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◆ 毒の泉(1)


 流れを遡った先に聳える、山岳地帯。
「――おまえたちのおかげで、この泉の水を糧としている愚かな人間どもは、大混乱している」
 洞窟の奥底より、かすかな嘲笑が聴こえてきた。
「最初は、馬鹿のディアンに作らせた毒薬で、手っ取り早く全滅させるつもりだったけど。こうして、じわじわと絶望に浸されていく様を眺めているのも悪くないわ」
 さらには、ギャエギャエギャエ! と反響する、なんとも形容しがたい狂騒。

「大当たり、でしたね。クレア様……下がっててください」

 やがて行く手を阻んだ、瘴気の壁を、ティセナは一刀両断にして退けた。
 ひび割れ砕け散る欠片を灼きつくしながら、二撃目が、泉の縁に佇んでいた影を襲うも――炎の渦は突如、迸った稲妻とぶつかり爆散してしまう。
「!」
 吹き荒れる突風に押されつつ、息を呑むクレアと対照的に。
「こんなところで、高位魔族に出くわすとはね」
 術を放った当の本人は、べつだん顔色も変えず。裳裾を翻して杖を掲げた女もまた、おもしろがるような声音で。
「……不躾な天使だこと。死角からの不意打ちって、卑怯じゃないの?」
「回りくどい方法で攻めてくる敵に、遠慮してやる美徳はないよ」
 つかつかと空洞の中央へ歩みを進めたティセナは、泉に巣食う半人半魚のモンスターを見とめ、苦々しげに「エムプーサか」 吐き捨てた。
「インフォス在来種の毒を以って、疫病に見せかけ人間を殺す、とはね。ずいぶんと手の込んだ真似をしてくれる――」
「ええ、縄張りを荒らされては計画が狂うもの。天使がしゃしゃり出て来ないよう、せっかく自然現象を装ったのに……あなたたち、ずいぶん暇なのね?」
「南大陸全土が混乱してるから、調べに来たんです!」
 つばの広い帽子をわずかに傾け、呆れたような口調で問う女魔族に、かちんときたクレアは怒鳴り返した。
「エスパルダ法皇に委任されて、毒薬を――という話は偽りだったんですね」
「ああ。子飼いの勇者様が、おもしろおかしく報告していたのかしら」
 けれど相手は、居直るでもなく平静そのもの。
「そうね、騙したと言えなくもないけれど、残念ながら嘘はついてないわよ。みーんな本当のこと」
「ふざけないでください!」
「失礼ねえ……私は、少し種を蒔いただけ。それを日陰へ引きずり込んで、水を肥やしを大量に与え、腐った花を咲かせるのはいつだって人間たち」
 黒衣を纏う肩を揺らしながら、くすくすと嗤う。
「たとえば、我が子の病を治せなかったからといって、逆恨みで看護婦を刺し殺したり? ちょーっと悪い噂を聞いただけで、無償で診察してくれてた医者に罵声を浴びせ、村から追い出したりね」
 なんの話だかピンと来ずにいる、クレアの隣で。
「子供の命を奪うだけじゃ飽き足らず、ご丁寧に、他人の不安を煽りたててたってワケ?」
「そう。脆弱で醜悪、見るに耐えないから一掃してあげるの。だけど連中は非力で、アポルオン様へ捧げるには汚らわしすぎるから――里帰りの手土産は、天使の磔にしましょうか」
 顔をしかめたティセナを眺めやり、女魔族はスッと目を細める。
「そうして、災厄を解き放つのも素敵ね」
「……戯言を」
 ごうと収縮した大気が、光剣へと形を変え。
 エムプーサの群れは警戒もあらわにギャエギャエと騒ぎたてるが、事の黒幕は動じる様子もなく。
「あら。お得意の “エバーラスト” 発動は、けっこうだけど――こいつらを消せば、血清は作れない。私たちを殺せても、感染した人間たちは残らず死に至るわよ? 魔族狩りのお嬢ちゃん」
 挑発まがいの台詞に、ティセナは敵を牽制しつつ小声で訊ねた。
「クレア様……血清って、なんですか」
「う、えっ? 確か、人間界の解毒剤みたいなものだったと思うけど」
 医学知識といえど疎い分野の質問をされた、クレアは、しどろもどろに答える。
「解毒剤って、あいつのハッタリじゃないんですか!?」
「出任せじゃないと思う、けど、分からない。だって血清の作り方なんで、知らないわよ!」
 魔法が発達した天界において、薬品は、補助アイテムの域を出ない――自然物を使っての治療法は、人間界の方がよほど多様に存在しているのだ。
「知らないじゃ困るんですけど? 実際どうなのか分からなきゃ、下手に攻撃できないじゃないですかっ」
「そんなこと言われても……とにかく、リトリーヴ医師に見てもらえば分かるだろうから、剣だけ! 魔法で吹き飛ばすのは無しで!」
 こそこそと言葉を交わす天使二人を、隙ありと睨んだか、泉に潜んでいたエムプーサは一斉に氷塊を投げ放ってきた。
「面倒くさいなぁ、もう!」
 舌打ちしつつティセナが迎撃しようとした、無数の飛礫は、
「――血漿から、線維素原と凝固因子を除いたものが血清です」
 とつぜん響いた冷静な声と、鈍色の筋に弾かれ霧散して、ばしゃばしゃと地に落ち。
「サンプルがあるに越したことはありませんが、エムプーサの毒は、南大陸全土に流れ広がっている……抗体を含んだ血清を精製するだけなら、河川の水で事足りますよ」
 クレアたちが、ついさっき通り抜けてきた横穴をたどり、銀髪の青年が姿を現した。


 鱗を切り裂かれたモンスターが、泉より這い出してギャエギャエと騒ぎたてる洞窟に。硬い靴音を響かせ、
「――話は、すべて聞かせてもらいましたよ。シエラ」
「あら」
 歩み寄ってきた男に視線を留めた、女魔族は、唇の端をきゅうっと吊り上げた。
「あなたまで、ここを探り当てるなんてね。人間社会から爪弾きにされて、どこか僻地の掘っ立て小屋でいじけてると思ったのに……」
 そこだけ取り出してみれば可愛らしい仕草で、くすっと頬笑み。
「恋人を殺された腹いせに、犯罪者を何百人も虫ケラみたいに殺しておいて――今度は私に八つ当たり? ディアン」
 いいえ、と平淡に返した青年は、ダガーを鞘から抜き放ちつつ応じる。
「己の愚かさ加減に、嫌気が差しただけです」
 間髪入れず再び閃いた刃に、薙ぎ払われたエムプーサの群れは、どさどさと断末魔さえ残さず地に折り重なった。
 想定外の闖入者を前にしたティセナが、困惑もあらわに動きを止め。
「ディアン……さん?」
 おそるおそる声をかけたクレアを一瞥した、男は、戦闘態勢に入っていたかまえをガクッと乱す。
「な、なんですか、その格好は!?」
 仰天した相手の様子に、はたと気づく――そういえば、ソルダムで遭遇したときは実体化していたんだった。
 けれどアストラル体を視認出来るということは、彼もまた資質者の一人?
「え? えーっと、オモチャじゃないですよ。これ」
 どう言い逃れれば良いのか詳細を明かすべきか。とりあえず本物であると、背中の羽を示してみせたところ。
「……はあ。すると、私の記憶違いなんでしょうか」
 すっかり気勢を削がれてしまったらしい、ディアンは、双眸をまん丸に見開いたまま生返事をした。緊張感ぶち壊しである。

「とりあえず、雑魚に用は無いから死んでくれる?」

 興醒めたように振りかざされる杖――瞬時に迫り来た、うねる雷撃がクレアたちを灼き尽くす寸前に。
「それは、こっちの台詞」
 炎熱で相殺したティセナは爆風を突っ切り、具現化した光剣を、女魔族の心臓に突き立てていた。あっけなく岩壁に串刺されたシエラは、狼狽や苦悶の表情は微塵も覗かせず。
「ふぅん……私より、あの殺人狂が言ったことを信じるの?」
「私は、誰も信じてない」
 ティセナは、不愉快そうに吐き捨てた。
「エムプーサの死骸は残す。あんたは、インフォスから消す――いちいち指図されなくたって、血清は、この世界の医者が作るでしょうよ」
 さよなら、と素っ気なくつぶやき、光剣を握りしめた手に力を込めるが。
「お別れ、かしらね?」
 シエラは、消滅の危機に追いやられた者とは思えぬ、舐めるような眼つきで。
「魔女の予言よ――そう遠くない未来に、きっと地獄で再会するわ」
 天使の聴覚でなければ聞き取れなかったろう小声で、負け惜しみにしてはひどく余裕たっぷり、囁いた。
「アポルオン様の手駒に造り変えるつもりで、ディアンの奴にちょっかい出してきたけど……あれは、しょせん半端者。だけどあなたは」
 発動した “エバーラスト” の閃光に、細胞すべて掻き消されるまで。
「こちら側へ堕ちる運命に生まれた、紛いモノの天使―― “化けの皮” を先に剥がすのは、呪いと逆凪」
 最後に紅い唇が、楽しげに “どっちかしらね?” と動き。
 以前、狂い月の夜に戦ったケルピーよりも、やや緩慢に、シエラの姿は霧散して失せた。

「……だいじょうぶ?」

 あっという間の決着にホッとしながらも、戦闘における己の無能ぶりに肩身は狭く。
 魔女が遺した言葉は、奇妙に不安を煽るもので。
「意味ありげなこと言って、動揺を誘うのが魔族の手口――いちいち真に受けていたらキリがありませんよ。自分の魔力が異常値だってことくらい、物心ついた頃から承知してます」
 駆けよって訊ねたクレアよりも、当人の方がよほど泰然としていた。
「そんなことより、早く街に戻らなきゃでしょう? 生水を避けて、症状の悪化に歯止めは掛かっても体力は消耗してるはず」
「そ、そうだった! ……あれ?」
 指摘されてふと我に返れば、さっきまで傍らに佇んでいた青年が、刃物を手にモンスターの死骸をガリガリと弄っている。
 クレアは、おそるおそる近づいていって質問した。
「あの、なにをしているんですか?」
「エムプーサが、生成した毒を溜めている内臓嚢です」
 赤黒いそれを小瓶に納めながら、ディアンは、「あまり目にして気持ち良い物ではないですよ」と苦笑した。
「河川水を採取すれば充分、とはいえ、不純物を含まぬサンプルがあるに越したことはありません。どうか、あなたが役立ててください――医学生の天使様」
「役立てる、って」
 ソルダムで出会ったときとはまるで違う、穏やかで、ひどく疲れの滲んだ眼差しに当惑しつつ。
(私たちのこと、覚えてくれてたんだ……じゃなくて!)
 事後処理を丸投げするような物言いに、反射的に受け取ってしまった毒入りアンプルを持て余しながら、
「ちょ、ちょっと待ってください! 血清の作り方なんて知らないんです、私は――ディアンさんに手伝ってもらえなきゃ困ります!」
 クレアは、すっと翻された外套を、あわてて両手で引っぱって止めた。
「……リトリーヴと、面識があるのでしょう?」
 あなた方の会話を少し立ち聞きしてしまいました、すみません、と。
「タンブールの医師協会ならば、精製に必要な道具も揃っている。あとはアレンが、どうにかしますよ――彼は、優秀な医者だ。それに」
 物静かに答えた青年は、自嘲混じりに首を振った。
「私には、扱う資格が無いものです。こんな血塗れの手で救われて、喜ぶ奇特な人間もいないでしょう」
 ディアン・アルヴィースの名を聞けば警戒するだろう街は、少なからず存在する。関わりを公にして無用な混乱を引き起こすより、アレンたちに任せた方が確実だと、誰へともなく言い聞かせるように。
「もう、取り返しがつかないんですよ……私の過去は」
 青年は、話は終わりと言わんばかりに背を向けた。
 モンスター退治には自ら赴いても、肝心な患者の治療に手を貸すつもりはないという、頑なな意志の理由がさっぱり解らず。

「……取り返せない “過去” が、もしここに在ったら。あなたはどうしていたんですか?」

 遠ざかりゆく後ろ姿に、クレアが、疑問を投げかけると。
 振り向いたディアンは瞠目しつつ、微笑とも失笑ともつかぬ曖昧な表情で肩をすくめた。

「やっぱり助けてあげたい、と言うんでしょうね。彼女なら――」




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ディアン、再び。天使と絡まずに、彼が再起を遂げるとしたら、ライザ嬢の命を奪った疫病を解決できたとき以外にありえない気がします。