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◆ 晴れ渡る空の下(1)


 二日酔いの重症患者を、ひょっこり顔を出した妖精シェリーに “これ幸い” と押しつけたシーヴァスが、付き添いに残りたがる天使を説き伏せ、カノーアの地を発てたのは、すっかり陽も高くなってからのことであった。
(…………最悪だ……)
 ナーサディアに呑まされた大量の酒は未だ抜けきらず、ゆらゆらと揺れる客室、うだるような暑さ、胃のムカつきが、寝不足の身体に追い打ちをかける。夕食は喉を通りそうにない。乗船時に案内を受けた船上パーティーなど、論外だ。

 一方、クレア。
 最初のうちこそ気遣わしげに傍についていてくれたものの、深酒が原因の体調不良では、
『ちゃんと、寝ていてくださいね』
 それが一番健康的な治療法である。船内散策もしたいので、とバカ正直に申告して出掛けてしまった。
 何度か外の空気を吸いに出たついでに様子を窺ってみたところ、乗客の子供と一緒になって遊んだり、甲板で船員と談笑していたりと、すっかり豪華客船の旅を満喫しているようだ。
 もちろん彼女が楽しく過ごせるに越したことはないのだ、が――暇だ。昼間から独りベッドに転がっている我が身を、わびしく思わずにはいられなかった。

「シーヴァス」

 頭痛と吐き気に苛まれながらも、横になっていれば眠りは訪れるもので。
 ぽんぽんと肩を叩かれて目を覚ますと、壁時計の針は、すでに夕刻にさしかかろうとしていた。
「おはようございます。体調はいかがですか?」
「ああ、だいぶマシだな……」
「そろそろ、タンブールに着くみたいですよ。降りる準備、しておいた方がいいですよね」
 痛むこめかみを押さえつつ、
「……着いた?」
 上半身を起こしたシーヴァスは、天使の発言に首をひねった。
「まさか、いくらなんでも早すぎるだろう」
 自分が寝惚けているのでなければ、船に乗り込んだのは、つい数時間前のことだったはずだ。
「目的地は、タンブールでしょう? 半日もしないで移動できますよ」
「そんな芸当が出来るのは、君たちだけだ」
 あまりの認識違いに、シーヴァスは脱力した。翼があるうえ、ティセナの転移魔法に慣れていたのでは、彼女らが人間の距離感覚を持ち合わせている筈もないのだが。
「風向きに恵まれて、最短経路を辿っても1ヶ月はかかる距離なんだぞ? ソルダムから旅をしたとき、どれだけ遠かったかは覚えているだろう」
「でも、船は徒歩より早いんでしょう?」
 具体例を出されてもピンと来ないようで、クレアは、客室の小窓を指しながら言う。
「あれ、陸地ですよね。カノーアからクヴァール大陸へ向かうとき、島はなかったと思いますけれど……」
 確かに、陸と見紛えるような島はなかったはずだ。
 しかし窓辺に近づき目を凝らすと、水平線の先に黒く平たい塊が広がっている。
「……操舵手が進路を間違えたか?」
 今日は快晴で、風向きに左右されるとは考えにくいのだが。
 他の乗客たちも “それ” に気づいているようで、甲板にひしめき合い騒いでいる。シーヴァスは天使を伴い、甲板に出た。
 通り抜ける潮風が肺を洗い、酒気を拭い去ってゆく。
 ざわめく人々の話し声には、戸惑いと歓喜が混在しているようだ。すれ違った母子の会話から、答えを示す単語を拾い上げ、シーヴァスは『なるほど』 と得心した。

「クレア。あれは島じゃない、クジラだ」
 思わず、苦笑がもれた。
 かなりの大きさで、滅多に出くわすものではないから、陸地と勘違いした者は他にもいるだろう――じっと眺めていれば、判別できる。間違いなく波や船とは無関係に動いている。
「クジラ……って、前に教えていただいた?」
「そうだ」
「あの、ずーっと丸くて黒くなってるのが、魚なんですか? 塩水を噴くんですか?」
 船縁で、島もといクジラを指しながら、身を乗り出す天使。
 興奮気味に頬を紅潮させている、その幼さは、クジラだクジラだとそこいらを駆けずり回っている乗客の子供たちと大差なかった。
「正確には哺乳類だがな」
 クレアは、はーっと感嘆の息をつくと、
「せっかくですから、もっと近いところで見てきますね!」
 嬉しそうに言い置いて、柵をよじ登ろうとする。ああ、と頷きかけたシーヴァスは、
「って、こら待て!」
 船縁を越えた先が、大海原のど真ん中であることを思い出し、あわてて天使を抱え降ろした。
「近くって、どこまで行く気だ、君は?」
「ですから、クジラを見に」
 早くしないと逃げられると言わんばかりに、じたばた腕の中でもがく彼女を、甲板の隅まで引きずっていき、耳打ちする。
「そこから柵を乗り越えで、どうやって、向こうまで渡るつもりだ。泳ぐのか」
「え?」
「翔べないんだろう、今は」
 そうでなくとも、こんな公衆の面前で。重ねて言うと、
「あ……忘れてました」
 間の抜けた答えが、いたって真面目に返ってきた。

 ただでさえ目を惹く容貌のクレアが、5歳児のような振る舞いをしていれば当然だろう。クジラに注目していたはずの人々の何割かが、こちらを眺めながらくすくす笑っている。唯一の救いは、そこに悪感情が含まれていないことだろうか。

 旅の恥は掻き捨て、と割り切ってしまうには、これから続くであろう航路は長すぎだ。

 新たな頭痛の種に、心底げんなりするシーヴァス。
 そんな勇者を導いてくれるはずの天使様は、観衆の期待に応えるかのように潮を噴き始めたクジラを見て、またぞろ「噴水みたいですよ!」 と呑気にはしゃいでいた。

×××××


 船の旅は、どうしても陸路に比べると退屈なものだ。
 風景は青一色で変化に乏しく、べたつく潮風に、いくらシェフが工夫を凝らしても魚と塩漬けの野菜ばかりになりがちな食事――しかも天候次第では、足止めを食らうどころか溺れ死ぬ可能性さえある。
 だが、破天荒な連れがいては暇だと感じる暇すらなく、リメール海を渡ったシーヴァスは、タンブール郊外の教会に到着していた。

「ごめんくださーい」

 クレアは嬉しそうに建物を仰ぎ、こんこんと扉を叩いた。
「はいはーい、どちら様ぁ?」
 応じる声と近づいてくる足音が聞こえたものの、とっさに誰のものか判らず、
「こんにちは、お久しぶりです」
「あら、いらっしゃい! クレアさ……」
 シーヴァスが首をひねっている間に、がちゃりとドアノブが回り、エプロン姿の女性が顔を出した。
 そのまま互いに、動きを止めて絶句すること十数秒。
「ぎゃーっ、出たぁ!」
 不躾に人を指差し、あからさまに顔をしかめたのは、
「ジェシカ!?」
 フィアナ・エクリーヤ同様この教会で育ち、今は、市街の喫茶店に住み込みで働いている――いわば “孤児院の卒業生” だった。
「ダメよ、クレアさん!」
「ひゃうっ?」
 シーヴァスを押しのけ、目を丸くしている天使を捕まえ、滔々と説教を始める。
「このナンパ男のことだから、親切ぶって道案内するとかなんとか声かけたんだろうけど、近寄っちゃダメ! シスターの知り合いでなきゃ立ち入り禁止にしてやりたいくらいの、天然女誑しなんだからッ」
「は、はぁ……」
「人聞きの悪いことを言うな!」
 うろたえるクレアを板挟みにして、不毛な睨み合いを続けていたところに、
「え、クレアお姉ちゃん?」
「あーっ、騎士の兄ちゃんだ」
 騒ぎを聞きつけた子供たちがわらわらと集まってきたため、それ以上の舌戦に発展することは無かったが。



「そうか、シスターエレンは出掛けているのか――連絡も入れずに訪ねて来てしまったからな」

 なんでも、この教会で引き取ることが決まったナナという少女が、重い病にかかっており、病状によっては先に入院させる必要があるため、現在の保護者の元へ話を聞きに行っているらしい。

「うん、フィアナ姉ちゃんと一緒にね。私たちはお留守番!」
 全員が集まったサンルームで、ぱたぱたと紅茶のカップを手渡して回りながら、エミィが答えた。彼女を手伝い、焼き菓子を皿に小分けしているセアラは、すっかり血色も良くなり元気そうである。
「ま、気にしないで泊まっていってよ。部屋なら余ってるんだから。二人とも、明日の夕方には戻る予定だしね」
 シスターから留守を頼まれたのだというジェシカは、愛想よくクレアに笑いかけ、
「ありがとうございます」
「それにしても、びっくりしたわよ〜、よりによってシーヴァスと一緒に現れるんだもの! こいつ、修道女だろうと構わず誑かしかねない男だからさ」
 仕事上の知り合いじゃ選り好みするわけにもいかないだろうけど、くれぐれも気をつけてね? と念を押すと、
「……ああ。言っとくけど、あんたの寝床は廊下のソファだからね?」
 こちらには、じろりと冷たい一瞥をくれる。
「女尊男卑も甚だしいな」
 シーヴァスは、顔を背けたまま嘆息した。
 昔から犬猿の仲だったジェシカが教会を出て、自活するようになってからは、こんなふうに鉢合わせる機会も減っていたのだが――彼女に比べれは、ティセナの素っ気なさなど可愛いものかもしれない。
「クレアさんに貸す部屋はあっても、あんたに貸すベッドは余ってないの! 誰が掃除すると思ってんのよ」
 ジェシカは、ふんと鼻を鳴らした。
「まーた始まったよ……」
「昔っから仲悪いもんね、あの二人」
「ジェシカ姉ちゃん、男嫌いだからな」
 ひそひそと囁きあうリオとエミィの、憐れみの視線を背に感じながら。
 早くシスターが戻ってきてくれないだろうかと、シーヴァスは心の底から願った。




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シスターエレンは人徳がありそうなので、フィアナ以外にも出入りする “卒業生” はいるんじゃないかと思います。
『天使の絵』 イベント中の天使の台詞、“まさか修道女と……” には笑わされたものでした。