◆ アポルオン復活
出航したヘブロン行きの旅客船が、そろそろリメール海の中心に差し掛かかろうという真昼に。
「クレア様! 至急クヴァールへお戻りください――ヴォート地方に、また敵が」
血相を変えた妖精が、蒼穹を縫って急降下してきた。
「何事だ?」
「どうしたの、ローザ」
普段の礼儀正しさは成りを潜め、挨拶も無しに、訝るシーヴァスとクレアを見上げてまくしたてる。
「堕天使アポルオンが、実体を得て現れました!!」
「アポルオン……!?」
未だ記憶に新しい、その名は。
「フィアナ・エクリーヤを呪い殺そうとした、例の敵か?」
「はい。フィアナ様は一足先に、現場へ向かわれました。あと30分と経たず到着なさるはずです」
真っ青になった天使は 「分かったわ」 と肯いたが、翼をはためかせかけたところで、気後れしたように振り返る。
「早く行ってやれ、クレア。いくら腕の立つ女剣士といえど、堕天使に単身挑んでは不利だろう」
「でも、あの。シーサーペントとかが襲ってきたら」
「そんなモンスター、どうとでも一人で対処できる……それとも、放っておいたら入水自殺しそうに見えるのか? 私が」
躊躇の原因に見当をつけたシーヴァスが、平静を装いつつ苦笑してみせると。
「え? う」
「もう15年も昔のことだ。原因がなんであれ、ヨーストが焼かれた事実は変わらない――いまさら、だろう。もちろん多少、驚きはしたがな」
図星を突かれたらしいクレアは、おろおろと首を縦へ横へ振って困り果てた様子で項垂れた。
「……なにか、あったのですか?」
急かすように旋回しながら、ローザが不審げな眼を向けてくる。
「堕天使の手先が、自爆して死んだ――それだけだ。べつに、たいしたことじゃない。どのみち私にかまっている場合ではないだろう? レイヴの行方も分からない、いまは各地の探索に重点を置くべきだな」
重ねてうながされた、天使は逡巡するように眉を寄せたあと、
「アポルオンと決着つけたら、すぐに戻りますから!」
焦りもあらわに言い置いて、ローザと共に、船の進路とは逆の方角へ飛び去っていった。
「…………」
二人を見送ったシーヴァスは、甲板の隅で、潮風に吹かれながら深い息をつく。
正直、今は――独りでいたかった。
誰とも居たくなかったからこそ、事件発生にかこつけ。
クレアたちを遠ざけられて、確かに、ホッとした。安堵したはずだった。
けれど何故か心臓の、軽くなった部分とは別のところが鉛でも飲んだかのように、疼き、不愉快で。
鮮やかな紺碧が、ふと、風化しつつあった記憶を呼び起こす。
くすぶる黒煙と紅蓮。
逃げ惑う足音、がらがらと焼け落ちる街並み。自分の腕を引く手の、感触。走る背中、悲鳴、誰かを呼ぶ声。
『海へ逃げるんだ! そうすれば、炎は追って来れないから――』
柵に凭れていることさえ億劫になり、シーヴァスは、ずるずると甲板にへたり込む。
……なにも考えたくなかった。
さっさと忘れてしまうに限る、モンスターの戯言など。
忘れ、なければ。
×××××
「フィアナ――って、あら?」
全力で駆けつけ、とにもかくにも回復をと魔法の発動体勢に入ったところ。
「遅っそーい! クレア」
つい先日届けたばかりで新品だったバスタードソードを血糊と砂埃だらけにした、勇者は、得意げに晴れやかに笑った。
「あ、アポルオン!?」
「……ぼっこぼこ、ですね」
隣のローザも、白目を剥いて倒れた巨象の下敷きになっている堕天使を、呆然と眺め下ろす。
「べらべら能書きたれて、うるっさいから先制攻撃かましてやったの」
降りといで、とクレアを手招いた彼女は、しっかりアポルオンに聞こえる程度に声をひそめて耳打ちする。
「そうしたら、アッサリこのとーり。陰湿で偉ぶってるくせに見かけ倒しな野郎って、最悪だと思わない?」
「み、みかけだおし――」
「クレア様を呼んでくるから待機しててくださいって言ったじゃないですかぁあ! 相手は仮にも堕天使なんですよ!?」
宿敵のあんまりな言われように卒倒しかける天使、絶句から立ち直ってわめく妖精。
「だってコイツ、どっしんどっしん街の方へ向かってたしさぁ。どう見たってあたしより弱そうだったんだもん」
「復帰後、これが初戦闘でしょう? 深手を負わされて、絶対安静くらいじゃ済まなくなったらどうするつもりだったんですかッ」
「殺るか殺られるかギリギリの世界で生き抜いてきた、賞金稼ぎ様を舐めるでないよ」
フィアナは説教に怯むどころか、どーんと胸を張った。
そうして急に、真顔になって言う。
「さてっと、積年の恨みを晴らすのは後回しにするとして……いろいろ、聞き出さなきゃいけないことがあるんだろ?」
「ええ、まあ」
『――死に損ないの小娘風情が、威勢の良いことだ』
投げかけられた地を這うアポルオンの重低音に、クレアはローザと、半ば条件反射で後ずさるが。
「ふん! その弱っちぃ女二人に返り討ちにされてりゃあ、世話ないよ」
フィアナはまるで動じず、それでも油断なくバスタードソードをかまえて、堕天使を睨みつける。
「人間は脆いだの、相手が下級天使だから油断しただけだの、ごちゃごちゃ言い訳してたけど……結局、あたしの魂を人質にして誘き出さなきゃ、クレアと戦う度胸も無かったんだろ? 呆れた臆病者だね」
冷たく突き放した中にも燃えたぎる怒気を含む、そんな声音だった。
「覚悟しなよ、父さんと母さんの仇――このフィアナ様を狙ったこと、泣いて後悔するくらい徹底的にいたぶり倒してやるから」
『 試作段階の “シェード” を壊したくらいで思い上がるなよ、天使の勇者 』
「……ねえ、ローザ。いま、アポルオンの口って動いた?」
「いえ。なにか直接、脳内に響いたような」
眉をひそめた妖精と一緒になって、クレアは首をひねる。
「だからさぁ。捨て台詞なら、もうちょっとマシなの吐けば? ……って、なに? しぇーど?」
どうやら同じ疑念を抱いたらしい、勇者が慎重に距離を測りつつ、
「ちょっと待ってよ、あんた何処からしゃべってんの?」
バスタードソードの剣先で堕天使の腕を突いた、とたんアポルオンは、巨象ともども大量の砂礫と化して崩れ落ちた。
「うわっ!?」
さすがにギョッと顔色を変えた、フィアナが飛び離れ。
『自らの手を汚さぬよう、愚かな人間を言いくるめ戦わせる――姑息な神の眷属に、ずいぶん肩入れしているようだが』
クレアは、さっと身構えた。
堕天使の実体は、ここに無い。アストラルサイドに潜んだまま “干渉” してきている。
『そもそも我らの力を恐れた天使どもが、地上界を盾に据えるような真似をしなければ、貴様の両親が死ぬ必要も無かっただろうになぁ? 人間の娘よ』
今度は疑いようもなく響いた耳鳴りのような声、示唆された事実に、思わず言葉を失うが。
「……あんた、バッカじゃないの?」
呼びかけられた当の本人は、顔色ひとつ変えずに吐き捨てた。
「どっかに隠れてるみたいだけど、あたしの声は聞こえてるんだね? 五歳児の胸に変な痣つけたうえ、こそこそ付き纏ってやがった変態ロリコン野郎が!」
「完全回復されてますね、フィアナ様……」
「変態は分かるけど、ろりこん、ってなに? ローザ」
勇者の反応はおろか言葉の意味さえ掴めなくなった、クレアは、置いてけぼりを食らった気分で訊ねる。
「気にしちゃいけません、クレア様」
妖精は有無を言わさず、質問そのものを封じ込めた。
「いいかい? 相手が弱そうだからって手抜きしてやられるような奴はねえ、しょせん二流なんだよ! クレアに面倒かけるまでもない、いつか隠れ家ごとぶっ潰してやるから覚悟しときな!!」
『減らず口を――』
それきり、アポルオンの返答は途絶え。辺りを窺っていたローザが、ふうっと肩の力を抜いた。
「ひとまず “引っ込んだ” みたいですね」
「さすがにちょっと弱すぎるとは思ってたけど、偽者かぁ……あれ、シェードっていうの?」
「私も、あんな術を見たのは初めてで」
さっきまでアポルオンの形をしていた砂の塊に、おそるおそる近づいたクレアは、半ば埋もれるように挟まった黒い札を見つけ、しばし考え込む。
「おそらく呪符に魔力を込めて、実体を持たせた操り人形みたいなもの、だと思います」
フィアナは 「そっか」 と頷いた。
そのあっけらかんとした表情に、クレアは逆に、いたたまれなくなって頭を下げる。
「あの、ごめんなさい!」
「なに? 遅いって言ったことなら、冗談よ? 勝てるって判断したから、あんた待たずに戦ったんだもの」
「到着が遅れたことも、ですけど――私たちが巻き込まなければ、ご両親は死ななかったって」
するとフィアナは目を瞠って、むーと唇を尖らせるなりクレアに拳骨を見舞った。
「あのねえ、堕天使と同レベルの馬鹿になってどーすんの?」
「バ……!」
鍛え抜かれた右手の骨部分に直撃された脳天は、冗談抜きにくわんくわんと痛んだ。涙目でうずくまる天使を前にして、ひいっと青褪めるローザ。
「ななな、なんてことなさるんですかぁ!」
「なにもクソもあるかい。両親を殺して、あたしに変な呪いまでかけたのはアポルオンなんだよ? あんたたちと出会って勇者になったのは、二十年近く経ってからじゃないか――それも気まぐれで引き受けた話なのに、天使と関わらなければって? こじつけにも程がありすぎて、笑っちゃうよ」
ばーかばーかと、空を仰いで毒づく。
「それ言ったらさ。あたしさえ居なければ、父さんと母さんは殺されなくて済んだのかなって思うけど」
「そんなこと!」
あわてて首を振ったクレアに、
「うん、考えちゃうのは仕方ないんだけどね……やっぱり、それは違うと思う。両親が出会って、母さんがあたしを産んで、あのとき父さんがアポルオンから庇ってくれた。それから育ててくれたエレンと、教会のみんながいて」
フィアナは指折り数えながら、笑って応じた。
「交易ギルドに出入りしてる連中は商売敵だけど、たまに協力したりもして――それで、無茶ばっかりする天使様が呪いを解いてくれたから、あたしは生きてる。あんたとあいつ、どっちを信じるかなんて考えるまでもないだろ?」
そうして蹲ったままの、クレアの手を引っぱって立たせる。
「だからさ、堂々としてなよ? 勇者を巻き込んだなんてふうに考えて、守護天使の任務がなおざりになったら、それこそ堕天使の思うツボじゃないか」
「そうですよ、クレア様!」
ローザが意気込んで声を張り上げ。
「だけど……あなたが、いま危ない目に遭ってるのは。私が勇者に選んだから、ですよね」
「声かけてきたのが誰でも、なるって決めて続けてるのは、あ・た・し!」
フィアナは、きっぱりと断じた。
「そりゃ、そんなにキレイには割り切れないけど――迷惑かけたりかけられたり、キツイときには手を貸してもらってさ。生きてるってそういうモンじゃないの?」
次いで、少し気恥ずかしげに目線を逸らすと、頬を掻きつつぽそりと言う。
「あんたたちは確かに “天の御遣い” なんだろうけど。あたしは、勇者とか任務とか抜きにして、遠慮なく付き合える友達が出来て良かったって思ってるんだけどな」
クレアとローザは、ぱちぱちと目を瞬いた。そこに恨みがましく、文句をつける女剣士。
「……なんで二人そろって赤くなるかね」
「いえ、あのその」
頭に血が上っているのを自覚しつつ、やっとのことで答える。
「天使と勇者、より――お友達だと嬉しいです」
「に、任務以外の時間であれば、個人的に親睦を深めるのは悪いことではないと思います」
苺かリンゴかというほど赤面したローザも、表情だけは澄まし咳払いしつつ、照れ臭そうに言った。
「じゃ、まあそういうことで」
くるっと踵を返したフィアナの横顔も、つられたように真っ赤だった。
「さぁーて! トカゲの尻尾を叩いただけ、になっちゃったのは悔しいけど……決着つける日に備えて、寝っぱなしで鈍った身体を鍛え直しとかなきゃね。帰ったら修行よ、修行ー!!」
シーヴァスさんは逃げの姿勢。フィアナがあっさり辿り着いた結論が、けっこうな茨の道だから。クレアに、勇者がどんな葛藤を抱えているかは分からない。親を失う痛みを知らないから。