◆ 幻の影(1)
これからタンブールに行くというクレア様たちが、宿を発ってから。
ナーサディア様も公演予定の街に向かわなきゃいけないとかで、いくつか馬車を乗り継いでは降り、私はそのお供で、ボルサの森を移動していた。
「う〜、やっと片づいた……」
襲ってきたブラッドサッカーの群れをあっさり撃退した勇者様は、右手に鞭を持ったまま、ぺたんと草むらに座り込んだ。
「すっごいですね、ナーサディア様。二日酔いもなんのその!」
私は、ぱちぱちと拍手を送った。
「褒めなくていいから静かにしてぇー、アタマに響くのよ!」
さっきまでのキリッとした立ち振る舞いは、どこへやら。耳を塞いで、ほとんど寝起きのような声を出す、
「はーい」
酔いどれ踊り子さんの付き添いだなんて。ファンガム王国の探索任務が空振りに終わったばかりだっていうのに、この頃シェリーちゃん、すっかり働き者だ。
(そんなに頭が痛くなるんなら、呑まなきゃいいのに……)
とか思いながら、ぼけーっと彼女が歩きだすのを待っていると、急にぞわっと背筋が痒くなった。
「…………なんか、寒……?」
おそるおそる、いやーな気配が漂ってくる方向を――ちょうど、さっきナーサディア様が倒した魔族が霧散していったあたりを振り返ると、そこには、
「おおお、お化けー!?」
どこから出てきたのか、ぼうっと歪んだ黒い影が浮かんでいた。
まるで床にぶちまけたインクが独りでに動き出したみたいに、ゆらゆら、ゆらゆら蠢いて。
「……磁場狂い」
ぐっと鞭を握り直して、
「こんな昼間から、だなんて――そこまで魔界との境が崩れてきているの?」
舌打ちするナーサディア様の隣で、私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
もしかしなくても、あの黒い靄から怪物がわんさか出てきて、それでまた戦闘になっちゃったりするんだろうか? さすがの勇者様も、連戦は……というか私がキツイ。キツすぎる。
(やだやだ、勘弁してよ〜!)
祈るような気持ちで息を詰めていると、
『やっと、会えたね……ナーサ……』
声が聴こえた。どこか甘めな、男の人の。
頭に直接響くような、落ち着かない感触――なんなの、これ!?
「あら。私の名前を知っているなんて、どこで仕留め損ねた魔族さんかしら? 馴れ馴れしく呼ばないでほしいわね」
ナーサディア様は、不敵に言い返した。彼女にも聴こえてるってことは、幻聴の類じゃなさそうだ。
『分からないのかい? 僕だよ』
笑いを含んだ声音が、また耳に届いた。
森には私たちの他に誰もいなくて、黒い影がしゃべっているとしか思えない。不審そうに眉をひそめていたナーサディア様の表情が、わずかに強ばって、
「……まさか」
彼女が影に向かって一歩踏み出した、とたん、
「ふえっ、あれ?」
さっきまで見えていたことが嘘のように、それは跡形もなく掻き消えてしまった。
ひんやり捻くれていた、あたりの空気にも暖かさが戻ってきて、あとは、どこまでも長閑な森の風景が続いているだけ。
「……なんだったんでしょう? 今の」
「幻よ」
さっぱり訳が分からなくて仰いだ、ナーサディア様の横顔は、ひどく無表情で。
「ブラッドサッカーの、瘴気の……残滓、みたいなものよ。きっと……」
尤もらしいことを言われたら、なんだか余計に不安になってしまった。
ただの幻覚、そう思っているなら。普段の彼女だったら、もっとこう――明るく笑い飛ばすんじゃないだろうか?
「早く、この森を出ましょう。気分が悪いわ」
勇者様は、こめかみを押さえたまま、ふらふらと歩き出した。
(うん……変なのは、二日酔いの所為だよね)
実際なんにも起きなかったんだし、ブラッドサッカーは退治したから当分この地方の混乱度は上がらないだろうし、だから、気にすることはないじゃない?
自分に言い聞かせながら振り返ってみた森の奥には、ひらひらと蝶々が飛び交っているだけで、やっぱりさっきのは夢だったんだと考えるしかなかった。
毎年この時期、ボルサの森で、小動物の死骸が大量に発見されていたなんてこと、このときの私たちは考えてもみなかった。
×××××
それからしばらく経った、ある日の夜。
「ねえ、ティセナ」
酒場の喧騒から少し離れた、隅っこのテーブル席に腰掛けて。
「あなたは、ラスエルという名前の天使――知ってる?」
この間から、ずっと “心ここに在らず” って感じで塞ぎ込んでいたナーサディア様は、らしくもなく目を逸らしたまま切り出した。
「……前守護天使のこと? ラスエル・ヴァルトゥーダ?」
面会を希望しておきながら30分近くなにも言わない、挙動不審な勇者様が話しだすのを待っているうちに、すっかり空になってしまったフルーツタルトのお皿を脇に退けながら、
「名前だけなら聞いてるけど、面識はないよ。私がクレア様と知り合った頃には、彼はもう失踪して天界にいなかったから」
ティセナ様は、訝しげに答えた。
「失踪、って」
ナーサディア様は呆然と、鸚鵡返しにつぶやく。
「いなくなった……の? どうして?」
なんだって彼女が、クレア様のお兄さんのことを訊くのかも不思議だったけど、
「それ、初耳ですよ。ラスエル様って、聖グラシア宮とかの中枢機関でお仕事してるんじゃなかったんですか?」
私には、まずそっちが気になった。
守護天使の大役を果たした人物は、将来の四大天使候補として、天界内務に就くんだと聞いたことがある。
お互い忙しいから兄妹でも滅多に会えなくて、だからラスエル様を見かけることもないんだろうと思ってたのに、行方不明だなんて?
「さあ。インフォス守護の任務を終えた直後、姿を消したらしいけど……もう十年も前のことだし、妹のクレア様にさえ分からないんだから」
「ちょっと、待って――ティセナ。妹って、誰が、誰の」
引き攣った声に遮られて、いよいよ天使様は不審げに眉をひそめた。
「だから、クレア様のお兄さんがラスエルでしょ? 本人から聞いたんじゃないの? っていうか、なんでいきなりそんな話を」
「ねえ、冗談でしょう? そんな訳ないわ。だって、名字が全然違うじゃない!」
「え? ああ……ユールティーズ、が?」
相手の剣幕に気圧されたように、アイスグリーンの瞳を瞬いて、
「私の “バーデュア” もそうだけど、天使には、兄弟姉妹はいても両親っていないから。あれは、地上界で言うセカンドネームみたいなもので」
苦笑しかけたティセナ様の動きが、はたと止まる。
「十年前って。クレアと、兄妹って……私が勇者だった頃から、もう百年以上過ぎてるのよ?」
けたたましい音をたてて、ナーサディア様は立ち上がった。肩は小刻みに震えていて、顔色も尋常でなく真っ青だ。
「ど、どうしたの。百年って、なに?」
「それが本当だっていうなら、いったいラスエルは何処に行ったの!?」
“とにかく落ち着いて、順を追って説明して” と、錯乱してわめく勇者様を宥めすかして。
ティセナ様が、荒唐無稽な作り話にも思える “事情” を聞きだすまで――さっぱり訳が分からない私はただ唖然としているしかなかった。
ラスエル絡みのイベント、第一弾。
『翼ある者たち』 は、ナーサディアでクリアしない限り毎年出てくるので、他勇者の経験地稼ぎにも重宝しておりました♪