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◆ 天使の獣(2)


「ジャックハウンド」
 森を警備して歩きながら、ひとつ尋ねた。
「クレアの兄が、女勇者と恋に落ちたという話は、真実か?」
「……獣の私に、人の情緒は分からぬが」
 ヤルルと共に在っても、会話に飢えていたんだろう。水を向けられた神獣は、堰を切ったように語り始め。
「あの方は、ナーサディアに惹かれていた。彼女と共に生きるため、あとひとつ成さねばならないことがあると――そう言い残して姿を消した」

 “ジャック、あとを頼んだよ? 僕が戻るまで、ナーサを……インフォスを守っていてくれ”

「だが、私は……この姿は。人間界に於いては、魔物の同類に過ぎなかった」
 使命に駆られ、ひた走っていた頃には気づかなかった。
 ひとたび街へ足を伸ばせば、幼児に石をぶつけられ、モンスターと決めつけ忌み嫌われる。ただ、異形だからと。
「ナーサディアは、胸を張っていろと笑ってくれたが――私を連れ歩いては、彼女まで社会から疎外される。それは、ラスエル様が人間として暮らすようになっても変わらぬ現実だ」
 浴びせられる畏怖と拒絶に、天使たちまで巻き添えにして、在るべき幸福を壊してしまうよりはと。
 遠く人里離れた、シュランクの森で過ごすようになった。

「誰とも話さず、なにをすることもなく、ただ静寂の中生きてゆく……それは、死後の世界を髣髴とさせた」

 混乱の気配を嗅ぎつけるたび、討伐に明け暮れても。
「傷を負いながら戦い、堕天使の脅威を退け、勇者の一人に至っては命を落としてまで、守り抜いたインフォスは――欺瞞に溢れていた」
 強者が富を貪り、弱者は飢え死に、窮しては他者を虐げ奪い滅ぼす。
 是正されたはずの秩序は人々によって壊され、時空は再び傷口を広げていった。

「こんなモノを、救おうとしていたのかと……失望した」

 小川に程近い木陰で、休息を取りながら。
「まさかラスエル様が失踪したまま、ナーサディアが老いずに生きているなどとは考えもしなかったからな。せめて、あの二人が、夢から覚めぬまま天寿を全うしてくれればと願っていたが」
 ……百年の時が流れ。
 彼らの魂も天に召されたかと思うと、インフォスの末路など些末事にしか捉えられなくなった。
 時折、風に乗って鼻を焼く瘴気に、腰を上げることもなく無為に過ごしていたと。

「そんなときだった。合成獣・レライエが、私の元に現れたのは――」

 接近してきた、相手が闇の眷属であると一目で看破しながら。誘いを、ざらついた響きを、啓示のようにすら感じたという。
『思い上がった人間どもに、制裁を加えよう』
 合意したジャックハウンドは、インフォス全土を無差別に襲い、逃げ惑う人々を痛めつけていった。
 命まで奪おうと思わなかった理由は……かつて天使に遣えた、誇りの破片か。褪せた価値への、無関心か。
 脆弱な人間は、その程度の苦しみを味わうべき種族であるとして。
 殺戮を重ねなかったことだけが、今となっては唯一の救いかもしれないが。
“私はもう、神獣ではない”
 再会を果たすなりクレアに跪いた、彼の言葉は紛うことなき懺悔だった。

 数年前に襲撃した、アルプの町で。
 魔獣出現の報せに駆けつけ、人々を守るため立ちはだかった、ヤルルの父――ルドック・ウィリングは強かったという。
 戦斧を扱う腕だけでなく、心が。
 敵たる己を迷いなく見据えた、眼差しが。
 わずかな休息をどちらからともなく挟み、戦闘は三日三晩続いた。
 一歩も退かぬルドックと対峙しながら、やがてジャックハウンドは迷い、相手への敬意を覚えるようになった。
 ……他人のために身体を張って戦う、彼は、いったい何者だろう? こんな男がいるなら、まだ人間も捨てたものではないのかもしれない。

 けれど四日目の朝。
 ジャックハウンドの双角が、戦士の心臓を深々と貫いた。
 互いに疲労は蓄積していたものの、彼ならば簡単に避けられたはずの攻撃で。
 滴り落ちる紅を、愕然と目で追った先には――ルドックの片足に突き刺さった、漆黒の槍。レライエの呪法だった。
“貴様が人間ごときに苦戦しているから、手を貸してやったんだ。感謝してもらいたいくらいだな”
 どういうつもりだと問い質すジャックハウンドを嘲笑い、合成獣は掻き消えた。
“所詮、天使の獣か……”
 侮蔑まじりに吐き捨て、死に往く男を見下ろして。

「ルドックは、私を責めなかった。ただ、ガルフに残してきた妻と、幼い息子が気がかりだ――二人が平穏に暮らしていけることが、願いだと」
 望まず死に追いやった男の遺言を守るため、少年に寄り添った。
 たとえその行為が、自己満足に過ぎずとも。
「ラスエル様に立てた誓いを破り、ナーサディアの変調さえ知らずにいた……私は、クレア殿に、救いを求められる立場ではなかったが」
 ぎりぎりと犬歯を噛みしめ、ジャックハウンドは低く唸る。
「ヤルルが、病などで命を落としては、死んでも死に切れん!」
「――クレアに関しては、心配いらんさ」
 シーヴァスは、草むらに伏せた神獣の背を、かるく撫でてやりつつ宥めた。
「こちらが脱力するほど、生真面目なお人好しだ。ヤルルを助けてくれと、頼みに来たおまえを……侮ったり見限ったりするはずも無い」

 ウィリング夫人は、すべてを承知しているという。
 ヤルルが父探しの旅に出ると宣言した、その夜――断罪を求めた、ジャックハウンドに。
『なんとなくね、そんな気がしていたの。通りすがりに町の人たちを守って、だなんて……あの人らしいわ』
 悲しげに微笑んだ、彼女は。
『だけどヤルルは、まだ子供で。すぐには理解できないだろうから』
 旅路の中、ルドックが守ろうとした世界を眺め、触れて、いつか父親への思慕を “ラッシュ” の過ちごと、昇華できる日が来るまで。
『あなたには、辛いだろうけれど――本当に、ルドックの遺志を守ろうと思ってくれるなら。いつか直接、あの子に打ち明けて、どんな糾弾も受け止めてあげて』
 限りなく優しい、けれど残酷な罰をジャックハウンドに科した。

「今は、ここでクレアの帰りと指示を待とう」
「……かたじけない」

 諌められても落ち着かぬ様子で、青い獣はうなだれた。
 このままヤルルが、病魔を克服できなければ――人間を殺した神獣は、償いの術を失い。家族を亡くしたウィリング夫人は、ひとりガルフに取り残される。


×××××



 勇者が神獣と話し込んでいた、同時刻。
 まっしぐらに飛んでいったタンブール・医師協会の、正面玄関にて。
「だから、いちいち謝るんじゃねえ!」
「すみません、すみません……ッ」
 平謝りする細い女性の声と、聞き覚えある怒号が、クレアの鼓膜をつんざいた。
「いい加減にしてください、お客さん! これ以上騒いだら、警備兵を呼びますよ? それにイダヴェル様は対策本部の、大切な資金提供者なんですからね」
「だだだ、ダメです! グリフィン様は、私っ、大恩ある方なんです。勇者様なんです! そんな失礼なこと――」
「……しかしですねぇ」
「勇者ってのを止せ、何べん言やあ分かるんだ!」
「きゃあっ、ごめんなさいー!?」
「フィン、うるさい! 賞金稼ぎのギルドに、突き出されても知らないからね?」

 ぎゃいぎゃい飛び交う、複数の声。
 うち二つに見当をつけた、クレアは扉を開け放ちざま言い放つ。

「病院では静かに。どうしても出来ないなら、全員、頭から水をかけますよ?」
「あ?」
 受付ホールには、案の定、旅装束のグリフィンとティセナ。
「クレア様!」
 それから以前、焼け落ちた貴族の城で出会った、勇者と少なからぬ因縁を持つ少女・イダヴェル。
「ラッ……?」
 さらに職員であろう、白衣やナース姿の男女が五人ほど、ぽかんとした妙な表情で目を剥いている。
「いったい、なにを騒いでいるんですか? こんなところで」
「ティアズのガキどもが、流行り病にかかっちまったんだよ」
 ふてくされた調子で答えた、
「怪我ならともかく病気は治せねえって、ティセが言うし。医師協会なら、特効薬のひとつくらい持ってんじゃないかと思って、遠路はるばる来たんだけどよ」
 グリフィンは、ぞんざいな手つきで傍らを指差した。
「なんか、研究に金出してるとかで、コイツまでいやがった」
「す、すみません」
 おどおどとイダヴェルが縮こまり、ティセナは呆れ顔で 「女の子を脅かさないのッ」と勇者の左耳をつねりあげる。

「えーっと。あなた、お名前は?」
「あ、申し訳ありません。突然おじゃまして――クレア・ユールティーズです」
 近寄ってきた職員はしげしげと、探るような眼をしてさらに問う。
「……リトリーヴ医師の、ご親戚?」
「リトリーヴって、どなたですか?」
「協会の責任者で、客と五分も話す暇がねえ、多忙で優秀でお偉いセンセイなんだとさ」
 首をかしげる天使に、グリフィンが横から口を挟んだ。
「とにかくそいつを出せよ、こっちは急いでんだ! 前に流行った病気なら、どんな薬草が効くかくらい分かるだろ?」
「だからそれは何度も説明しましたとおり、有効な治療法が発見されていないため、鋭意、調査中でして――」
 弱り果てた様子の職員に、いつになく苛々と詰め寄る勇者。
「だからその結果は、いつ出るんだよ!」
「うーん……とりあえず、原因として可能性が高いのは食物だね」
 返事は、受付カウンターの奥から聞こえてきた。
「?」
 皆の視線が集中する、ぎぃっと木製の扉が開いて、30代半ばと思われる白衣の男性が姿を現す。
「リトリーヴ先生! 実験は終わったんですか?」
「すすす、すいませんアレンさん! さっきから、やかましくて――ひとまず静かになりましたんで」
「いや、気にしないでくれ。どうにかこうにか一段落したから」
 あたふたと駆け寄る職員を、穏やかに片手で制して。
「…………」
 疲労が濃く残る横顔を、こちらに向けたとたん。男性は、持っていたマグカップを取り落とした。

 ごとっ――だくだくびしゃびしゃ。

「きゃああ、先生、カフェオレッ!」
 こだまする悲鳴。みるみる床にマーブル模様を描いていった液体は、ちょうどリトリーヴ氏の髪と同じ色合いで。
「うわ!?」
「あ、やっぱり似てますよねえ? だけど、そこまで驚かなくても」
「雑巾、雑巾! モップどこ?」
「そうそう、妹さんの面影あるでしょう、先生! 顔立ちっていうか……雰囲気? それに、声がそっくりです」
「え? うん、まあ。って、あああ絨毯に――!?」
 がたがたばしゃばしゃ、ごしごし、どったんばったん。ぜいぜい。

「……おい、クレア? 水、かけてやれよ」
「掃除する手間が勿体ないです」
「っていうか、なんの話してるの? あの人たち」
「分からん」

 どうやら徹夜続きらしい医師が、ふらふらとカウンターに寄りかかって頭を抱え。
 雑巾がけを手伝おうとしたイダヴェルは、見るからに高級そうなドレスの裾でカフェオレを引きずってしまい、職員たちを蒼白にしている。

 なんとなくグリフィンと顔を見合わせ、溜息をつく天使二人。
 藁にも縋る想いで訪ねてきた側としては、考えざるを得なかった。大丈夫なんだろうか、ここに……望みをかけて。



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ジャックハウンド。彼の過去を考えたら、予想外に長くなりました。だけど、複数キャラが絡んでいる方が、ストーリーに深みが出る……ような気はします。