◆ 惑う心
「……デュミナスとの国境で、か」
「うん。ナーサディア、今はカノーアから離れたくないらしくって――向こうまで、来れそう?」
ガルフ郊外に広がる、湖の辺に並んで座って。
クレアは、神獣と話をしていた。
「ああ、問題ない。少し遠出してくると言えば済む距離だ」
ヤルルが “竜の谷” へ招かれて行くときを待つまでもないと、ジャックハウンドは答えた。
「明日にでも北へ発ち、ナーサディアに会って……嗅ぎ取れる痕跡が周辺に無いか、私もボルサを探ってみようと思う」
「そうしてもらえたら、助かるわ。私の感覚だけじゃ、なにか見落としているかもしれないし――」
しばらく離れていたとはいえ、長年、兄に付き従っていた神獣の嗅覚なら。残り香を判別できるかもしれない。
生物の魂はひとつきりである以上、たとえ堕天しても、本人なら “ラスエルの匂い” がするはずだ。
「ええっと、明日? 明後日かな。何時くらいに、迎えに来たらいい?」
「……私を連れて、デュミナスへ渡るつもりか?」
「もちろん! 私は転移魔法を使えないから、ジャックを抱えて海を飛ぶようになるけど」
やっぱり誰かに目撃されたら、幽霊扱いされかねない点が引っ掛かるんだろうか。
「なにか、まだ都合悪かった?」
「いや。私も、ナーサディアとは百年ぶりの再会になる。共に居てもらえれば、さほど緊張せずに済みそうだが――」
首を左右へ振りながら、ジャックハウンドは唐突に、妙なことを言いだした。
「シーヴァス殿には、付き添っていなくて良いのか?」
「シーヴァス?」
脈絡なく出てきた名前に、クレアは目を瞬いた。
「どうして? 最近は大きな戦闘が無くて、前に会ったときも体調は良さそうだったから、今のところ訪問予定じゃないわよ」
「そうか……ならば、私の思い過ごしかもしれないが」
前置きして、神獣は話を続けた。
「半月ほど前だったか。シーヴァス殿に会った――旅の途中に、ガルフを通りがかったらしいんだが」
「うん。戦力配分のバランスを取る為にもって、船に乗って、クヴァールへ移動してくれてたから」
確かにもう、南大陸へ到着している頃合である。
「それだけにしては、様子がおかしかった」
「え? どこか怪我してたの!?」
ぎょっとしたクレアが詰め寄ると、
「そういったことではなく……終始上の空というか、ひどく思い詰めているようだった」
難しい顔つきで考え込み、けれど、
「彼には疫病騒ぎの折も、世話になったからな。借りを返す為という訳ではないが――私に話せることなら、話してくれないかと訊ねてみたんだが」
いまいち適した表現が浮かばないのか、歯切れ悪く言う。
「結局、なにも聞けず。答えは “なんでもない、疲れているだけだ” の一点張りだった」
「……そう」
確かに、気ままに振る舞う側面はあるものの
「シーヴァスの行き先なら、だいたい分かるから。ちょっと会いに行ってくるわね」
他者に弱みを見せたがらない青年が、そんなぎくしゃくした様子でいたという点は解せない。なにかあったんだろう。
「すぐ戻るから、またこの湖で待っててくれる?」
「かまわないが。それでは、貴女が落ち着かぬだろう」
ジャックハウンドは、ふるふるっと首を振った。
「私は私でデュミナスへ向かっているから、話が終わったあとで合流してもらえれば充分だ」
「デュミナスにって……さすがにヤルル君が一緒じゃないと、船には乗れないでしょう? どんなに駿足だって、南大陸から回り道してたら、いくら時間があっても足りないじゃない」
「泳げば数時間の距離だ」
「およぐ?」
なにを指した言葉かとっさに分からず、
「1日もしないで着けるの? すごい……ジャックって、船より速いのね? ひょっとして私たちが飛ぶより早いんじゃ」
単語の意味を考えて、ようやく合点したクレアは、まじまじと相手を凝視してしまった。
「私が、という訳ではないが」
ジャックハウンドは、苦笑して答えた。
「神獣の端くれだった名残は、今も残っているからな。土地の精霊が “力” を貸してくれる。水と、風の――」
「おおい、ラッシュー? どこー?」
「!」
「もうすぐ晩御飯の時間だよー」
会話を遮って響いた、まだ幼く高い声に、あわてて振り返れば予想どおり。
「……あれっ? お姉ちゃん」
息せき切って丘を駆け登ってきた、縦縞ポンチョの少年が、きょとんと立ち止まるところだった。
「あ、あら。こんにちは、ヤルル君」
天使の存在を明かしても、おそらく、この少年なら素直に受け止めてくれるだろうが。
「ちょっと近くを通りがかったら、ラッシュの姿が見えたから――」
やはり、堕天使の存在など気に病ませたくない。笑ってごまかそうと、傍らの、青い毛並みを撫でてみるクレア。
「…………」
応じて、おとなしく “知人にかまわれている動物” のフリをしながら、ジャックハウンドの背筋はがちがちに引き攣っていた。
幸いヤルルには、さっきまでの話もなにも聞こえていなかったようで、
「うん、ここ僕ん家の近くなんだよ」
無邪気に答えたあと、くるっと辺りを見渡して、不思議そうに問いかける。
「お姉ちゃん、ひとり? 今日は、騎士の兄ちゃんと一緒じゃないの? もしかして逸れちゃった?」
「う、ううん。ちょっと他に用事があって、別行動してるとこなんだけど……どうして?」
「二週間くらい前だったかなぁ。僕、あの人に会ったんだよ」
記憶を辿るように、空を仰いで首をかしげ。
「ふらっとガルフに来て、またすぐ何処かに行っちゃったんだけどね。上手く言えないけど――なんか、とにかく変な感じだったんだ。暗い顔してたし――僕がいろいろ話しかけても、ずっと別のこと考えてるみたいで」
そうして気遣わしげに、眉根を寄せる。
「お姉ちゃんが、お医者さんだし。近くで待ち合わせてるなら、べつに心配いらないかなって思ったんだけど……一人旅だったんなら、もっと引き止めて泊まっていってもらえば良かったなぁ」
「……そんなに、様子がおかしかったの?」
クレアは戸惑い、問い返す。
ヤルルにまで気取られてしまうほど不調だったなら――なにかあったどころの騒ぎでは、ないのかもしれない。
×××××
「なんなんだ、この暑さは……?」
タンブールを目指し、街道を南下して歩きながら。
シーヴァスは、うだるような暑さに加え、胃からせり上がる吐き気と戦っていた。
「まったく、モンスターどもめ。要らぬ手間を――」
毒づきながら、旅路を思い返す。
カノーアとクヴァールを結ぶ定期船を降りたあと、ふと思いついてガルフへ立ち寄り。
ジャックハウンドを問い質そうと思ったが、考えてみれば……あの獣もナーサディア同様、軽く百年以上を生きているのだった。
しかも年月の大半を、シュランク島で独りきり過ごしていたという。そもそも時間感覚が異なる生物に、事の異常さを説いて伝わるかどうか。
なにより、もし天界側の都合で隠蔽されている事実があるとしたら。
一度は道を踏み誤ったとはいえ、天使に仕える獣が、素直に白状するとも思えない。
気づいた時点でヘブロンに居たなら、迷わず、レイヴと話をしただろうが――また航路で引き返すより、タンブールの教会を訪ねた方が、ずっと近い。
同時期に勇者として選ばれた、フィアナ・エクリーヤなら。
……彼女に問えば、はっきりするだろう。
『クレアたちと知り合って何年が過ぎ、その間に、何度22歳の誕生日を迎えたか?』
たとえ教会を留守にしていても、賞金稼ぎのギルドか、とにかく近郊にはいるはずだ――そう考え、タンブール行きの乗合馬車を捉まえたは良かったが。あと二時間もすれば目的地へ到着するというときに、食人花の大群に襲われ、馬車が大破してしまった。
御者や馬、他の乗客にも死者こそ出なかったが、壊れた馬車から放り落とされたときの衝撃までは防いでやれず。重軽傷者を庇いながら戦っては、消耗も普段の五割増しである。
不幸中の幸いというべきか、徒歩20分ほどの距離に集落があったため、ひとまずそこへ彼らを送り届け。
しかし馬車の修理が完了するには1週間近くかかりそうだという話に、待っているより歩いた方が早いなと、こうして炎天下を移動しているのだった。
ただでさえ調子も芳しくなかったところに、予期せぬ戦闘。
疲れたなんてモノじゃない……だが、もうすぐ一息つけると、重い足を引きずって歩きながら。
(――ん?)
あとはもう坂を下るだけという場所まで差しかかった、シーヴァスは、眼下の情景に眉をひそめる。
街が、赤い。
時刻は夕暮れに近く、タンブールが夕陽に彩られる様も珍しいものではないが、それにしては、なにか――妙だ。
(こっちは南……だろう?)
日頃、教会に立ち寄るときは、北から街道を下ってくる。
太陽は西へ沈む。
よって、朱色の陽射しは低く斜めに降りそそぎ、伸びる影も長い――だが今、街並みに陰影は見て取れず。
それどころか砂の黄、樹林の緑、建物の白、土の色すら識別できぬほど、タンブール全土が赤く染まっていた。
紅蓮に揺らめく大気は、市街の中心部から燃え広がっている。
「…………!?」
それが “何であるか” を悟ったシーヴァスは、愕然と、片手に持っていた水筒を取り落とした。
あれは、夕陽なんじゃかない。
――炎だ。
アドラメレク戦、突入なのです。
各勇者のイベントも、この段階まで来ると大詰めって感じですね……。