◆ 戦う天使(1)
「しかし……あの獣、ガルフに着くまでただの一度も、人語など使わなかったぞ?」
「いーえ! 私たち、妖精の直感力を侮らないでくださいっ」
タンブールの雑踏を行く、シーヴァスの傍ら。
ローザは羽音も荒く、きっぱりと断定してみせた。
「バーンズとも似通った姿形、なにより内在する桁違いの聖気――クレア様が仰られていた、ジャックハウンドに間違いありません! 人間の子供の前だからと、いかにも地上種のようなフリをしているだけに決まってます」
まあ、珍しい動物だったのは確かだ。
ヤルル・ウィリングと名乗った少年を、親元へ送っていく道中にも。飼い主に連れられているというより、むしろ、あのヤンチャ坊主を見守っているような印象を受けた。
クレア所縁の神獣を探していたのだというローザが現れて、なにを話しかけても沈黙を破りはしなかったが――本人と対面させれば子細はっきりすることだろう。
だが、そのまま進めば青みがかった屋根が見えてくるはずの、十字路に差し掛かったところで。
ローザが、ふいっと脇道に逸れた。
「……おい、どこへ行くんだ? クレアは、教会にいるんじゃなかったのか」
「えっ? いえ」
呼び止めると、戸惑ったように首を巡らせ、通り慣れた道とはまったく別の方角を指す。
「ですが、クレア様の気配は、あの森から――」
子供たちを連れて散策、はたまた木の実採りか? 特に突き詰めて考えることなく、ローザの感覚に従って森を進むと。
陽光照り返す、湖の畔に、ひときわ鮮明な輝きを放つなにかが在った。
「シェリー?」
近づいてみれば、それは地面に描かれた魔方陣であり、落ち着かぬ様子で辺りを飛び回っているのは、もう一人の妖精である。
「あああ、ローザーーーーっ!?」
彼女はこちらに気づくなり、おろおろと真っ青な顔で叫んだ。
「シーヴァス様も!! ねえねえ、どうしたらいい? ホントに魔方陣、見張ってるだけでいいと思います?」
「ななっ、なに?」
いきなり抱きつかれて辟易するローザにかまわず、断片的な事情をまくしたてる。
「フィアナ様が倒れちゃって、それが堕天使の呪いのせいで。だからとアポルオンと直接戦うって、クレア様……精神世界に行ったまま、もう20分過ぎちゃって……!」
耳慣れぬ単語の数々に、感じた戸惑いは一瞬のもので。
「なんですって!?」
今にも卒倒しそうなローザの反応を見れば、堕天使、アポルオンと呼ばれた相手が桁外れの強敵だということくらい、わざわざ訊ねずとも明らかだった。
問題は、敵地に単身乗り込んでいったらしい、お世辞にも戦闘向きとは言えない天使の安否。
「直接戦う、だと――学習能力が無いのか、彼女は!?」
思い返せば、出会った頃からだ。
なにか事件が起きるたび、協力者を呼ばず待たず独断専行で突っ走って。
「なぜ止めなかったんだ、シェリー!」
「止めましたよ、危ないに決まってるんですからあ!!」
おとなげ無い勇者に睨まれた妖精は、尻尾をばたばた振り回しながら、半泣きで反論する。
「だけど、フィアナ様を人質にされたら、ティセナ様は勝てないって。自分ひとりで行くのが一番だって……」
「まだ、他の誰にも報せていないのね?」
「う、うん」
同僚が、こくこくと肯くのを見て、
「なら、いいわ。あなたは引き続き、この場を守っていなさい。シェリー。私たち妖精の “力” は微々たるものでも、天使様の魔法を安定させること――四大元素との媒介にはなれるわ」
魔方陣が崩れなければ、それはつまり、術者であるクレアの命にも別状がないのだと。
「堕天使が地上に現れたなら、本来は、ティセナ様に対処をお任せすべきところだけれど。敵がアストラル界で、フィアナ様の精神を侵蝕しているというなら……クレア様に託すのが最善の策だわ」
ローザは、険しい表情のまま告げた。
「浄化魔法を使えない、私たちが追っていっても足手纏いになるだけ。それは、ティセナ様だって例外じゃないのよ」
「だが、彼女の方がクレアより、遥かに戦闘力は上だろう?」
消極的に感じられる判断を、訝しむシーヴァスの問いにも、かぶりを振って答える。
「今回のようなケースに限っては、その強さが諸刃の剣となるんです。ただでさえ呪いで倒れるほど衰弱していたところに――不用意に、強大な魔力がぶつかっては、アポルオンを倒すより先にフィアナ様の心が壊れてしまう」
つまり、こちらに有利な選択肢をひとつとして残さず、天使を誘き寄せたというわけか?
これまで相対した敵のほとんどが、力技で暴れる魔物ばかりだっただけに。身動きの取れぬ現状が我慢ならず、シーヴァスは歯噛みする。
「私は、今からインフォス全土を探索してきます。この隙に、他の堕天使や魔族が動き出すかもしれませんから」
ローザが危惧するとおり。
たとえ自分たちが、精神世界なる場所で存分に戦えるのだとしても。
凶暴化しつつあるモンスターの脅威にさらされた、インフォス各地をガラ空きに、全員そろってアポルオンを討ちに向かうわけにはいかないのだった。
「ティセナ様は、朝から魔族討伐に出られていたけれど。彼女には、転移魔法があるから――もし事態が急変したら、すぐに石を介して伝えなさい。いいわね?」
「……うん」
心細そうに、それでもシェリーは両の拳をにぎりしめた。
「シーヴァス様。この森にも魔物が現れる可能性がありますので、警備をお願いしたいのですが」
「ああ、元より離れるつもりは無いがな」
妖精の依頼に剣を抜いて、シーヴァスは、湖畔に程近い大樹の根元に腰を下ろした。
天使が戻らぬまま、夕陽は、緩慢に沈んでいく――
×××××
「どうした、守護天使? おまえの勇者を呪い殺そうという憎い敵に、一矢も報いることなく、ここで朽ち果てるか」
頭上より降りかかった、アポルオンの嘲笑に。
「……っ」
反射的に口をついて出かかる啖呵の数々を飲み込み、乱れた呼気を整える。今は、反駁する気力も惜しい。
「羽は傷つき、足も立たず――その腕では、剣を持つのがやっとのようだな」
この場へ降り立って、どれほどの時が経ったろう。
考える余裕もなく防護壁で身を守りながら、斬りかかっては薙ぎ払われ、避け損ねた深手に回復魔法を施した端から、また弾き飛ばされて。
「つくづく愚かなことだ。ろくに戦えもせん下等種の分際で、我が領域に乗り込んでくるとは」
揶揄されたとおり、事の元凶たるアポルオンには、未だ一太刀も浴びせられずにいた。
地に膝を突いたまま、クレアは無言で砂に爪を立てる。
「……ほう、まだ足掻くか?」
追い詰めた獲物の抵抗をおもしろがるような、相手の語調を不快に感じながら。
立ち上がる動作に伴い、砂地に刻まれた五本線――自ら引きずった指の血痕を、腕からぼたぼた伝い落ちる緋色を、まるで他人事のように眺めていた。
「まあ、そう簡単に倒れられては、こちらとしてもつまらん」
ずしん、ずしんと近づいてくるのは、堕天使の僕たる巨象の足音。
関節や神経をやられてしまっては動けなくなるから、痛みを感じるのは身体機能が麻痺していない証で、意識も薄らいでいないということで、そうでなくては困るのだけれど。
初めに抱いた恐怖や、流れる血の熱さは、すでに何処かへ吹き飛んでしまったような気がする。
「生贄たる貴様には、手の施しようもなく穢れ堕ち、苦痛に喘ぎながら死んでもらわねばならんのだからな……」
アポルオンが含むところは、正直、クレアには半分も理解できなかった。
ただ、淀みの影響で不安定になった世界の “理” は、守護天使の存在によって、多少なりとも繋ぎ止められている部分があるはずで。
だから鍵だの、人柱だのは、そのことを差しているのだろう。
天界から派遣された自分が潰えれば、インフォスに残された数多の命はまた削がれる。けれど、
「案ずるな。こんなちっぽけな星など、混沌が目覚めれば――」
こちらの策にまるで気づかず、己が優位を確信しているらしい堕天使の態度に、ふと緩みそうになる感覚を引き締める。
……だいじょうぶ。
手間のかかる “仕掛け” は、さっきの一筋で完成して。
フィアナを苦しめていたこの男は、自ら、燃やすものを持たず燻る火種に油を投じた。だから、もう。
(怖がらなくて、だいじょうぶですよ……)
昏睡状態の勇者へと、心の内で語りかけるクレアに。
あと一歩という位置まで迫り、その身体を吊るし上げようと伸びてきた巨象の鼻が、突如じゅっと真白に燃え上がった。
「――なにィ?」
パオオオオ、と主を振り落とさんばかりの勢いで咆哮する、猛獣の背で。
ここへ来て初めて、焦りに表情を歪ませたアポルオンの身体ごと、轟と貫くように無数の光槍が迸る。
「う……ウグァアアアァア!!」
縦横無尽に襲い来る、閃光に灼かれながら。堕天使は、両手で押さえた目を眇め、身をよじり激しく吐き捨てた。
「これは、浄化―― “ディサス” か!?」
さすがに、対ガーゴイルのように一撃必殺とはいかなかったが。それでも切り札の魔法は、確かに敵の退路を封じて捕らえ、その膨大な瘴気を相殺しつつあった。
「詠唱も魔方陣さえ無しに、高位攻撃呪文だと……貴様、その程度の聖気で、いったい……ッ」
「“窮鼠猫を噛む”って諺、ご存知ですか?」
あまり類を見ないであろう術の性質を、あっさり見抜くあたりはさすがと言うべきか。
クレアは、ふらつく足をブロードソードで支えつつ、火のついた鼻を振り回して暴れる獣を避け、軋む翼に鞭打って宙へ逃れた。
「剣術は、元々からっきしダメですし。あなたが私の能力を、把握していても、いなくても――のんびり大技の呪文を唱えさせてくれるほど、甘くはないでしょう」
だからこれは、一種の賭けだったけれど。
「勇者に呪いをかけた堕天使が、すぐさま標的に止めを刺さず、嬲り殺そうとするのなら。余興として生かされている間に、悟られないよう軌跡を描けばいい」
敵の遣り口は、漠然と睨んだとおりだった。
「……まさか」
台詞が示唆するものを、一瞬、測りかねたようで。だがすぐに、アポルオンの両眼が驚愕に瞠られる。
「貴様――ッ、自分の血で!」
「そのものが魔力を含む、強力な媒介です。術者が私のような下級天使だって、威力は充分に増幅されますよね?」
敵に巣食われ、荒らされたとて。
ここは元来 “邪” に対抗し得る魂を生まれ持った、資質者の精神世界なのだから、なおさらと。クレアは、全神経をブロードソードに集中する。
「……フィアナの心から、出て行って」
切っ先から浸透した魔力は、糧となり。無秩序に吹き荒れていた熱閃が、燦然と鮮やかな純白に輝いて、複雑に形成す幾何学模様を浮かび上がらせる。
「天界の在り方がどうだって、私が、肩書きばかりの役立たずだって――あなたの目論見だけは、阻止します」
眼下でのたうつ人魔を睨み据え、クレアは、声をあらん限りにして叫んだ。
「失せなさい、堕天使アポルオン!!」
とたん、あたり一面に噴き上がった光の奔流が、砂礫を覆い、立ち込める暗雲を切り裂いて、漆黒に浸されていた空間を塗り替えていく。
奇形の象を構成していたアストラル粒子が、乾いた紙粘土のようにひび割れて、足元から音もなく炎に包まれて朽ち。
「まさか天使が、堕天使を罠に嵌めるとは……くっくっ、小賢しい真似を」
撃ち抜かれた己の腕が、さらに腹部が同様に焼き尽くされていく様を、凝視していたアポルオンが狂ったように嗤いだす。
訳が分からず眉をひそめ、それでも魔力放出の手は緩めずにいたクレアだが、
「見てくれはともかく、短慮に過ぎたラスエルとは似ても似つかんな」
「……え?」
続けられた思わぬ台詞に、ほんの一瞬、ただでさえ難しい術の制御を誤り。
「そうやって情に絆されるあたりは、別だがな!」
敵は、その隙を逃さなかった。
鎌首をもたげた黒の衝撃波が、渦巻く炎を押し返し、魔方陣を形成していた光の線を破壊して、
「う、わ、きゃあああッ!?」
突風に煽られたクレアは受身もままならず地面に転げ落ちる。
「多少、貴様を侮りすぎていたようだ……今日のところは退いてやる。だが、二度と同じ手を食うと思うな! 小娘が!」
右肩と脇腹をえぐられ、全身からぶすぶすと焦げ臭い煙を放ちながら、捨て台詞を残したアポルオンはその場から掻き消えた。
「なっ、え? あ!」
苦労して張り巡らせた網を、引き千切るようにして突破されたのだと、認識したときには手遅れで。
「にっ……逃げられ……た……」
厄介な敵を滅ぼせる、千載一遇のチャンスをふいにしたクレアは、へなへなと半ば呆けてへたり込んだのだった。
ラスボスが相手でも、一対一 (+補佐) がお約束のフェバシリーズ。
ファンタジーRPGは数多くあるけれど、この戦闘システムは珍しいよなぁと思います。