◆ 魂を蝕む痣(2)
「あれは、堕天使の紋章よ」
教会裏手の森に入り、実体化を解いて、獣道を突き進みながら。
「ええっ? 合成獣の仕業じゃないんですか!?」
「カノーアで戦ったっていう魔物は、おそらくアポルオンの眷属だろうから――症状悪化の引き金になった可能性はあるけど、呪いの直接の原因じゃないわ」
ぱたぱた後を追ってくる妖精の疑問に答え、クレアは、ぐっと唇を噛みしめた。
出会った頃に、首筋の痣に気づいてさえいれば。
彼女が発作を起こしたとき、嫌がられても全身を検査しておけば。
こんなふうに衰弱して倒れてしまう前に、手の施しようもあったのに。今の今まで、見落としていたなんて……!
「堕天使って……確か、高位魔族も片手で捻り潰すくらい凶悪なんです……よね?」
「そんなふうに聞くわね。もちろん、一概には言えないだろうけど」
天界の文献で名を目にした記憶があるだけで、クレアにも、敵の能力などの詳細は判らないが。
フィアナの身体を苛んでいる堕天使が、アポルオンであることに違いはないだろう。もしかしたら――インフォスの時が淀んでしまった、原因さえ。
「そ、そんなヤツ相手に、どうするつもりなんですか?」
「直接対決」
木々の間をしばらく行ったところに広がる、湖の畔で足を止め。
携帯していた銀のナイフで、大地に描いた魔方陣がゆっくり聖気に満たされて、皓々と光を放ち始める。
「フィアナの精神世界に、行って来るわ」
どう客観的に考えても無謀であろう、上司の宣言に、シェリーは慌てふためき縮み上がった。
「待ってください少し落ち着きましょう深呼吸しましょう?」
真っ青な顔でまくしたてる、彼女の方がよほど冷静さを欠いているように思うのだが。そうさせているのは自分であるから、クレアとしては苦笑するより他にない。
「無理です、罠です、絶対ダメ、ひっくり返っても無理――話し合いなんか通じませんよ、殺されちゃいますよ! だいたいクレア様は転移魔法を使えないんだから、自由にアストラル界へは行けないじゃないですか!」
「アポルオンが、道案内してくれるわよ」
勇者の魂の気配には、多少なりとも馴染みがある。魔力・体調ともに万全な、今の状態なら問題なく行けるだろう。
だから、この魔方陣は “帰路” の道標。
「呪いなんて陰湿な方法で、勇者を人質に捕っているんだから。天使に用があるんでしょう」
「だーかーらああああ!!」
ショートカットの頭を抱え込んだシェリーは、尻尾の毛を逆立てて絶叫した。
「……根性でなんとかなることと、無理なことがあるでしょう!? 私、ティセナ様を呼んで来ますから」
こちらの腕を、がしっと掴んで力説する。
「フィアナ様を助けるなら、みんなで戦わないと! 勇者様たちにも手伝ってもらわなきゃ、勝てっこありませんよッ」
「ダメよ」
堕天使相手に正攻法では、まず歯が立たない。大勢で立ち向かえるなら、その方が確実ではある。けれど、
「罠だから、私が行かなきゃいけないの」
アポルオンが、どの程度こちらの戦力を把握しているにせよ。
「ティセは……純粋に強いから。フィアナの命を盾にされたら、動けない。それに、勇者だって生身の人間だもの。精神世界では力を削がれて、まともに戦えないわ」
戦闘要員のうちで、最も侮られているのはクレア自身だろうから。それは裏を返せば、敵の油断を誘えるということ。
「だけど、クレア様……勝てる見込み、あるんですか?」
「これでも一応インフォスの守護天使よ、私――回復魔法以外にも、取り得はあるんだから」
明るく笑い返してもシェリーの表情は晴れず、なおも追及してきた。
「ちゃんと戻って来るんですよね?」
「……急いで行って帰ってくるから。ティセに見つかったら、一緒に怒られてくれる?」
アポルオンとの対決にどんな決着がつこうと、あの子は間違いなく激怒するだろう。帰還した後には、容赦ないお説教が待ち受けているに違いない。
「うえ?」
一瞬だけ怯んだシェリーは、しぶしぶといった様子で頷いた。
「ホントにそれで、お二人とも無事だったら、いいですよ」
それでも不安そうな妖精を 「うん、頑張ってくる」 と宥め、クレアは、地に輝く紋様の中心に立った。
『空間の扉』 を通るときに似た、ぬるま湯のような感覚が全身を包む――やはり、誘き寄せられているようだ。強大な、瘴気の持ち主に。
「この魔方陣が、私の生命線だから――見張っててね、シェリー」
気をつけてくださいね! と叫ぶ声が遠く聴こえ、そうして眼前の風景が切り替わった。
×××××
――暗い、暗い、どこまでも果てしなく荒廃した砂漠。
「くっくっく……ようこそ……」
唐突に押しよせた暗闇に目が慣れず、ブロードソードを抱え立ち尽くしていたところに、
「いっぱしに剣など持ちおって。この私と、真っ向から殺り合うつもりか?」
背後より、愉悦を含んだ嘲笑が降った。全身を切り刻むような敵意と、圧倒的な瘴気の渦が足元を這い上がる。
「ええ。病原体を、駆逐しに来ました」
わずかな動揺を覚えつつ、それを押し殺して、クレアは振り向きざまに相手を睨み返した。
「フィアナの心を、黙って解放するつもりはないのでしょう?」
二足歩行する巨象の背に跨り、鋭利な槍を右手に携え、オールバックの黒髪をなびかせて――人間に近しい容貌を留め、わずかに “天使だった” 名残を残す、まだ若くさえ見えるその男が。
「嬲り甲斐のある玩具を、むざむざ手放す理由も無かろう」
「なんですって!?」
小馬鹿にしたように嗤う様を目の当たりにして、思わず声と心が荒ぐ。
「せいぜい怒るがいい、下級天使。おまえのような雑魚を殺すのに、さして時間はかからんだろうからな」
堕天使はあからさまに、こちらを侮っているようだ。それは別に、かまわない。
激情に駆られるあまり、単身、ろくな策も無しに敵の領域に乗り込んできた、愚かな天使だと思ってくれた方が。けれど、
「心配するな、このフィアナとかいう勇者も、すぐに死んだ両親のところへ送ってやる」
他人事のように白々しく肩を竦める、その口調が。
「実に17年ぶり、親子の感動のご対面というわけだな」
「エクリーヤ夫妻を、殺したのは……あなたですか、アポルオン」
「そう。魂を呪うには、元となる傷が要ったものでな。殺し甲斐はあったぞ? 狂い月の夜、この娘の絶望に、村一帯を覆う恐怖はなかなか美味だった――」
「どうして、人間に危害を加えるんですかッ! 天使に用があるなら、私に直接言えばいいでしょう!?」
腹に据えかねて、クレアは叫んだ。
だが、アポルオンは顔色ひとつ変えず、さも可笑しげに切り返す。
「ほぉう? 勇者ばかりを戦わせ、地上界を盾にして天界の安寧を保ち。異端者に汚れ役を負わせて、平和だの慈愛だのとほざいている、名ばかりの守護天使がよく言う」
とっさに反論できず、言葉に詰まったクレアを見下ろして、
「……顔色が変わったな」
堕天使は、満足げに鼻を鳴らした。
「まあ、のこのこと我が領域にやってきた、その気概だけは認めてやろう。限りなく愚直、浅はかではあるが、臆病者の大天使どもよりは好感が持てるぞ。血は争えんというヤツかな?」
「まったく嬉しくありません」
ともすれば激昂しかける精神を、必死に理性で保ちつつ、アポルオンの戯言を一蹴する。
「皮肉を解する頭はあるらしいな。まあいい」
その物言いがまた癇に障るが、クレアは、かまわず剣をかまえた。
ずっと勇者を、ティセナばかりを戦いの矢面に立たせてきた。
戒律だから、それが適性だからと、他者から与えられたルールに従って。
そんなふうにしか動けなかった私は、アポルオンに言い返せない。だけど――だからこそ、今は。
挑発に乗るな。
相手の動きをよく見て、流れに逆らわず、致命傷を避けて。
そうでなければ、長年にわたり蓄積された毒素が、フィアナ・エクリーヤという名の女性を呪い殺してしまう。
「私には理解不能だが、どうやら、おまえは “鍵” らしいからな」
向けられた意味ありげな台詞に、クレアはふと戸惑うが、すぐに身構えたまま頭を振り払った。
考えるのは、後だ。
フィアナを助け出して、無事に帰る。
……約束を、守らなければ。
「哀れな人柱の守護天使――刻まれた逆十字の枷より、災厄を解き放つため消えてもらおう」
アポルオンの意を受けた奇形の巨象が、ずしんと砂丘を揺らして一歩迫る。
戦いの火蓋が、切って落とされた。
ベルフェゴール、イウヴァートと、堕天使は複数いるわけですが、なんとなくアポルオンの計略っぷりが一番印象に残っています。私的に真正ラスボスは、ガープではなくこっちだったり。