をしかめたことにも気づかない。
「……君に、聞きたいことがあるのだが」
「なんでしょう?」
再び話しかけられて、ようやく顔を上げたときには、
「もし私が、君に興味があると言ったら――どう思う?」
椅子に掛けなおしたシーヴァスは、微笑とも睥睨ともつかぬ圧迫感を伴う眼で、じっとこちらを見つめていた。
「どういう意味です? 興味って……」
「女性として興味がある、という意味だが」
「じょ、女性として?」
そこに在る感情を計ることも出来ず、ただ当惑するばかりのクレアに、ワイングラスを傾けた勇者はたたみかけるように問う。
「どうなんだ?」
「え? わ、私は天使ですし、どう思うと言われても――」
困るという以前に分からない、と言葉を濁すと、わずかに青年の表情が翳った。
「天使は人間の男に、なにも感じないのか?」
「か、感じるって。その」
「好きだとか、傍に居たいとか、そういう恋愛感情みたいなものを」
そんなこと、こっちが訊きたい。
天使でも感じるんだろうか? 兄はナーサディアに、感じたんだろうか?
「……私のことが嫌いか?」
「そ、そんなことないです! シーヴァスのことは、好きですよ。一緒にいるの、楽しいですし――この世界に来てから、たくさん助けていただいて感謝してもいます」
そう、勇者たちのことは好きだ。
きっかけは任務であっても、せっかく傍にいるのだから親しくなりたい、相手のことを知りたいと思う気持ちを 『興味がある』 といえば、そうなのだろう。好き、傍に居たい、それは愛情からだって生まれる気持ち。けれど、
「なら、答えて欲しい。私を、男として意識できるのか」
「そ、それは、答えないといけないんですか……?」
なぜ、そこに男女という概念が付随してくるのか。
愛情と、恋愛の違いは、なに?
いや、わざわざこんな深夜に勇者の元を訪ねたのは、恋愛とはどういうもので、兄がなにを考えてどこへ姿を消したのか、参考意見を聞きたかったのだから――目的と一致した話題ということになるのかもしれないが。
「人間の男……いや、少なくとも私は、天使の君に感じるからな」
感じるって、なにを? 恋愛感情?
ほぼ飽和状態の頭で、クレアは必死に考えた。
シーヴァスが男性だということくらい知っている。往々にして、女性より腕力が強く背が高い――それはアストラル生命体にとっては、属性や適性と変わらぬ固体特徴のひとつに過ぎない。
(意識した……ことは……無い、わよね? でも)
だったら。天界にそんなものは存在しない、意識できないと答えてしまったら。ラスエルと、ナーサディアの関係はどうなるのだ?
唇を噛み、延々と考え込んでいる間に。わずかにカタンと音をたて、勇者は椅子から立ち上がっていた。
「私は、君のことが好きだ。クレア」
「え?」
ゆっくりと歩み寄ってきたシーヴァスに、耳元で囁かれ、クレアはとうとう意識ごと固まった。
「唐突に感じるかもしれないが、正直な気持ちだ……」
なななな、なに?
唐突とかいう問題じゃなくて、なんなのいったい!?
漠然とした恐怖。
理屈抜きに逃げ出したい衝動に駆られ、二、三歩後ずさった先はもう窓辺の壁である。飛んで逃げれば良いのだと、回転の鈍った頭で考えついたものの、肝心な飛び方が脳内から吹っ飛んでいた。
「君に、触れてもいいか……?」
肩を掴まれ。もう片方の手で、くいっと顎を上に向かされる。
焦点が合わないほどの、至近距離。真正面に立っているシーヴァスの、金の双眸から、腕から――視線を逸らすことも逃れることも出来ずに、クレアは瞳を瞠ったまま、身じろぎひとつ出来ずに硬直していた。
「……ふ」
その緊張を壊すかように、自分のものではない、くぐもった吐息が漏れて。
塞がれていた視界が、不意に戻った。
左肩に押しつけられる重みと、さらりと首筋をくすぐる絹糸のような感触――それが、さっきまで眼前に迫っていた青年のひたいと、前髪なのだと理解したときには、
「ふ、はは、あはは……はははははっ!!」
シーヴァスは、捕らえていた天使を解放。そのまま腹を抱えて笑い出していた。
さっぱり訳が分からず、瞳を白黒させているクレアに向かって、ひらひらと片手を振ってみせる。
「あー、すまんすまん。笑ってはいかんな――」
すまんと言いつつ、ひとしきり笑い転げておいてから、ようやく呼吸を整えて姿勢を正す。
「いやな、ただ君を誘ったら、どんな顔をするのか知りたかっただけなんだが」
ナニ、ソレ。
沸騰していた身体中の血が、さーっと凍って、また溶けて、妙な形に固まったような錯覚がした。
「高貴な天使様のこと、てっきり冷たくあしらうものとばかり思っていたんだが……こうも世間知らずな少女のような反応とはな。いや、傑作だ」
「じゃあ、さっきのは……?」
ようやく声が出せた。そういえば、さっきから息をするのも忘れていた気がする。
「すまん、冗談だ」
酸欠の元凶たる勇者様は、声音だけは平常を取り繕いつつ、笑みを噛み殺したような顔をしていた。
「じょ……う……だん」
鸚鵡返しにつぶやいて、ふらりと背後の壁に寄りかかる。
全身の力が抜けていくようだった。支えるものが無かったら、その場にへたり込んでいたかもしれない。
「そんな、からかうなんて」
抗議しつつ、クレアは、内心ほっとしていた。
この青年の悪ふざけは、なにも今に始まったことじゃない。インフォスに降りてからというもの、何度、良いようにからかわれたことか。
特に今夜は、お酒も飲んでいたようだし……傍目には酔っているように見えないが、酔っているのだろう、きっと。
必死で自分に言い聞かせ、納得しようとしている天使に、
「つくづく君は、隙だらけだな。これも訓練のひとつと思った方がいい――他の勇者や、街で出くわした男が迫ってきたら、どうするんだ?」
シーヴァスはまた、からかい口調でそんなことを言う。
(グリフィンもレイヴも、あなたみたいな悪ふざけはしません!!)
怒鳴りつけてやりたくなったが、これ以上、酔っ払いの言動に振り回されるのもどうだろう。
「……怒ったのか?」
黙り込んだクレアを見つめ、勇者は、バツが悪そうに頭を掻いた。
「そうだな――最後のあたりは、少し悪ノリし過ぎたかもしれん。君を傷つけたのなら、謝る」
すまなかったな、と彼は言った。
いつものことですし、もういいです。
冷静に返そうと口を開きかけたところで、混濁していたクレアの思考は、ある一点で停まった。
“そういうこと” を、冗談で言うの。 言えるの?
……兄様、も?
「お詫びにキスでもすべきかな? 天使様」
また上機嫌な態度で、シーヴァスは、こちらを覗きこむようにして訊いてきた。
わかっている、また冗談なのは分かっていた……けれど。
――ぱあん!!
思いっきり、小気味良いほど乾いた音が、広い室内に響き渡った。
平手を食らい、顔を真横に向かされた勇者は、驚くというより呆気に取られたように立ち尽くしている。
「好きだなんて……思ってないなら、そんなこと言わないでください!」
相手を睨みつけ、金切り声で憤りをぶつけて。
どこからどうやってベテル宮に戻ったのかは、よく覚えていない。
初プレイ時、度肝を抜かれました。このイベント。しかしあの、スチルの綺麗さは反則レベルだと思います。ただひとつ、難点を挙げればBGMがうるさかった……。