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◆ 天使の獣(1)


 オムロンを発った、翌日。
 アルプへ足を伸ばすまでもなく、捜索対象は、自ら天使の前に姿を現した。
 怯え竦んだかのごとく動かず、焦がれたように真っ直ぐ――緑成す木々の間、こちらを見据えた青い獣。
「ジャック!?」
 狼狽もあらわにクレアが駆け寄っていき、反射的に身構えていたシーヴァスは、剣の柄にかけた右手をやや遅れて下ろす。
「あなた、ジャックハウンド……でしょう? 私のこと分かる?」
 控えめに問いつつも、確信して譲らぬ口調で。
「子供の頃に何回か会ったきりだから、忘れてるかもしれないけど。守護天使だった、ラスエルなら知ってるわよね?」
 鋭利な角を生やした頭部を包み込むように、彼女は、ゆっくり両腕を伸ばした。
「あのね、勇者ナーサディアが生きてるの。遠い昔にかけられた魔法の影響で――だから、兄様も生きているはずなのに、どこにも居ないのよ」
 直に触れられ切々と訴えられた、獣は瞑目したまま答えない。
「ねえ、なにか聞いてない? インフォスが、また魔族に侵入されてることは気づいてた? ヤルルっていう男の子と一緒にいるの、天界へ戻って来なかったのは、どうして?」
 積もり積もった疑念を吐きだしたクレアは、おそるおそるといったふうに訊ねる。
「…………喋れなくなっちゃった……の?」
 色合いの異なる青い虹彩で、じっと天使を見つめ返した、ジャックハウンドは首を横に振り。
「久方ぶりだ。クレア殿――」
 観念したように口を開いた、その様をシーヴァスは驚嘆しつつ眺める。
 流れる声音は穏やかに低く、獣という先入観がなければ哲学者めいて聴こえたろう理知的なものだった。
「!」
 名を呼ばれたクレアが、ほっと表情を綻ばせ。
 だが、ジャックハウンドは苦しげに視線を逸らすと、おもむろに跪き項垂れた。
「……救いを願う者が、います」
 再会の懐かしさや歓びは押し殺され。空は薄曇り、光差さぬ森の中。
「すく、い?」
 当惑して立ち尽くす、翼ある娘の足元。
 身を縮め、うずくまった獣の姿は、まるで宗教画――天の裁きを恐れ待ち侘びていた、咎人のように映った。


×××××


 オムロンとアルプの中間地点にある、集落の宿屋にて。
 ヤルル・ウィリングは病床に伏していた。

「こんにちは。あなたが、ヤルル君?」
 そうだよ、と応えた少年は、旅先の自分を訪ねてきた見知らぬ女性に、好奇心と訝しさが入り混じった眼を向け、
「あれっ? 騎士の兄ちゃん」
 後ろに控えたシーヴァスに気づくなり、素っ頓狂な声を上げた。
「久しぶり……という程でもないか。また会ったな」
 しかしブルスト山脈で遭遇したときに比べ、あきらかに痩せ細っており顔色も優れない。
「近くの森で “ラッシュ” に出くわした。南大陸一帯で疫病が流行っていると聞くし、まさかとは思ったんだが――」
「ラッシュに? 僕、なんだか具合悪くてさ、しばらく外を歩けそうになくって……寒がったり、おなか空かせてなかった?」
「心配するな。賢そうな獣だ、食料くらい自力でどうにでもするだろう」
 ジャックハウンドを伴っては間違いなく入村を拒まれる。そのうえウィリング家に関わる、彼の “罪” を聞かされては滅多なことも言えない。
「主人の帰りを待っているようだぞ。君は、早く病を治すことだな」

 そうでなくとも、村の住人たちは余所者へ対する警戒心がひどく強く――まずヤルルを迎えに来た旨を伝え、実体化したクレアの虫も殺せぬと思われる容貌、人当たりの良さも幸いしたからこそ門前払いを食らわずに済んだのだ。

 ここへ赴いた理由については適当にぼかし、シーヴァスは、少年に連れを紹介した。
「彼女は、クレア・ユールティーズ。医者の卵だ」
「あなたが元気になって、お母さんのところへ帰れるように手伝いたいの。容態、診させてもらってもいい?」
 ベッドサイドに屈みこんだ彼女を眺めやり、納得したように頷きかけたヤルルの、表情が懸念にひそめられ。
「……いいけど。それ、誰かに話した?」
 彼の言わんとするところが掴めず、シーヴァスは、天使と顔を見合わせる。
「僕を泊めてくれてるおじさんが言ってたんだ。子供ばっかりかかる原因不明の病気で、治療法が分からないんだって」
 寝巻き姿でベッドに横たわり、枕に背を預けたまま、少年は焦れったそうに訊ねる。
「お姉ちゃんも、治し方は知らないんでしょ?」
「ええ、ごめんなさい――だけど調べて、探してくるから」
「ありがと」
 ぎゅっと手を握られて照れくさそうに笑い、はたと眉根を寄せた、ヤルルは 「でもね……」 と後を続けた。
「それ、言わない方がいいよ。出来ないんなら」
 傍らのクレアを覗き込むように、ひどく真剣な面持ちで。
「だいじょうぶだって、治せるって、はっきりするまで――お医者さんだってことは秘密にして? でないとディアン先生みたいに、酷い目に遭わされちゃうよ」
「ディアン?」
「……先生って」
 思わぬところで飛び出した固有名詞に、天使と勇者はその場で固まった。
「三日前まで、お医者さんが村にいて、僕たちの看病してくれてたんだ。前にどこかで見たことある症状だって言ってたけど」
 知人とさえ呼べぬ間柄だが。
 直に顔を合わせた時間は半刻足らずでも――鮮烈に脳裏に焼きついた、鈍色の影は。
「抗生物質とか、解熱剤……? そういうの、あんまり効かなかったみたいで。僕より、だいぶ前に感染してた子たちが、次々に……それで村の人たちも、どんどん神経質になってきて。医者のくせに治せないのかって、先生、ひどい陰口叩かれるようになってさ」
 窓の外からも聞こえてたんだと、込み上げる腹立たしさに頬を膨らませているヤルルは、見舞い客の動揺にはまるで気づかぬ様子で。
「昔、わざと患者を見殺しにしたとか、ディアン先生が疫病の元凶だなんてムチャクチャな噂もあったよ。それでも諦めたくないって、夜もほとんど寝ないで僕たちの傍についててくれたのに」
 不満を漏らせる相手もいなかったんだろう、ほとんど一方的に話し続ける。
「みんなが不安がるから、治せないなら出て行ってくれって――村に居られなくなっちゃって」
「……ヤルル。ひとつ尋ねるが」
 この広いインフォスに、同名の別人が存在しても不思議はないだろうと、
「そいつは背が高い、銀髪の男か?」
 強引に結論付けようとしたシーヴァスの試みは叶わず、少年はあっさり 「うん」と肯いて寄こした。
「怖くはなかった……か」
「なんで? 優しい先生だったよ。僕のこと、助けてくれるって一生懸命だった」
 心外そうに口を尖らせ、そこで気づいたように首を巡らす。
「お兄ちゃん、もしかしてディアン先生を知ってるの? お医者さんだから、お姉ちゃんの知り合い?」
「知り合い、というか――」
「昔ね、ちょっと同じ村に居合わせたことがあるだけで、どういう人かは知らないんだけど」
 苦笑いした二人が語尾を濁し、ヤルルは残念そうに 「そっかぁ」 と肩を落とした。
「病気が治ったら……先生、探しに行かなきゃ」
 もう父さんは探せないからと、独り言のようにつぶやいて。
「先生が追い出されたとき、僕、眠ってて気づけなくて。ずっと親切にしてもらったのに、お礼も言えなかったんだ……」
 素直に謝意を口にする少年を前にして、シーヴァスは、なんと答えれば良いものか分からなかった。



 ヤルルの容態について、天使は、なんらかの毒素に侵されているようだと告げた。
 エミリア宮の医学書では類を見なかった、おそらく人間特有の病であり――自分の手には余る、と。
『タンブールに医師協会があると、村の方々から教えていただきました。治療法は確立されていないと聞きますが、なにか新しい処置方が見つかっていないとも限りませんし……直接行って、話を伺ってきます』
『ならば私は――しばらく村に滞在して、近郊の魔物退治に励むとするか』
『いいんですか?』
 懸念と安堵がない交ぜになった表情で、眉をひそめたクレアを、
『子供しか感染しないんだろう? 南大陸全土で蔓延しているなら、どこへ逃れようと大差ないしな』
 シーヴァスは、あえて飄然とした態度で送り出した。
『だが、なるべく早く戻ってきてくれ。モンスターの脅威は凌げても、私に、流行り病を治す “力” は無いんだ』
 しばらく同行することとなった、青の神獣を傍らに。

 難病の噂に人心が荒んでいる影響か、山林部では、凶暴化した怪物とひっきりなしに遭遇した。
『……お強いな。シーヴァス殿』
 さすが勇者として選ばれた人間だと、ジャックハウンドは呟いたが。
 シーヴァスは、かつて天使に仕えていたという獣の戦闘能力にこそ、舌を巻いていた。
 鋭利な牙と角に、重力を物ともせず跳躍する四肢。あざやかな反射神経と、敵を追う動体視力――自分への害意がないと知り、背を預けて剣を振るうには頼もしい相棒だが。
 こいつに襲われては、田畑を荒らす害獣駆除がせいぜいの、長閑な田舎町などひとたまりも無かっただろう。




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ディアンのイベントに、ヤルルを絡めてみる。
必殺仕事人なお医者さんも、子供には無条件に優しいと思います。むしろライザ嬢の影響と思われ。