◆ 流離う想い
「な、なにやってるんですかナーサディア!?」
「お酒、呑んでる……」
「そういうことを訊いてるんじゃありません!」
眼前の光景に、クレアは唖然と立ち尽くしていた。
「こんな大量にいっぺんに呑んだら、おなか壊して死んじゃいますよ!」
「死にゃしないわよぅ。だあって私、何十年経っても若いままだもーん♪」
カウンター席に座って、ふにゃふにゃと答えるナーサディアは、呼気を確かめるまでもなく泥酔しており。
「お金はギャンブルで増える一方、時間も捨てるほど余ってるし? 出くわすモンスターだって “クィーンウイップ” で一捻り、向かうところ敵なしぃ!!」
いつぞやと異なり、調度品が散乱したりグラスが割れてはいないが、
「だから、世界中のお酒を呑みつくす旅に出ちゃおうと思って……手始めに、ここに置いてある銘柄ぜんぶ制覇するの……店ごとお買い上げ」
勇者の左右、細長いテーブルに、ずらりと色とりどり並べられた代物は。
「これがね、今日20本目。さっきめでたく空っぽ〜♪」
どうやらナーサディアが中身を空けた、酒瓶の数々のようで。
「1日24本、1週間で170本くらいでしょお。1ヶ月したら――はぁ、掛け算めんどくさぁい」
指折り数えながらも、途中で計算を投げ出してしまい。
「けど、軽く500本はいくわよね……そーだ、クレアちゃん。なにかおつまみ作ってぇ? 従業員やマスターも、もう閉店時間だからって帰っちゃった」
無人のバーをくるりと眺め渡しては、紅を引いた唇を尖らせる。
「いくら私が気心知れてる常連だからって、お客ほっぽって行っちゃうなんてプロ失格よねぇ――」
同意を求められても反応できぬまま、呆けていたクレアだが、
「あ、あと。そこの栓抜きも取って〜」
美貌の酔っ払いがフラリと手を伸ばすのに、
「ダメ!」
ようやく我に返って、ひったくった栓抜きを懐へ隠す。
「不老と不死は違います、身体に悪いことは悪いんです! これ以上暴飲して、胃が破裂でもしたらどうするんですかっ?」
「…………」
ナーサディアは、きょとんと鳶色の瞳を瞠り、
「うっそぉ、怒った?」
次いで、クレアを指差すと笑いだした。
「きゃははは、顔こわーい♪ 胃が破裂も怖いわ〜!」
「こ、怖い!?」
「出会ったばっかりの頃は、おしとやか〜で優しげで、怒鳴り声ひとつ上げるにも遠慮がちにしてたのにねぇ? 天使でも人間でも変わるもんだわ」
「そ、そんなに……?」
自分の頬を押さえ、わなないている天使をおもしろそうに眺めやり、
「あら。気にしちゃってるの?」
「だって、こんな短時間のうちに二回も、怖い顔とか言われるなんて――」
「なになに、それって誰から?」
「なんだか私が、変な怖い顔していたみたいで……昼間、シーヴァスに笑われました」
「やだ、それ傑作っ!」
返事を聞くなり、片手で腹を抱え、もう一方の手でテーブルをばんばん叩きながら笑い転げて。
「笑わないでくださいってば!」
「笑うわよぉ! お祝い、祝杯!!」
「なんなんですか、さっきから? ちっともおめでたくないです!」
「じゃあ自棄酒ほらほら」
カウンターに置いてあったグラスを、ぐりぐりと人の頬に押しつけてくる。残っていた中身が飛沫となって飛び散るのに、
「お酒は、ダメ!」
辟易したクレアは、栓抜きに続いてグラスも奪い取った。
「ケチぃ、堅物、いじわる天使〜」
「なに言われたってダメなものはダメです!」
「なぁによう! ちゃんと貸し切ったし、備品だって壊してないのに。日々一生懸命働いてる勇者様の、ささやかな楽しみに文句つけるの〜」
駄々をこねる勇者に、一歩も退かず反論する。
「二日酔いになったら、ナーサが寝込んで大変だろうから言ってるんです!」
「…………」
とたん、ナーサディアの瞳が潤み。
うわあぁあああん!
いきなり顔を覆って泣きだした、その音量ときたら。いつだったか森で保護した迷子にも匹敵するほどで。
「あ、あの? ナーサディア? なにも、お酒そのものを否定してるわけじゃないんですよ? 呑みすぎが身体に良くないだけで――」
宥めようとクレアが寄り添えば、抱きついてきて、ますます激しく泣きじゃくる。
(絡み酒だけじゃなくて、泣き上戸……)
ローブの膝あたりは、すっかりハンカチ代わりになってしまった。
しばらくして。
ようやく落ち着いた彼女を、階上の寝室まで連れて行って。
「――あの」
「なぁに?」
「泣かせてしまうほど怖かったですか?」
おそるおそる訊ねると、ベッドに横になっている勇者は 「やだ、違うわよ」 と苦笑した。
「お母さんに叱られたからって泣くような歳じゃないもの、私は」
ベッドサイドに掛けていた、クレアは脱力してしまう。
(……誰が、お母さんですか)
生きている絶対時間を考えれば、確かに自分の方が長いだろうけれど。一応、19歳で年下なのに。
ああ、だけどまだインフォスへ降りたばかりの頃――グリフィンの私生活にあれこれ口を出して、
『おまえはオレのオフクロか? ああ!?』
そんなふうに迷惑がられたこともあったような?
「ごめんね、困らせちゃって。みっともないとこ見せたわ……って、いまさらね」
「もう。いまさらすぎ、ですよ」
さすがに慣れた――免疫が出来たからといって、上手く窘められるわけじゃないけれど。
「ホント、言うようになったわよねぇ」
ナーサディアは、しみじみと感慨深げに呟いた。
「昔のあなただったら、きっと “そんなことないです、気にしないでください” って答えてたわよ」
「えっ」
クレアは、少し焦った。
もしかして気の緩みから、勇者たちに対して礼儀を欠いた振る舞いをしていただろうか?
「す、すみません」
「いいのよ。変な遠慮しないでくれた方が嬉しいわ、私はね」
首を横に振った彼女は、ぽつりと言う。
「……さっき、私のこと “ナーサ” って呼んだでしょ」
「? 呼びましたっけ」
酒場や劇場の人間から、そんなふうに話しかけられているところを見た覚えはあるが。
「そうよ。ラスエルもね、生真面目っていうか鈍くて――勇者と天使の関係越えるの大変だったんだから!」
力説するナーサディアは、懐かしむような眼をしていて。
「だけど押したり引いたり、がんばった甲斐あってね。やっと愛称で呼んでくれるようになって……あのときは嬉しかったなぁ」
そうか――
ラスエルを思い出した、涙だったのか。
「嫌、でしたか? 私が “ナーサ” って呼んだの……」
「そういう訳じゃないんだけど。やっぱり翼があると、無意識に彼を重ねて見ちゃうのかしらね」
微苦笑を浮かべた、彼女は、
「ティセナもね、前に一度 “ナーサ” って呼んでくれたことがあったんだけど。そのとき私、よっぽど変な顔しちゃったんでしょうね。それっきり」
気を遣わせちゃったかしらと、顔をうつむけ。
「……ずっとね、考えてたのよ」
ややあって再び話しだした、声音は少し翳っていた。
「ラスエルが私のことなんか忘れて、どこかで幸せに暮らしてるなら。天使に恋した、バカな人間の勘違いってことになるんだろうけど――」
「そんな筈ないですよ、ナーサディア!」
現に時を留めている、ふたつの魔法がある以上は。
「そうね、でも……」
クレアの言葉にも、彼女の表情は晴れず。
「あの約束が本物だったら。インフォスへ戻りたくても戻れない状態でいるなら――彼が、無事でいるとは思えない」
おそらくは互いに、故意に目を背けようとしていた事実を指摘する。
「……思えないわ」
想い悩んだとて、なにも変わらない。
ラスエル・ヴァルトゥーダの所在が判明しない限りは。
「ねえ、クレア」
冷やりと落ちた沈黙を紛らわそうとするように、ナーサディアは、こちらの袖を引いてねだった。
「ラスエルの話、して?」
「兄様の?」
問い返して、ようやく思い出す。そもそも今日は、ジャックハウンドのことを伝えに来たんだった。
「あ、そうだ! ひとつ報告できることあります。任務先で――」
「ううん、そうじゃなくて……私が知らない彼のこと。まだ、天界で暮らしていた頃の」
「天界?」
話を遮られたクレアは、困惑して考え込む。
「インフォス守護に就任する前って意味ですか? だけど、具体的にどういったことを――」
「なんだってかまわないわよ。お兄さんと妹の、思い出話……みたいな」
今にも眠ってしまいそうな口調で、ナーサディアは言った。
「任務の話は、ちゃんとお酒が抜けて――明日、起きたあと聞くから」
純白の天使はルディエールを 「ルディ」 と呼ぶけど、無印天使は 「ナーサ」 とは呼ばなかったなぁ……親密度で変化があればおもしろかったのに、とか。些細なことが気になってしまう今日この頃です。