◆ リメールを往く船の上(1)
「シーヴァスっ!!」
「!?」
「すみませんごめんなさい、あのっ! 船に乗り込んでしまう前に、報告に来れれば良かったんですけど……」
「な、何事だ?」
のどかな潮騒も掻き消して、ばさばさと舞い降りてくるなり、
「ジャックは、リュドラルさんたちが見つけてくれて。ヤルル君とも和解できて――だからその」
至近距離に詰め寄ってきた天使は一息にまくしたてるが、その勢いも急速に薄れ。
「ごめんなさい。クヴァール行き、無駄足になっちゃいます……」
「話は、それだけか?」
拍子抜けつつ問い返してみればまた、弾かれたように 「す、すみません!」 と頭を下げる。
「謝ってもらうほどのことではないが――血相変えて飛んできた理由は、それだけなんだな?」
「はい。申し訳ないです……」
うつむき萎れているクレアを眺めやり、溜息ひとつ。
「……驚かすな。今度はどこで、なにが起きたのかと思ったろう」
深々と垂れたままの頭部にぽんと片手を乗せ、シーヴァスは言い添えた。
「べつに怒ってはいないから、落ち着け」
「でも。ここ最近はレイヴや、アーシェのことでも依頼続きで――やっと、ゆっくり休んでいただけそうなところだったんですから!」
けれど天使は、ぶんぶんと首を横に振りながら。
「まだそんなに陸地も遠くないですし。シーヴァスひとりくらい引っぱっても、空を飛んで戻れると思うんです」
甲板でくつろいでいる乗客の位置を窺いつつ、船の進行方向とは真逆を指す。
「ただ、ヒトの姿を消したり見えなくするような魔法を私は使えなくて。ここさえ、こっそり抜け出せれば、あとは誰かに見咎められる心配も少ないと思うんですけど……」
天使に両腕を掴まれ宙ぶらりんに海上を運ばれていくという、己の姿は、想像してみるとかなりマヌケだった。
「万一のことがあっても困りますし、ティセを呼んで来た方が良いですよね?」
「いいから。とりあえず座ったらどうだ?」
立ち話もなんだからと提案してみれば、なにを勘違いしたか、
「はいっ、なんでしょう!?」
クレアは、神妙な面持ちで板張りに正座してしまう。
「気遣いはありがたいんだがな。空に浮いている姿など目撃されて、奇術師や幽霊扱いされてはそれこそ私生活に支障を来すし――つまらん用で呼びつけ、ティセナに睨まれるのはもっと御免だ」
「つ、つまらなくはないでしょう? 航路でクヴァールへ行って戻るの、私たちには簡単ですけど……人間には長い距離なんだって、確かシーヴァスが言ってたじゃないですか!」
「だから無理に引き返す必要はないだろう? 北大陸に比べクヴァールは広すぎ、国家として統一されていないからな」
シーヴァスは脱力しつつ、天使の申し出を断った。
「ヘブロンには生還したレイヴがいるし、ファンガムのクーデター軍も、遠からずアーシェ殿を旗印に据えた王族派が討伐に発つだろう。ナーサディアもカノーアで暮らしているなら――事件発生に備えて待機するには、私は、南大陸へ渡っていた方がバランスが取れるんじゃないか?」
「それは、そうかもしれませんけれど。シーヴァスのお屋敷はヨーストにあるんですし」
「……まあ、わざわざ謝罪に来てくれたんだ」
正座したまま身を硬くしている彼女に合わせ、やれやれとその場に屈み込んでから。
「悪かったと思うなら、要望のひとつも聞いてもらおうか?」
「はい!」
「そうだな。5分――程度では、埋め合わせにも短すぎるな」
肩のマントを外して敷物代わりに広げ。クレアの片手を取って、その上にひっくり返す。
乱れた銀髪が、白い布地にふわっと広がり。
「えーっと、シーヴァス……?」
「今から30分間、そこでそうしていろ」
「そう、って」
音もなく仰向けに転がされた、天使は、目を白黒させながら問いかけた。
「私、なにをしたら良いんですか?」
「なにもしなくていい――というより、なにもするな」
「は?」
彼女の隣に腰を下ろし、転落防止用の手すりに背を凭せかけて。シーヴァスは欠伸を噛み殺す。
「君がさっき言ったように働き詰めだったから、一息つきたいんだ。私は」
「は、はい」
「だから静かにしていてくれ。騒々しいのは好みじゃない」
人影まばら、とはいえ甲板には船員や他の乗客もいる。大声を出さずとも押し問答を続けていては遠目にも不審に映るだろう。
「ええと……おじゃまでしたら帰ります、けど」
「ん? 無駄足を踏ませる詫びに、要求を呑むんじゃなかったのか」
「ですから、なにをしたら良いのか教えてくださいってば」
「なにもするなと指示したろう?」
困惑に眉をひそめたクレアは、それでも律儀に従って押し黙り。
「…………」
不満げな顔つきのまま、しきりに首をひねっている彼女を横目にしつつ、シーヴァスは日光浴がてらボーッとしていた。
風向き良好、快晴。
反対側のデッキで姉弟らしき子供たちが、きゃっきゃとはしゃぎ駆け回っている光景も平和で何より、である。
「……空」
しばらく所在なさげに、ころころ寝返りを打っていたクレアが、ふと眩しげに瞳を細めて言う。
「青いですね」
「晴れているからな」
つられて空を仰ぎ、シーヴァスは応じた。
「まあ最近は晴れているといっても、少々霞がかったような空模様が多いが――陽射しが強くないぶん、屋外でくつろぐにはちょうど良い」
空の蒼と海の藍、青一色の世界に。
ゆったり形を変えながら、白い雲が流れゆく。
船が進んだあとに尾を引く、きらきらと陽を照り返す水飛沫。
「……ああ、そうか。海の色でもあるんだな」
こちらの呟きを耳にして、天使がきょとんと問いかける。
「? なにがですか」
その表情から、さっきまでの硬く強張った感じが消えていることに満足して。シーヴァスは肩をすくめ笑い返した。
「さあ、なんだろうな」
休憩。仕事に追われて頭煮えてるときは、静かなところでボーッとするのが一番だと思う。海色、夜色、空色、月と太陽に照らされて印象の変わる青が好き。